背中で見てる

その音はのびやかに大地の耳に飛び込んできた。
聞き慣れた美しい音。
だが、その音の意味するところに大地はぎょっとする。
「……律…!?」
東日本大会で古傷を悪化させた律は今、練習禁止をきつく言い渡されているはずだ。少な
くとも3日は、ヴァイオリンはもちろんはしの上げ下げもまかりならんと宣言され、その
後も極力腕を使わないよう言葉を重ねて念押しされているはずなのに。
「…あいつ」
大地は苦虫を噛み潰したような顔になって、音の聞こえる方へ急いだ。
屋上へ続く階段を駆け上り、重いドアを押し開ける。
「律!」
怒鳴って、しかし。
「……っ?」
突然の大声に驚いた顔で弓をおろし、振り返ったのはかなでだった。ぽかんとしたそのあ
どけない顔の傍らには、誰もいない。
「……あ、れ?」
勢い込んできた分、気が抜けて、大地はのろのろと辺りを見回した。
「ひな、ちゃん?」
「…はい」
こく、と小さく少女はうなずく。
「…律は?…いないな。……ってことは、今ここで弾いてたのはひなちゃんかい?」
「はい」
もう一度、今度は少しさっきよりも落ち着いて、かなではうなずいた。
自分の聞き間違いだったのか。…いやそれにしても、今聞こえてきた音は本当に、律その
もののように聞こえたのだが。
「ひなちゃんの、音だったのか。…びっくりした。律かと思ったよ」
まじまじと楽器を見ても、いつものかなでのヴァイオリンだ。律のものを使っているわけ
ではない。
「楽器も違うのに、そっくりだったな」
「もともと、私のヴァイオリンと律くんのヴァイオリンは、兄妹みたいなものですから。
…木も、作った人も同じなので」
かなでは小さく笑う。それから首をかしげて。
「でもよくわかりましたね。今のが律くんのコピーだって」
「そりゃあね、オケ部で副部長をやってれば、と言いたいところだけど、…まあ、律の音
だからわかっただけだな。ずっと律の音ばかり聞いてたから。…ところで、何故律のコピ
ーを?」
かなでは困った顔になった。視線が斜め下に落ちる。
「…華って、…なんなんでしょう」
視線と同じ角度で、吐き出されるため息。
「考えれば考えるほど、わからなくなっちゃって」
「……それか」
…考えるとわからなくなるから、とりあえず自分から見て華だと思える律の音をコピーし
てみたわけか。
「…」
かなではうつむいたままだ。大地は少し身をかがめ、その顔をのぞき込んで静かにつぶや
いた。
「…ひなちゃんがつらいなら、今からでもファーストヴァイオリンを響也と代わってかま
わないよ」
そう言ったとたん、かなでがはじかれたように大地を見上げた。その瞳の中に強い抗議を
見て、大地は彼女を傷つけない程度に苦笑する。
「でもそうするつもりはないんだね」
「…。律くんが、信じて任せてくれたことです。…投げ出したくないんです」
弓を握りしめる手が白い。
「…そうだね」
…華か。
ふー、と、大きなため息を一つついて、大地はゆっくりと話し始めた。
「…ひなちゃん。俺はたぶん、アンサンブルの中で、音に関しては一番素人に近い立場だ
と思う。その俺の言葉だと思って、ある程度割り引いて聞いてもらってかまわないんだが、
……俺はね、少なくとも律のコピーは君のためにならないと思う」
かなでの丸く素直な目がこちらを見ると、どうにもモモを思い出す。そんな自分に困惑し
ながら、大地は言葉を探した。自分の考えが上手く伝わる言葉を。
「律の音は、…絞り込んでいく音だ。律にとって、理想の音は一本の糸なんだ。だからそ
の糸を探して、たくさんの音の糸の中からよりわけてよりわけて、たった一つの糸を見つ
け出す。そうやって作り上げている音だ。だけど君の音はちがう。君の音はふくらんでい
く音だ。一呼吸分の余裕が音にある。いろんな音を受け止めようと、両手を広げて待って
いるような音だ。音の良さがまるで違う」
伝わっているだろうか。大地はそっとかなでの表情を確かめる。
大地を見つめるかなでの表情はただただ必死だ。だが、呆気にとられたりきょとんとした
りはしていない。…ある程度は、伝わっているのだろう。
「…そういう意味では、律よりもむしろ八木沢の音を君は聞くべきじゃないかな」
が、大地がそう言ったとたん、かなではぽかんと口を開けた。
「ぜ、…全然違いますよ、楽器が」
「うん、そうだね」
言った大地も、ぽりぽり頬をかいている。
「でもあの至誠館をまとめているのは間違いなく八木沢の音なんだ。一本気で強いトラン
ペット、走りがちなチューバ、引っ込み思案なホルン、マイペースなトロンボーン。ばら
ばらの音をまとめあげて調和させる八木沢の音は、受け止めて許す音だ。…たぶん君の音
は、そちらにより近い」
かなでは大地の言葉を反芻しているようだ。無意識だろうか、右手の親指の爪をかみ始め
る。その指をそっと、大地は押さえた。
「…爪の形が悪くなるよ?」
言いながら、親指と中指で指を引き離す。そのとき、故意にではなかったが、人差し指が
かなでの唇に触れた。…とたん、かなでは我に返り、火を噴いたように真っ赤になった。
「…っ」
「ん?」
言葉が出てこなくてあわあわしているかなでに大地は、ああ、とつぶやいて、かなでにふ
れた人差し指を自分の唇にあててみせた。
「役得」
「大地先輩っ!!」
とたん、かなでが叫んだ。
「わかっててからかわないでください、もう!!」
「やっといつもの声になったね」
「…へっ」
間接キスの後にしては色気のない声をこぼして、目を丸くする少女の頭を、モモにするよ
うにわしわしと大地は撫でた。
「ずっと風船がしぼんだみたいな声だったからさ。…そうやって元気な声を出してる方が
ひなちゃんらしいし、ひなちゃんの音が出ると思うよ」
「…ほへ」
気の抜けた声で相づちをうったかなでの顔が、みるみるうちにくしゃくしゃになった。
「もう!……もう、もう、もうっ!…どうして、そう、…そんなふうに」
「元気出た?」
「出ましたっ!無駄にっ!」
ぱんぱん、と頬をたたいたかなでの手が、こっそりと目尻をぬぐう。大地は気付かないふ
りで、そっと目をそらす。
「もしひなちゃんさえよければ、今から少しあわせないか?」
「あ、うれしいです。ぜひ」
「俺のヴィオラを取ってくるよ。…ちょっと待ってて」
かなでに背を向け、大地は屋上の扉へ向かった。ノブに手をかけてふと振り返ると、まっ
すぐな目でかなでがこちらを見ていた。目が合うと、笑う。その瞳の優しさが、ほんの少
し痛い。笑い返してそのまま、大地は階段室へと身を翻した。
かなでのことをかわいいと思う。大切に思う。けれど大地が彼女にあげられるものは何も
ない。すべてを、律のために使ってしまっているから。
それでもかなでは、受け止めて、許す。両手を広げるようにして、笑う。
その笑顔が、音に変わればいいと思う。その音はきっと、誰の音よりも強く人の胸を打つ
だろう。凍った心を溶かすだろう。
そのためにただ一つ、自分にも出来ることがある。音で彼女の音を支えることだ。律に対
してそうするように、同じ思いで、同じ確かさで支える。…コピーでない、彼女自身の音
を。
俺には出来る。大丈夫。
閉じた扉に背中を預け、祈るようにしばし目を閉じていた大地は、短く息を吐いてから急
いで階段を下り始めた。