四分儀座流星群


目が覚めると既に朝日は白くまぶしく、ベッドの傍らは人の形に凹んでいるだけで、凹ま
せたはずの当人の姿はなかった。体をだましだまし蓬生がゆっくりと身を起こすと、ドア
の開閉音がして、大地が髪を拭きながらバスルームから出てきた。
「…目が覚めたのか。…体は?」
ことの後は必ず体調を気にするのが大地の口癖で、いつものことと思いながらも蓬生はく
すりと笑う。
「…大丈夫、とはよう言わんけど」
とたん、ひそめられた大地の眉間を、手を伸ばしてつまむ。
「そないしわ寄せてもらわんでもええよ。…いつもと変わらん」
ほ、とゆるんだ顔にキス一つ。こつんと額を合わせてから体を離す。大地は蓬生の髪をく
しゃくしゃとなでてから身支度を整え始めたが、シャツのボタンを留める手がふと止まっ
て、そういえば、とベッドに身を起こしたままぼんやりしている蓬生に瞳を向ける。
「明け方に携帯が鳴ってたよ。……結構長く。メールの着信じゃなさそうだった。一回き
りだったから緊急を要する電話ではないだろうけど、確認してみたら?」
「…明け方に…?」
ぼんやりと大地の言葉を復唱しかけて、蓬生ははっとした。
「…しもた。……忘れてた……」
「…何。…誰かに連絡する予定でも?」
「いや、ちがう」
問われた言葉に、蓬生はゆっくりと首を横に振る。
「四分儀座流星群を見よう思て、ピークの日時がわかったときにアラームかけといたんや
けど。…忘れとった」
「…そうだったのか。…ごめん」
「なんで謝るん」
大地がすまなそうな顔をするので、思わず蓬生は苦笑した。
「音を聞いたときに起こせばよかった」
「大地に流星群のこと言うてへんかったし。…それに、起こされてもたぶん起きんかった
わ」
普段なら、傍に置いたアラームに気付かない自分ではないのだ。目が覚めなかったという
ことはつまり、それだけ眠りが深かったということ。大地には平気な顔をして見せている
が、身体はまだ少しだるく重い。
「四分儀座流星群か」
身支度を整え終えた大地が、ベッドにぽすんと腰掛けた。蓬生は、肌寒くなったが身支度
を整えるのはおっくうで、また掛布にもぐる。
「知っとう?」
掛布から顔だけ出して、瞳で問いかけると、うん、と何か思い出すような目で大地は天井
を見上げた。
「流星群の時期はあまりよく知らなかったけど、名前くらいは。昔、公認星座を決めると
きに削除された星座っていうのに興味を持って調べたことがあって」
「…何にでも興味を持つんやな」
「まあね」
大地は肩をすくめて、つと肩越しに振り返り、蓬生の髪を指先でもてあそぶ。
「…にしても、おかしなものだね。四分儀座そのものはもうないのに、流星群の名前とし
てだけその名が残る」
「…別におかしないやん。星座っていう枠組みがなくなっただけで、星が消えたわけやな
いんやし。……星は今もそこにある」
星、とつぶやいて、自分の脳裏に浮かぶ顔に蓬生は少し苦笑いし、自分の髪に触れる指先
を見ながら試みにその名を口にしてみる。
「…千秋と一緒や」
ぴく、と、大地の指先が一瞬止まった。…すぐに何でもない様子で動きは再開されたけれ
ど、蓬生を見ていた瞳はややそらされる。
「この思いがどんな名前に変わっても、千秋が俺の星なんは一生変わらへん。…それとお
んなじや」
「……」
表情を隠すためだろうか、大地の頬の線はかたくなった。蓬生はくす、と笑う。
「…傷ついたん?」
「少し」
常の彼らしくない正直な吐露は、身体をかわした後だからだろうか。指は完全に止まって
しまった。顔は蓬生を顧みることを止め、ゆらり、そむけられる。蓬生の視界に入るのは
大地の背中だけになってしまった。戸惑いと淋しさで困惑し押し黙る様子が、無性に愛お
しくて。
「阿呆やなあ」
思わず口癖が口をついて出た。
「……」
大地はもちろん何も答えない。蓬生の唇にあふれる愛しさも見えていない。
「……けど、正直でかわいい。…大地」
蓬生はゆっくりと身体を起こした。大地の背中にとんと額を預け、鼻梁でシャツ越しに背
骨に触れる。
「いじけんといてや。…気付いてないん?」
「……?」
「俺の千秋への気持ちを、恋とか片思いとかいう名前から解放してくれたんは、大地やで」
ぴくりと背中が震えた。着たばかりでひやりとしていた大地のシャツは、いつのまにか彼
の熱を移してほんのりと暖まりはじめている。千秋以外の他人に対しては常に斜に構え、
触れられることをかたくなに拒んでいた自分が、いつのまにかほどかれとろかされていた
のと同じ体温で。
「星はずっと空にあるから、時々見上げるだけでいい。…俺は、地面を歩くことにした」
「…っ」
震えた肩。肩甲骨にキスして、笑って。
「…好きや」
広い背中に手を回して抱きしめる。
「大地が、好きや」
言葉にしたら、不意に熱いものがこみ上げてきて、じわりと目頭を熱くした。涙は鼻梁を
伝い、大地のシャツを濡らす。ずっと背中を向けていた大地が、そのときはっと蓬生を振
り返った。
「…蓬生」
信じられないものを見た、という顔で。
「蓬生」
繰り返し、名前を呼ぶ。…あげく、こう問うた。
「…泣いてる?」
「…見たらわかるやろ」
反射的に言い返してしまう。大地のこういうところは蓬生をいつも苛立たせる。普段は腹
が立つほど頭が良くて、蓬生が表に出さない表情までもさらりと読んでみせるくせに、逆
についうっかり素直になるとうろたえて、しなくてもいい確認をする。
睨んだら、ごめん、と素直に大地は言った。そして身体ごと蓬生に向き直り、長い腕で恐
る恐る蓬生を抱きよせる。
「目の前で泣く蓬生を見るのは初めてだ」
「……せやったっけ」
そうだよ。つぶやく大地の声が震えている。
「……あの日からずっと思ってた。……蓬生を泣かせたいって。…めちゃくちゃにして、
泣かせて、…ままならないもののこと全部泣いて流してしまって、空っぽになった蓬生が
見たい、そう思ってた」
「無茶言うてるなあ」
……めちゃくちゃにしたいと言われたことは覚えている。一見ひどいことを言っているよ
うだが、それが大地の優しさからきていることには気付いていた。
あれはこういう意味だったのか。
「俺が千秋のこと忘れるなんてありえへんやん」
「そうだな。…それに蓬生は、俺の前では絶対泣かなかった」
何をしても。何をされても。
「……俺は、君に届かないのかもしれないと、何度か思った」
夏の終わりに置いていかれた扇。遠くで聞くしかない波の音。行き止まりの海。眠る蓬生
が呼ぶのは大地の名ではなく、残した痕も、残された痕も、むなしく消える。
「何も出来ないのに。何も変えられないのに。…俺は一体何をしているんだろう、と」
「…ちょっとずつ、俺は変わっていってた。自分でも、気付いてへんかっただけで。…ち
ゃんと届いとったよ。大地の声も、手も」
人を失うかもしれないという恐怖を前に、逃げるのではなく向き合う強さを得られたのは、
それだけ自分の中で大地が大切な存在になっていたからだ。向き合って傷つくことより向
き合わずに失うことの方が怖いと思えたからだ。
…今も時々思い出す。…あの、大晦日の電話の沈黙。背筋を走った恐ろしさを。あの恐怖
を知ったから、蓬生は今まっすぐに大地を見ている。
「俺は、強なったよ。……せやから、やっと泣ける」
大地ははっとした顔になった。…それからゆっくり、表情が納得と安堵にゆるんでいく。
その子犬のような顔の額を、蓬生はぴんと指ではじいた。
「痛」
「痛いやろ。今度は、大地の番やし」
「…は?」
「千秋やからしょうがないってあきらめるんはもうやめてや。痛いんを一人で飲み込んで
優しい顔するんは、逃げてるだけやって気付いてや」
優しさを盾にして恐怖から逃げるのではなく、たとえそれが蓬生を傷つけることだったと
しても、手を離さないと約束してほしい。
蓬生の表情に、大地は何を見たのだろう。優しい瞳が、不意に強さと意地をはらむ。
「…約束する。…もう、あきらめない。逃げない」
抱きすくめる腕が強さを増した。
好きだよ、とささやいて、大地は頬に口づけてきた。くすぐったさに身をねじって気付く。
頬がひやりと冷たい。自分でも意識しないうちに、また涙があふれてきているのだった。
抑えようとしたが、どうにも抑えが効かず、観念して蓬生は、自分の涙に素直になること
にした。

塩苦いキスに自分の涙の味を知る、流星群の降った朝。