神経毒


さくさくと芝を踏んで近づいてきた足音がふっと止まり、呆れたような声が上がった。
「…榊くん?……何しとん、こんなとこで」
「……土岐」
裏庭のデッキチェアに横たわって、ぼんやりと空を見ていた大地がゆっくりと身を起こす。
腰に手を当て、呆れかえった顔でその様子を見守っていた蓬生が、なぜか不意に小さく笑
った。
「…?」
「いつもと逆やな」
「え?」
「いつも、ここでぐうたらしとって、君に見つかるのは俺やのに」
大地はゆっくり一つまばたきしてから、ふっと目をすがめて笑い返す。
「…はは。…そうだね、確かに」
「…で。何してん」
蓬生は一瞬やわらかくなりかけた空気をさらりと断ち切るように、またきびきびと大地に
問うた。
「いや、……今日だろう?至誠館や神南のみんなが帰るのは。…ちゃんとさよならを言い
たいと思って、気合い入れて早めに家を出てきたんだけど、入口がどこも開いてなくって
さ。…いつもならどこかしら開いてるのに」
今度、ゆっくり大きく一つまばたきするのは蓬生だった。
「…で、しょうがないからここで時間つぶしを」
「何やそれ。…阿呆か」
そして、大地が言い終わるか言い終わらないかですばやくつっこむ。大地の顔に失笑が浮
かんだ。
「阿呆かはひどいなあ」
蓬生は肩をすくめたが、ごめんとは言わない。
「入口、な。……昨日、今夜は酔っぱらいが多いから危険や、言うて、八木沢くんがめっ
ちゃ気ぃつこうて戸締まり確認してやったわ。こんな日に、寮に戻っとらんで閉め出され
る奴もおらんやろ、言うて。……たぶんそれで、どっからも入れんかったんとちゃう?」
「……ああ、……なるほど」
ふにゃ、という顔で笑う大地に、蓬生は少し人の悪い笑みを向けた。
「…安心し。明日からはいつも通りや。…ちゃんと前みたいに、朝から如月くんの部屋に
こっそり忍んでいけるで」
「そんなこと、してないよ」
笑っていなして、…ふと大地は、適当に結んでぶらさげただけの蓬生のネクタイに指をか
け、くいと引いた。
「……それとも君は、……東金にそういうことをしてる?」
「…まさか」
蓬生は渋面を作る。
「千秋のとこに朝っぱらから忍んでいくやなんて、そんな面倒なことはせんわ。…もし欲
しかったら、宵のうちからつかまえといたらいいだけの話や」
「今日は、つかまえてないんだ?」
「たとえ話やろ。…別に俺かて、普段そんなことしてへんし」
応じながら、何かがじわりと心の底にわいてくるのを蓬生は感じていた。大地の眼差しが
奇妙に熱っぽい気がする。ふざけているだけかと思ったネクタイをつかむ指はまだ離れな
い。からみつくように、きゅ、と、握ったまま。
大地は蓬生の言葉に、唇をゆるく引いて笑って、低く、…そう、とつぶやいた。…それか
ら、ふっと思い出したように、
「…俺がどうしてここにいたかわかるかい?」
つぶやいた。
「……?…入口が開いてへんかったからやろ?」
「それもあるけど、…でも待つ場所はここでなくてもいいと思わないかい?…玄関の前で
もいいし、携帯で誰かを起こして開けてもらうことだってできるのに」
じわり、じわり、……何かがわいて、満ちてくる。
大地は蓬生のネクタイをくるくると指にまいてはまたほどくといった遊びを繰り返してい
たが、いきなり前触れなくその先をくっと引いた。不意を突かれた蓬生がバランスを崩し、
倒れ込んでくるのを難なく受け止めて耳朶に唇を寄せる。
「…君はここが好きだから、…ここで待てば、もしかしたら君に会えるかと」

…さよならを言う前にもう一度だけ、君に触れてみたかった。

蜜のように甘い声がささやき、かすめるようなキスをうなじに一つ。
「…念願叶って、満足だよ」
そして、何事もなかったかのように蓬生を助け起こして立たせ、自分もデッキチェアから
立ち上がった。
「…さて、そろそろ行こうかな。…土岐はそこの裏口から出てきたんだよね。入口を開け
てくれてありがとう。皆が二日酔いでよれよれしながら起きてくるのを、ラウンジで楽し
く待つことにするよ。……君は?」
肩越しに振り返るその眼差しが、いつもの通りに明るくさわやかで、立ち居振る舞いもき
びきびしているのが妙に腹立たしい。…蓬生はふいと顔を背けた。
「…俺は、この裏庭に別れを惜しみに来たんや。…君がいて調子狂った。…しばらく放っ
といてや」
「……了解」
大地の声が奇妙な笑みを含んでいる気がしたが、振り返って確認するのもきぶっせいで、
蓬生はあらぬ方を向いたまま、遠ざかる足音がドアを開けて寮内に入るのを待った。
やがて足音が消え、彼の姿も気配も自分を見張ってはいないと得心してから、蓬生は大地
の唇が触れたうなじに手を当てる。
…どくどくと、自分の血が脈打つのがわかる箇所。
…大地も気付いただろうか。触れてみた蓬生の脈が、驚くほど早かったことに。

『…もう一度だけ、君に触れてみたかった』

蜜のように甘い睦言は、神経毒のように蓬生を麻痺させ、侵し、広がる。

『念願叶って、満足だよ』

「…一人だけ、満足せんといてや。……阿呆」
毒づいて、蓬生はごろりとデッキチェアに横になった。
片腕で目を隠して仰向けば、吹きすぎる風はもう、秋。