しっぽの秘密

自分と師匠の姿の違いに那岐が気づいたのは、いくつの時だったろう。
なにしろ、ほとんど訪れるものもない山奥の庵での二人暮らしで、他人と自分を見比べる
ことなどほとんどなかったから、自分が忌み子と呼ばれる姿形をしていることに気づいた
のは、物心ついてかなりしてからだったのだが。
……師匠と自分の姿の違いに気づいたのは、もう少し早かったはずだ。
…きっかけは、…そうだ、しっぽだった。

「……師匠。…ねえ、師匠」
那岐は、背中からべったりと師匠になついた。……まだ確か、それが許されるような年格
好だったと記憶している。
「なんだ」
「なぜ師匠には尻尾があるのに、僕にはないの」
「…それは、お前が人で、俺が狗奴だからだ」
「……ひと?……くな?」
「…空を飛ぶ鳥にも、雀もいれば、烏もいるだろう。…それと同じだ。世の中には人とい
う種族と狗奴という種族がいる。…もっといろいろな姿の種族もいる」
「……ふうん?」
那岐は少しがっかりした。
「…なんだ?…何をしょげている」
不思議なことに、那岐が考えることはいつも師匠にはお見通しだった。あれはいまだに那
岐にはわからない。どうしていつも彼には那岐の気持ちがわかったのか。
「……僕は、…僕にも大きくなったら生えてくるのかと思っていたんだ」
「尻尾がか?」
「…うん」
師匠は突然、わっはっはっはと肩を揺すって大笑いした。なんとなく悔しくて、那岐はそ
の背中をぽかぽかたたく。すると、ああいい気持ちだ、もっとたたけたたけ、もっと強く
てもいいぞ、などと師匠が言うから、もっと悔しくなってぽかぽかぽかぽかたたく。
「………」
はあはあ言って、那岐はごろりと庵の床に転がった。
「なんだ、もう終わりか。…気持ちがよかったのに」
「…疲れた」
「そうか」
師匠はよいしょと立ち上がって、瓶から水をくんで那岐に渡してくれた。
「那岐は尻尾がほしいか?」
「うん。…寝るときに枕にすると気持ちがいい」
「枕か!」
また師匠はげらげら笑い出す。ぷう、と那岐がふくれると、すまんすまん、と笑いおさめ
て。
「……だがなあ、那岐」
しみじみとした声で、言った。
「…やがては、我々も全て、お前のような姿に、…お前たち人という種族と同じ姿になる
だろうよ」
那岐はぱちぱち、とまばたいた。
「…それは、尻尾がなくなるってこと?」
「ああそうだ」
「耳もふさふさじゃなくなるって?」
「ああ、そうだよ」
「………どうして?師匠もなるの?」
「わしはならない。…わしはならないが、…そうだなあ。…わしの孫の孫のそのまた孫く
らいの世代はもう、…我々のようにふさふさした格好はしていないだろうなあ」
「………どうして?」
「どうしてかは、わしにもわからないよ。……ただ、そうなるだろうということしかわか
らない。……時が、そうなるようさだめているのだということしか、わからないんだよ」
ううん、と那岐はうなる。
「…どうした」
「もったいないね」
「そうか」
「だって、せっかくいい枕なのに」
「また枕か!!」
師匠はまた爆笑した。

お前はよほど、寝ることが好きなのだなあ。

「…君はよほど、寝ることが好きなのだな」
………あれ?
那岐は、ぼんやりした頭でぱちぱちと何度か瞬きした。
……おかしいな。…僕今、師匠としゃべっていたはずなんだけど。…あれ?
「…寝ぼけているのか?…というか、もしかして目を開けたまま寝ているのか、那岐?」
声は頭上からする。師匠の声よりは少し高い声。…あれ、ここは?
まぶしい光が木々の枝越しに差し込んでくる。明るい昼下がり。秋の風が肌に心地いい。
山の中の庵とは、空気が違う。
「……あれ?」
那岐は声のする方を見上げた。
「………忍人」
将軍様は、あきれかえった、という顔をして、上から那岐の大事な昼寝場所をのぞき込ん
でいる。
那岐は、自分の大切な昼寝場所を誰にも内緒にしておこうと思っていたが、千尋には見つ
かってしまった。そして、常日頃、することがなくなると堅庭に来てぼんやり先端で風に
吹かれている忍人にも、先日見つけられてしまった。
「…寝ていたのか。……目を開けているから、起きてぼうっとしているだけかと思って話
しかけたんだが」
「………寝てたのか、起きてぼうっとしていたのか、…自分でもよくわからない」
見上げながら言うと、なんだそれは、と、忍人は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「…師匠のことを思い出していたような気がしたんだけど、…単に師匠の夢を見ていただ
けかもしれない」
忍人は、ふと表情をゆるめた。
「………そうか」
…ああ、忍人も僕の師匠が好きだったんだなあ、と、…そのやわらかい忍人の表情を見る
たびに那岐は思う。…そう思ったら、なんだか無性に忍人と話したい気分になってきた。
「………あのさあ、忍人」
「…?」
「見上げて話すのは疲れるから、できればここに降りてきてくれない?」
君があがってくるという選択肢もあると思うが、と一言言いつつも、忍人は素直に那岐の
いる場所に降りてきた。
「しかし、本当に目を開けたまま寝ていたのだとは思わなかった」
冗談で言ったのだが、と、忍人は呆れたと言いたげに首を振る。
「それはね、特技なんだ。…目を開けていれば、授業中寝ていてもばれない」
「…授業?」
「異世界の橿原ではね、高校ってところでみんなでお勉強するんだよ。…そのときに、寝
ていられる」
「…何度も言うが、…君は本当に、寝ることが好きだな」
「…それ」
「は?」
「さっき、僕の夢の中で同じことを師匠が言ったんだ。…だからさっき忍人がそう言った
とき、師匠に言われたのかと思った」
ふ、と忍人が笑った。
「……そういえば、師匠の夢を見ていたと言っていたな」
「うん。…まだ子供の僕が……」
言いかけて、ふと、那岐は口をつぐんだ。
脳裏をふとよぎる、少年の姿。
「…那岐?」
「夢の話をする前に、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「…何か?」
「知ってたらでいいんだけど。…足往の両親って、両方とも狗奴?」
忍人は、何を突然、という顔をしたが、それでもあっさりと首を横に振った。
「…いや、母方が人だと言っていた」
「…ああ」
やっぱりそうなのか、と那岐が得心していると、
「それがどうかしたか」
少し低い声で忍人が言う。
「あまり足往の前では言うな。…自分でも気づいていないようだが、気にしているようだ」
「別に言いはしないけど、…何を気にしているって?」
「足往は、他の狗奴の若い兵と比べても、腕力が少し足りない。本人は自分の鍛錬が足り
ないせいだと言っているし、俺もそうだと思うのだが、純粋な狗奴の兵たちの中には、彼
が混血だからだと言う者もいる。…言わせないように、気をつけてはいるんだが…」
「………」
なるほど、と那岐は思う。
異形を嫌うのは人の特性かと思っていたけれど、そうでもないんだ。…狗奴も同じなんだ
ね。
「…僕は別に、そういう意味合いで言ったんじゃないよ」
「わかっている。…だが、なぜ、それを聞いた?」
「以前、師匠と話したことを思い出したんだ。思い出したというか、今夢で見ていたのが
それなんだ。その頃は、僕もまだほんの子供で、師匠の言っている意味がよくわからなか
ったんだけど」
……やがては、我々も全て、お前と同じような姿になるだろう。
「今はまだならないけど、師匠の孫の孫の孫か、その孫か、…いずれは、狗奴は人と同化
する。狗奴の姿は淘汰されていくだろうって」
「……?…なぜだ」
「わからない。…師匠もわからないと言ってた。何故そうなるのかはわからない、ただ、
そうなるように時が定めているんだと」
たった一代交わっただけの足往は、既に、耳と尾を除けば人に近い姿をしている。姿だけ
でなく腕力も、狗奴の若い兵の陰口通りだとしたら。
足往がもし人と恋をしたら?…いや、狗奴の少女に恋をしたとしても、その子供に人の姿
が優勢遺伝的に出たとしたら。
………やがては、…狗奴の姿はなくなってしまうのだろう。
忍人に遺伝学の話をしても通じないだろうとは思いつつ、那岐がかいつまんで自分の考え
を話すと、全てはわからないながらもなんとなくは伝わったようで、忍人も考え込む顔に
なった。
「……今はまだ、狗奴の一族はそんなに差別されていない。…けれど、こうやって血が混
じってどんどん純粋な姿の狗奴が減っていったら。…やがて差別されたり忌避されたりす
るようになるだろう。…日向がそうしているように、一部の地方に隠れ住んだり、他者と
交わらなくなったりしていって、…」
その先を、狗奴の一族と親しい忍人に言うことは気が引けて、那岐が言葉を濁すと、察し
のいい忍人は気づいたのか、肩を一つすくめた。
「聞こえのいい言葉で言えば、…消えていってしまう、というわけか」
「…そうだね」
那岐は膝を抱え込んだ。
「なんだか、…さびしいよね」
その姿勢のままうつむくと、逆に忍人は木漏れ日したたる木々の枝を見上げて。
「……では、…早く二ノ姫の手に中つ国を取り戻そう」
「…ちょっと待った。…いや、その事実に別に文句はないけど、なんで突然そういう展開
になるわけ!?」
がばりと那岐が顔を上げると、忍人は平然と、
「…二ノ姫は、種族だの異形だのにこだわる性格ではないから」
と言った。
「…君主がそういう意識なら、民にもその意識は伝わっていく。…師匠の言うとおり、い
ずれは狗奴の姿が淘汰されていくのだとしても、二ノ姫の治世が長ければ、その淘汰の時
期も少しは先送りされるだろう」
・・・・・・・・。
「……忍人って本当に、……寝ても覚めても国奪還のことと千尋のこと考えてるんだね」
那岐は他意なく言ったのだが、かすかに将軍様が耳を赤くしたところを見ると、…本当に
寝ても覚めても千尋のことを考えているらしい。
…年上だけど、こういうとこかわいいなあ。
「……しかし、…君が、狗奴の一族に愛着を覚えているとは、初耳だった」
話をそらそうとしてか、無理矢理に忍人が話題を変えた。
「そりゃあ、師匠の一族だし、…それに、子供の頃の豊葦原では、僕は、人より狗奴の姿
の方を多く見てたからね」
師匠のところを訪れるものは多くはなかったが、それでも皆無ではなかった。が、人より
は狗奴のほうが多かったのも事実である。
「……そうか」
…そうだろうな、と忍人が一人ごちる。
「それに、僕は、狗奴の姿形が好きだよ。…あの尻尾、枕に最適」
「…枕……」
しんみりしていた忍人が、その言葉を聞いてがっくり肩を落として額を押さえた。
「…那岐。…君は本当に」
「もういいよ、何回も言わなくても」
どうせ、寝るのが好きだなって言いたいんだろ。
むっつり那岐がそっぽを向くと、うつむいた忍人がくくっと喉をふるわせて笑い出した。
一度声に出して笑ってしまうと止められなくなったようで、くっくっといつまでも笑って
いる。
笑われているのが自分だというのはあまりうれしくないが、忍人が声に出して笑うのは珍
しいし、その笑い声は鳩のように柔らかくて、なんだか心地いい。
そう思うと、なんだか那岐も笑えてきた。

堅庭の端で、楽しそうな笑い声が二重奏を奏でる。
…とても珍しい光景に、誰も気付かない、秋の日の午後。