深海


「せっかくの水族館デートやのに、お相手が君なんは興ざめやなあ」
言葉通りつまらなさげな顔で、蓬生はのろのろと水族館の廊下をそぞろ歩く。
「……それは俺のセリフだよ」
傍らの大地からは呼応するような憎まれ口が返ってきたが、思いの外迫力がない。蓬生が
ちらりとうかがうと、しきりに足元を気にしている。
「…どないしたん、足」
蓬生が水を向けると、大地ははっとした顔で蓬生を見て、…ああ、いや、と眉をひそめる
ようにして苦笑した。
「靴に何か入ったみたいで」
通路は深海魚のゾーンにさしかかりつつあった。浅いところの魚の展示に比べて少し薄暗
くなっており、展示される魚たちの見た目があまりよろしくないせいか、長居する客も少
ないと見えて人気もない。
「小石かなんかか?…いつから?」
「いつからだろう。…まあでも、水族館の館内で小石が入るとも思えないし、入る前から
靴には入っていたんだろうな。それが歩いている内に足の裏に当たるようになってきて」
「遠慮してんと、一旦靴脱いで出したら」
「そうする。…ちょっと待っててくれ」
君に遠慮なんかしないよ、と、またワンクッション嫌味が来るかと思ったが、案外大地は
素直に蓬生の言葉に従った。うつむいて靴を脱ぎ始める。蓬生は手持ちぶさたに深海魚を
見ながらそれを待つ。
このゾーンは本当に人がまばらだ。それでも、通行の邪魔にならないようにとの配慮だろ
うか、大地は柱の陰で靴を振り、小石を出している。
伏せられた眼差しに、蓬生はらしくもなく、くらりときた。
「…待たせてごめん」
靴をはき直して顔を上げた、その大地のあごを蓬生は捕らえる。
「……っ」
口づけは、触れるだけのものよりももう少し濃厚だった。
「……こ、んなところで」
唇が離れたとたん、大地が叱責してくる。蓬生はにやりと笑った。
「心配せんでも、誰も見てへん」
「デートの相手が俺で、興ざめなんじゃなかったのか」
「気が変わってん。……君は?」
「……?……俺?」
「こういうところで人目を盗んでキスするんはつまらん?……それとも?」
「……」
虚を突かれた様子で一瞬大地は目を丸くしたが、…すぐにその目はすがめられ、肩をすく
めて、…返事を、唇で返してきた。
蓬生は薄く笑って、受け入れた口づけをその舌先でそっと翻弄する。
かすかにもれた艶のある呻き声は、深海魚だけが聞いていた。