白麒麟

風早は、先ほどから朱雀の磐座の前で立ちつくしていた。
磐座に宿っているはずの朱雀は、風早の語りかけに何も答えない。外の世界に注意を払っ
てみても、玄武や白虎、青龍のいらえはない。
白龍が世界を消して、外は混沌だけが残っているはずだ。みな、引き揚げたのだろうか。
…いやだが、まだこの身に青龍の力が宿っているのを感じる。天鳥船が飛んでいるのも、
船自体が崩壊してしまわないのも、朱雀が力を貸しているからのはずだ。
彼らは何かを待っているのだ。おそらくは、白龍が出した結論に対する、人間の答えを。
その答えを出すのは風早ではない。この船に乗る人間、とりわけ、千尋がどう決断するか
にかかっている。
……彼女は今、どうしているだろう?
「…風早?ここにいたのか」
物思いにふけりすぎたか、風早は磐座への扉が開いたことに気づかなかった。
振り返ると、忍人がゆっくりと近づいてくる。
「…忍人。…堅庭の入り口は?」
「今、狗奴の兵数人に任せてある。彼らを押しのけて堅庭に出られる人間はそうはいまい。
…二ノ姫がどんな無茶を言い出しても聞くなと言ってあるから、心配いらん」
自分の不安を言い当てられて、風早は少し笑った。
「…てっきり二ノ姫と一緒にいると思ったが。…なぜここに?」
「朱雀に力を貸してもらえないかと思ってみたんだが。…反応がないね」
「………」
忍人は腕組みをしたまま、ほんのわずか、首を右に傾けた。
「………それに、今、千尋には一人で考えてほしいんだ。…白龍にどう立ち向かうか、彼
女の考えで決めてほしい」
「…君が、白麒麟という神だからか?」
「……」
「風早という一個の人間として、二ノ姫の考えを手助けすることは、もうできないと?」
風早は無言でうっすらと笑う。風早として千尋を助けたいとは思うし、それができないわ
けではない。だが、自分の意思や意見を告げれば、千尋の結論に影響が出るのは間違いな
い。そして、それが風早としてのものであれ、白麒麟としてのものであれ、白龍は神が人
の手助けをしたとみなすだろう。
「君たちは、俺がどんな見た目でも、風早と呼んでくれるだろう。それと同じで、白龍に
は俺がどんな見た目でも、白麒麟にしか見えないんだ」
忍人の問いの答えからはややはずれた言い方しかできないが、言わんとすることは彼にも
伝わっただろう。軽く目を伏せて忍人は肩をすくめる。
「…本当に、麒麟なんだな」
しみじみとした声で彼はつぶやいた。
「驚いたかい?」
「驚いたというか…」
そこで忍人がふと微笑んだので、逆に風早の方が驚いてしまった。
「なにかおかしいことでも?」
「いや、…なんというか。…俺は、千年も万年も生きてきて、これからもきっとそれくら
い生き続ける相手に向かって、子供扱いするなと言ったのかと思うと…」
「……っ」
思わず風早も微笑んだ。
「おかしいだろう」
忍人がふいと顔を横に向けて拗ねたように言うので、風早はあわてて声をかける。
「おかしくなんかないさ。…今のはただ、君と初めて会った時を思い出しただけだ。みん
なが、子供が来た子供が来たって騒いでいるのに、子供扱いするなとまるで大人のような
口調で言って。…かわいかったなあ」
「………かわいいとは言われたくない」
忍人はむっとした。
「かわいかったよ。…君も姫も。…初めて会ったときは、君たちがどう言おうが、君たち
はまだほんの子供だった。…それなのに」
岩長姫をひきついで、天鳥船の主軍をほぼ一人で采配する忍人。どんなに厳しい決断を迫
られても、たじろがずにきちんと考えて答えを出す千尋。
「……人というのは、本当に急いで大人になってしまうものだね」
ススキの原に隠れてしまうくらい小さかった千尋はもういない。自分の体半分よりもまだ
長い剣を力一杯に振り回していた元気な子供だった忍人も。
過去を振り返る老人のような顔をした風早に、忍人はふんと鼻を鳴らす。
「風早の速度で大人になっていたら、大人になった頃にはもうご老体だ」
「はは、相変わらず忍人は大げさだなあ」
くすくすと笑う風早を、忍人は不意に、何かはかるような眼差しでじっと見つめた。
「……風早」
「何だい?」
「……君たちがいたという異世界にまで、白龍の力は及ぶのか?」
唐突な話題の転換に、一瞬風早は忍人の会話の意図をつかみ損ねた。
「…いや?それは及ばない。あそこは白龍も獣の神も手出しはしない。我々が住む世界で
はないから、そちらに干渉することは許されない」
「…………ならば、二ノ姫と…そうだな、那岐や布都彦くらいなら、…連れて、そちらの
世界へ行けるか?」
「………!」
そこまで言われて、ようやく風早は忍人の意図を理解した。
「……それは、……つまり、逃げろと言っているのか?俺たちに?」
「………できるのか、できないのか?」
忍人は風早の質問に答えず、重ねて問いかける。
「忍人。…君がそれを言うのか」
たとえ誰が逃げ出しても、将たるものだけは最後まで逃げてはいけない。それが将として
の義務だ。……忍人なら真っ先にそういうはずだ。それなのに。
言いつのろうとした風早を、忍人が片手で制した。まっすぐな黒い瞳がじっと風早を見つ
めている。
「みな、心の中では思っているだろう。誰も言わないだけだ。…俺が率先して言わなけれ
ば、たとえ君や二ノ姫がその考えに思い至っても、君たちはその可能性を排除するかもし
れない。そう思った」
「だが忍人。君が言うのか」
「……風早。この船の外にあるのは戦場じゃない。神が作り出した混沌だ。逃げるという
言い方が悪ければ、生き延びてほしい」
そこまで一気に言って、忍人は唇をかんだ。……そして、ささやくように付け加える。
「………頼む。……俺は、二ノ姫に死んでほしくない」
日々の鍛錬でもあまり日に焼けていない忍人の顔色が、今日はいっそう白く見えた。苦し
げに唇をかんで、己の信念を詭弁でごまかして。……そこまでしても。
「姫は、俺の希望だ。……姫が生きている、そう思うだけで、…他の全てを失っても救わ
れる気持ちになる」
風早は忍人の白い顔を見つめ、やがて長く深い吐息をついた。
…千尋がその選択をする、…その可能性に考え至らなかったと言ったら嘘になる。彼女は
異世界の橿原での生活を愛おしんでいたし、内心、こういう状態にさえならなければ、帰
りたいと思ったこともあるだろう。だが。
「………忍人。…異世界へは行ける。二ノ姫と那岐と布都彦だけじゃない。サザキや柊、
遠夜、道臣やアシュヴィン、……そうだな、10人くらいまでなら、なんとか連れて行け
るだろう。……もちろん君もだ。………だが、この船にいる全員を連れて行くことはとて
も無理だ。兵たちや、村人たちはおいていかなければならない」
「………」
忍人は目を伏せた。風早は静かに問いかけた。
「……君は、行くか?」
「俺は行かない」
即答だった。
「なぜ」
「俺は、兵たちに責任がある。…俺だけは、最後まで残らねばならない」
「……」
風早は静かにうなずいて、そして言う。
「……忍人。君と共にここまでを戦ってきた千尋が、君がさっき言ったような選択を是と
すると、本気で思うのか」
「………」
風早は、忍人の左肩に片手を乗せた。
「俺は、豊葦原に帰ってきて間もない頃、千尋に言った。俺が逃げろと言ったら、たとえ
誰を見捨ててもちゃんと逃げて生き延びるようにと。……千尋は、わかったと言ってくれ
た。……だが、今彼女にそれを言ったとき、わかった生き延びると言ってくれる気が、俺
にはしない」
子供たちは、ある日突然大人になる。……千尋も、忍人も。
千尋はもう、何も知らなかった子供ではない。中つ国に生きる多くの人々の未来を、共に
戦う兵士たちの命を、あの両肩に背負う覚悟を決めている。
たとえ風早が言っても、忍人がどう主張しても、千尋は己の意思を譲るまい。
「俺がお育てした姫に、間違いはないからね」
「……そうか?」
「言っておくけど、忍人。将軍としての姫の育成は、大部分君の責任だからね」
「なっ……!」
叫びかけた忍人だったが、はたりと動きを止め、腕を組んで、頭痛をこらえるように片手
の指先を額に当てた。
「思い当たるだろう?」
風早がおっとり笑うと、
「…完全には否定できない」
むっつりと応じた。それから、肩でため息をつき、くるりときびすを返した。
「忍人?」
「堅庭へ戻る」
「朱雀の磐座に、何か用があったんじゃなかったのかい?」
「もうすんだ」
…この場所に用があったわけじゃない。用があったのは君だ。君にさっきの話をしたかっ
た。それだけだ。
「君に話したら、気が済んだ。…姫には言わないでくれ」
「…ああ」
そのまま背筋を伸ばして出て行きかけた忍人が、不意に足を止め、激しく咳き込んだ。
「…忍人!」
近寄ろうとした風早を、彼は片手で制する。
「何でもない、大丈夫だ」
「大丈夫なはずがないだろう、そんな咳をして!」
「本当に大丈夫だ。…心配させてすまない。じゃあ」
かたくなな背中が、風早を拒絶している。無理をして、ぴんと背筋を伸ばしているのがわ
かる。そのまま、一度も風早を振り返らずに忍人は出て行ってしまった。
「………」
風早は、長い長いため息をついた。
千尋の選択如何によっては、この船に乗っている全ての人間が、間をおかずに命を落とし
てしまう運命だとわかっている。それでも、もういない背中にこう話しかけずにはいられ
ない。
「…君たちは、どうしてそう、急いで逝ってしまおうとするんだ」
羽張彦と一ノ姫の運命は、どうあっても変わらなかった。那岐と千尋は黄泉の国をさまよ
いながらも戻ってきてくれたが、忍人の運命は変わらないのか。どの糸を選んでも、破魂
刀の切っ先が忍人の喉元をねらう運命にしかつながっていないのか。
人は、人同士で多くの命を奪い合ってきた。だからこそ、人という生き物は死に絶えねば
ならないと白龍は言う。忍人も、多くの人の命を奪ってきた。その代償が彼の命なのだと
言われればそれまでだが。
……白麒麟よ。その手の中にある命ばかりを愛おしむなら、それはもう人と同じこと。お
前はすでに神としての資格を失っているのだ。
「……!」
その声は、おそらく朱雀のものだった。気配は相変わらず感じ取れないが、どこかでこの
船を見守っているのだろう。
「……わかっている。……だが朱雀。俺は、神であったときには、命がこんなに愛おしい
ものだと知らなかった。神のままでいてはこの大切な思いに気づけなかった」
大切な大切な千尋だけではない。人と化したばかりの風早に恋することのすばらしさを教
えた一ノ姫と羽張彦。めまぐるしいような成長がまぶしかった忍人。すねたり怒ったり、
風早が知らなかった感情をたくさん覚えさせた那岐。
「手の中にある命だからこそ、その本当の愛おしさがわかる。……この思いを忘れてしま
うくらいなら、俺は…」
……俺はもう、神には戻らない。

風早は、決意を秘めた目で朱雀の磐座に向き直った。
その背後に、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきていた。