師君

「疲れませんか、忍人」
傍らを歩いている道臣が、見下ろしてそう聞いてくれる。いいえ、大丈夫です、と忍人は
首を横に振った。
今日は道臣と二人でお使いだ。とはいえ、行き先は少し違う。橿原宮まで行くのは同じだ
が、道臣は宮に、彼が書いた地図を届けに、忍人は四道将軍の一人に、岩長姫の屋敷にあ
った古い軍法書の竹簡を届けに行くのである。
「すいません、つきあわせて」
さっきから道臣は謝ってばかりいる。
もともと、道臣が宮に地図を持って行くだけという話だった。だが師君が突然、
「そういや、あいつに軍法書を貸してやることになってたよ。道臣、ついでに持って行っ
ておくれ」
と言い出したのだ。
……そして、その軍法書は、ついでというにはかさがありすぎた。
地図もたいていかさばるので、これをどう運ぶか、荷車でも借りるか、いやしかしそれに
は少なすぎる、と道臣が思案していたところに忍人が通りかかったのである。
困っている兄弟子に、よければお手伝いを、と申し入れるのは、弟弟子として当然だと忍
人は思うのだが、道臣は自分の仕事を弟弟子に手伝わせることが苦痛で仕方ないらしい。
羽張彦や柊なら大手を振って、「手伝え!忍人!」と巻き込んでくるのにな、と忍人は少
し不思議に思う。同じ兄弟子でも、ちょっと道臣殿はちがうな、とか思ったりもする。
とはいえ、忍人は聡い子供なので、さっきから道臣が謝るたびに、何か彼の気がすむよう
なことをお願いしなければ、と考えてもいた。だが、手伝ったお礼に何か食べたい、とい
うのも子供っぽいし(子供なのだから別にかまいはしないのだが、なんとなく自分の誇り
が傷つく)、と考え込んでいたら、少し足が遅くなって、また道臣に気遣われ、謝られて
しまった。
ううむ。
軍法書を持ち直し、考え込んで、…忍人はふと、あることを思いついた。
「では道臣殿、…お手伝いの礼というのも口はばったいですが、…一つ教えていただけま
せんか?」
道臣は少し眉を上げて忍人を見下ろし、…ふわりと笑った。
「いいですよ、何でも。…私の知っていることでしたら」
「師君の一番最初の弟子は、道臣殿だと伺いました。…道臣殿は何故、師君に弟子入りな
さったのですか?」
ああ、と小さくつぶやいて、道臣は少し昔を思い出すかのようにぱちぱちと何度か伏し目
がちに瞬いた。
「そんなことでしたら、いくらでも。……ああ、でも、そうですね、お答えする前に私か
らも一つうかがっていいですか?…あなたはどうして師君に弟子入りしたのです、忍人?」
忍人は小首をかしげた。うーんと、と一言つぶやいて。
「鬼道使いになれなかった、というのも理由の一つですが、……一番大きい理由は、師君
とお会いして、お話しして、師君が言行一致しておられることに感服したからです」
「……」
もう少し先をとうながすように、道臣が微笑む。
「師君は、ご自身を飾らない。出来ることは出来ると言い、出来ないことは出来ぬとおっ
しゃる。見栄を張る人間が多い中、とても正直でいらしたから、ああ、この方は信じられ
ると思いました」
なるほど、と道臣はうなずく。
「君らしい答えだし、…師君に関しては、まったくその通りですね」
それから、少し遠くを見て、…少し長い話になりますがと前置きし、ゆるゆると道臣は話
し始めた。
「……師君にお会いしたのは、ちょうど今日のような穏やかな春の日でした。私はまだ十
になっていませんでした。今日と同じように使いを頼まれて、一族の里から橿原宮へと出
かけていくことになったのです。父は供をつけようと言いましたが、途中山道を通るもの
の、距離はたいしたことはないからとそれを断って一人で行きました。…その山道で、3
人組の賊に襲われたのです」
あっさりつかまってしまいました、と言って、道臣は頭をかいた。
「彼らは、上等の衣服を着けた子供だから、金目のものを持っていると思ったのでしょう
か。けれど子供の私に、手持ちの金目のものなどあるはずもない。おまけに届け物は古く
さい竹簡です。彼らには何の役にも立たない。賊たちは私を木に縛り付け、このまま拐か
して親から金品を取るか、それも面倒だから着ている服だけ奪って売り払うか、というこ
とを相談し始めました」
殺す相談をされているわけではないのですが、生きた心地がしませんでした。……けれど
私は何も出来ずに、ただぶるぶる震えるばかりだった。
「……そこへ、偶然師君が通りかかられたのです」
忍人は、目をぱちぱちと瞬いた。
「何をしてるんだい、と師君に叱責されて、ぎょっとなって男たちは師君を振り返りまし
た。が、すぐになあんだ、という顔になった。誰かと思えば女性、しかも一人きり。多勢
に無勢で何とかなると思ったのでしょうね」
もちろん、何とかなりませんでしたとも。
道臣は話し始めてから初めて、苦笑をもらした。
「今思い返しても気の毒なくらい、彼らは一瞬でこてんぱんにされてしまいましたよ。三
対一だというのに、全く勝負にならなかった。そのまま、私は師君に付き添われて、無事
橿原宮までたどりつきました」
…道臣は再び、遠い目をした。
「彼らは、私を子供と侮り、師君を女性と侮った。…私は彼らに侮られたとおりでしたが、
師君は違った。…多勢で飛びかかってくる相手を前に毅然と立っていたその姿を見たとき、
…ああ、この人の強さを私も得たいと思ったのです」
……現実は、なかなか厳しかったですけどね。
道臣は肩をすくめた。
「私はまだ、弱いままです。一番古株だというのに、どんどん増える弟弟子に剣の稽古を
つけるのもおぼつかない。…古典の読み方を手ほどきするのが精一杯です」
道臣が静かにそう言うと、それまで黙って道臣の話を聞いていた忍人が、初めて口を開い
た。
「私は、道臣殿は、お強いと思います」
道臣は目を丸くして、それから寂しそうに笑う。
「気を遣ってくれなくていいのですよ、忍人」
「気を遣っているのではありません。本当にそう思うのです。道臣殿は自分の強さや得意
不得意を、冷静に分析して飾らない。……そういう気の持ちようが、お強いと思うのです」
……私はまだまだです。
恥じ入るように、子供は身を縮こめた。
「私は自分をすぐ、今以上に大きく見せようとしてしまいます。兄弟子たちと同じように
扱われたいと願い、気持ちばかり、同等に戦えるつもりでいる。…剣技も経験も、まだ彼
らには届いていないのだと、気づいているのにその現実を直視できない。自分を子供だと
は、絶対言いたくないのです」
そういうところが子供なのだと、…わかっているのに。
道臣は少し驚いた顔をした。穏やかな目がまん丸になって忍人を凝視している。視線に気
づいて顔を上げた忍人は、そのびっくりしている大きな瞳に目をぱちくりさせた。
「…道臣殿?」
「君が自分のことを、子供呼ばわりするのを、初めて聞きました」
しみじみ言われて、かーっと、忍人が赤くなる。
「……私はずっと、君には弱いところなどないと思っていましたよ」
道臣にそう言われると、なんだか猛烈に恥ずかしくて、ますますうつむいてしまう。
「……そんなはず、ありません」
消え入りそうな声で言うと、道臣は小さく一つうなずいた。
「……そうですね。…そうだったのですね。……ならば、羽張彦や柊や風早にも、何かし
ら弱いところがあるのかもしれませんね…」
静かに、噛みしめるような声だった。
ああ、と忍人は何となく理解する。……道臣はきっと、追い詰められていたのだ。後から
やってくる華やかな才能の持ち主と自らを比べて、……そして、本来の力を出せずに萎縮
していたのだ。
「ありますよ。いっぱいあります。…あんな駄目な人たちとご自身を比べないでください。
…道臣殿が、あんな自信過剰な駄目人間になられては困ります」
「…兄弟子たちに手厳しいなあ、忍人は」
こらえかねてか、ついに道臣は声に出して笑い出した。
「ありがとう、忍人」
ふるふる、と忍人は首を大きく横に振る。それを眺めて、…道臣は悪戯っぽい声で言った。
「……けれど、やっぱり私は、君の剣の才がほしいですよ」
「………」
道臣の言葉に忍人は一瞬押し黙り、
「……僭越を承知で申し上げれば」
冷静な声と顔で、続けた。
「………道臣殿は、相手を傷つけることを恐れずに踏み込めば、もっとお強くなると思い
ます」
はっ、とした顔で道臣は立ち止まる。
忍人は二歩ほど道臣より先に進み、兄弟子が足を止めたと気づいて振り返った。
「…ですので、今、弟弟子と戦っている限りは、お強くならぬかもしれません。……道臣
殿は、お優しいので、私たちに怪我をさせることを恐れておられるのでしょう」
が、万が一、……本当の戦が起こってしまったら。
「……そのときは、今よりお強くなられましょう。……相手を傷つけねば、自分が傷つく。
……そういう状況に、万が一追い込まれれば」
道臣は、何かを想像しているようだった。そして、恐ろしいものを見たかのように、ぎゅ
っと目を閉じる。
そんな兄弟子を気遣わしげに見上げて、忍人はぺこりと頭を下げた。
「……失礼なことを、申し上げました。…お許しください」
「…………。……いいえ」
…さあ、もうこの話はここまで。…急ぎましょう。
橿原宮でお使いをすませて、日が落ちるまでには師君の屋敷に戻らねばね。
道臣にそっと背を押されて、忍人はすまなそうにうつむきながらも、足を速めた。その後
ろを、自らも足を速めながら道臣は歩く。
……自分の心にわだかまる、不安と恐れに気づかないように。…急ぎ足で、歩いていく。
……やがて、橿原宮の玉垣が、覆い被さるように二人の前に立ちはだかった。