シチリアーナ いつのまにか自分は、助手席でとろとろとまどろんでしまっていたらしい。 ガリガリっ、と、耳障りな音がして蓬生ははっと我に返る。目を開けると、運転席の大地 が気まずそうな顔をして、 「ごめん」 とつぶやいた。 「寝てしまったみたいだからCDを止めようと思ったんだけど、間違えてラジオのパネル に触ってしまったんだ」 「……や、ごめんとか、別に」 蓬生はぼんやりと応じる。 「俺も、助手席で寝てしもて……。……気ぃ悪かったやろ、ごめんな」 大地はふ、と、横顔で笑った。 「いいんだ、寝ててくれ。…神戸から、朝早く出てきたんだろう。…疲れてるはずだから」 いたわる声の低く穏やかな響きに、重なる柔らかな弦の音。カーステレオは自動的にチュ ーニングする仕様なのだろう。選局された番組はちょうど、クラシックの時間のようだ。 大地が前を向いたまま手を伸ばして、その音を消そうとしたので、蓬生はゆるゆると首を 横に振りながらそれを止めた。 「ちょっとこのままにしといて。……『シチリアーナ』や」 「……。……そうだね」 大地が手をハンドルに戻して運転しながら、口元をかすかにゆるめた。蓬生も笑って、視 線を助手席側の窓の外にそらす。 ……互いに、口に出しては指摘しない。けれど思い出しているものは同じはずだ。 あの夏。セミファイナルで競い合ったとき、大地達のアンサンブルが演奏したのがこのシ チリアーナだった。 流れてくる曲は折り目正しい演奏で、編成も豪華だ。コンクールの時の星奏のアンサンブ ルとは全く違う。……それでもその音の中にヴィオラの響きを、…今傍らにいる人間が奏 でた音を、無意識に捜していることに気付いて、蓬生はかすかに動揺した。 電波の向こうの聴衆の動揺など知るよしもなく、さして長くない曲はあっさりとエンディ ングを迎え、物静かな声のアナウンサーが淡々と曲名と演奏したオーケストラの名を告げ て、次の曲に移った。 始まったのはまたも静かな曲で。 「ジョスランの子守歌か」 大地が小さくタイトルをつぶやく。 「眠なる選曲特集?」 「まだ昼前なのに?」 くすくすと笑い合って、落ちた沈黙。……問うまいと思っていたのに、その沈黙が少しや るせなくて。 「……思い出した?」 ひそり、蓬生は問うてしまった。 「……うん」 素直な頷きが返る。そして。 「……花火」 短い一言を付け加えられ、問わねばよかったと蓬生は思わずうつむいた。 微妙な空気が車内に漂う。 ジョスランの子守歌は静かな曲で、気分を変えるほど激しいものではない。なんともいえ ない雰囲気を漂わせたまま車はしばらく走り続けたが、不意に大地はウィンカーを出し、 ロードサイドのコンビニの駐車場に車を入れた。 鮮やかなハンドルさばきで後ろ向きに駐車すると、そのまま彼はハンドルに突っ伏した。 「……何。どないしたん」 問わずにおこうと思ったが、大地が突っ伏したまま動かないので、やむなく蓬生は問うた。 しかし大地は答えない。…蓬生は聞き方を変えた。 「……さかったん?」 「…ちがう」 くぐもった声で、ようやく返事があった。 「むしろその逆。…思い出したら、あの時の自分の青さというか、性急さが、…顔から火 が出るほど恥ずかしい…」 言われて思わず蓬生も口元を手で押さえ、そっぽを向いた。 思い当たる節は自分にもある。悲劇に酔っていた頃の自分。たった数年前のことなのに、 無性に幼く思えて気恥ずかしく。 「……」 車内の空気に耐えかね、蓬生はがちゃりとドアを開けて外に出ていた。深呼吸を一つして、 コンビニに入る。大地は動かない。それを見て取って、冷蔵ケースの中からペットボトル のお茶と缶コーヒーを適当に選んで精算し、戻る。 大地はまだ運転席で突っ伏していた。蓬生が戻っても顔も上げない。 蓬生はペットボトルのキャップをひねり、冷たいお茶を一口飲んだ。それから、ひたりと 缶コーヒーを大地の首筋に当てる。 「うぇっ」 奇妙な声を上げて、ようやく大地が顔を上げ、蓬生を見た。うつむいていたためか、思い 出した行為のせいか、赤くなっているその顔を蓬生は笑う。 「コーヒー。…冷たいから、頭冷えて、目ぇも覚めて、ちょうどいいやろ」 「ああ……ありがとう」 受け取ってシートにもたれ、大地はプルタブを引いた。なんとなく蓬生と目を合わせづら いのだろう。前を向いたままの横顔は未だに赤い。蓬生もそんな大地から目をそらし、お 茶をもう一口飲んだ。 「確かに、あの晩の俺ら、どないかしとったやんなあ」 「……面目ないよ、我ながら」 ごくりと、…コーヒーだけでなく一緒に何か別の苦いものも飲み下しているような声で大 地はうなった。その顔を横目で見て、蓬生は静かに笑う。 「……せやけど、大地。あの晩、大地が俺に関わろうとせんかったら、…俺ら今、こうし て一緒におることはなかってんで」 「………」 大地が蓬生に声をかけただけで何も誘わず通り過ぎていたら。ぎこちなくではあったけれ ども身体を重ねることがなかったら。…秋の扇子、冬の海。深夜の電話、…明け方の睦言。 …とぎれそうになるもどかしい恋の途中、どこかでどちらかがあきらめてしまっていたら。 ……たくさんのifは、どれもこれもこの恋の消滅を示唆している。けれど、あの夜花火 に照らされながら大地が蓬生に声をかけなければ、この関係はそもそも始まりもしなかっ たのだ。 性急さと青さは、勇気と勢いの裏返しだ、と言おうとして、…それこそ気恥ずかしくて、 蓬生は言い得なかった。 とはいえ、大地は何とか、過去の自分を思い出す恥ずかしさと折り合いを付けたようだ。 ぐいと缶コーヒーを干して、 「行こうか」 少し落ち着いた声で、蓬生にほほえみかけた。 「動揺して、すまなかった」 「……ええよ」 穏やかに蓬生も応じた。 「それより、ラジオ。…やっぱり消して、CDに戻そか。…また不意打ちくらったらかな んやろ」 「確かに」 背を少し傾けて、大地がカーステレオを操作しようと手を伸ばし、意識が蓬生からそれた、 …その隙をつくように、蓬生は大地の腕をぐいとつかみ、引き寄せて、慌てる唇に口づけ を落とした。 「……なっ……」 動揺する大地の顔がまた赤くなる。 「…先刻、さかったん?て、聞いたやろ」 「……あ」 ぺろりと自分の唇をなめて、蓬生はうっすらと笑んだ。 「…君は、シチリアーナで照れくさい気持ちになったみたいやけど、俺はな、ちゃうんよ」 つかんだ手の指先で、大地の腕の内側の柔らかいところをそっとなでると、彼の喉がごく りと鳴った。 「…君の気持ちは、俺が静めたった。…今度は君が、俺を鎮めてくれる番やで」 「……」 大地は一気に熱を帯びた眼差しを苦しそうにしかめ、 「せっかく落ち着いたのに」 とぽつりと言った。 「ごめんなあ」 へらりと笑う唇に口づけられる。先程蓬生が落としたついばむようなバードキスではなく、 深く、激しく、口内を侵すキス。 ……朝っぱらからこんな人目のあるとこで男同士がするキスとちゃうやろ、と理性がつぶ やいたが、酩酊するような感覚にすぐその常識的な発想は霧散する。……元より、誘った のは自分なのだ。 ずるりと助手席のシートに沈み込んだ蓬生を一旦手放し、大地は車を発進させた。 とろんとした声で、 「足りてへんねん、けど」 蓬生が訴えると、 「わかってる」 何かこらえているような、どこか叱咤にも似た声が返る。 操作を邪魔されたカーステレオはラジオのまま、ゆるゆると「月の光」をかなで始めた。