白地図

忍人が参考書を広げている隣の机で、那岐が白地図のプリントを広げている。図書館の本
や副読本の資料集とにらめっこでなにやら書き込んでいるところを見ると、宿題か何から
しい。
ふと、その地図に気を取られる。
世界地図だ。その地図の中で、忍人が今いる日本という国はあまりにも小さい。おまけに
自分が知るのは、その日本の中のごく一部でしかない。地図の中で見れば、ケシ粒よりも
小さな点でしかないのだ。
忍人の視線を感じたのだろうか。ふと那岐が顔を上げ、椅子を回して忍人の前に白地図を
ひらひらさせてみせた。
「…宿題か」
「うん」
見ればわかるだろ、とは言わない。風早に対しては大人ぶろうとする彼だが、忍人にはど
こか仲間意識のようなものが働くらしく、意外と素直だ。
「前に、ここに来てすぐの頃、風早がさ」
那岐は地図を膝の上に置いたまま、ふとそう話し出した。
「ここは、僕たちのいた豊葦原の双子のような世界なんだって言ってた」
ぽつん、と那岐のシャープペンシルが打った点は、日本列島のおよそ真ん中にあって、ひ
どく小さい。
「だとしたら、…豊葦原の中つ国の外にも、こんな風にたくさんの国があるのかな」
忍人はじっと白地図を見つめて、…そうだな、と静かに言った。うつむいて白地図を眺め
ていた那岐が顔を上げる。
「この世界と同じくらい、たくさんの国に分かれているかどうかは知らないが、…中つ国
の海の向こうには大陸がある。非常に稀にだが、使者が来ることもあるそうだ。海を渡る
ことが難しいから、滅多とないことだそうだが」
那岐はぽかんとした顔をした。
「…常世じゃなくて?」
「常世ではなくて」
忍人が同じ言葉を重ねて肯定すると、那岐は何度か瞬いて、…それからうつむいた。
「…初めて聞いた」
「……」
宮中でも秘されていることなのだから、那岐が知らないのは無理はない。海の向こうに他
の国があることなど、中つ国の施政者としては知られない方がいいのだ。
「子供の時はずっと、…あの山の中の小さな庵だけが、世界の全てだと思っていたのに」
うつむいたまま那岐がつぶやく。忍人は、その小さく見える丸い頭に手を載せようかどう
しようか迷って、…結局載せた。…子供扱いするなと怒られるかと思ったのだが、那岐は
何も言わなかった。
「…俺だって、子供の時は自分の邸が世界の全てだった」
那岐の肩がこわばるのがわかった。忍人と自分は違う、…そう思っているのが伝わってく
る。気にせず、忍人は言葉を続けた。
「少し遠くまで歩けるようになると、里の外まで出て行けるようになった。もっと足が強
くなったら、今度は橿原宮まで連れて行ってもらった。宮を見たときはこんなに広い場所
がこの世にあるのかと思ったが、馬に乗れるようになるともっと世界は広がった。船に乗
ればなおのこと」
進めば進むだけ、世界は広がる。
「俺は、大陸の存在を知ってはいるが、たどり着いたわけではない。そういう意味では君
と同じだ。いつか、君の方が先に大陸にたどり着くかもしれない。……いや、そもそも」
忍人は部屋をぐるりと見回した。
蛍光灯。窓硝子。紙。筆記具。本。音楽プレイヤーやエアコンは言うに及ばない。豊葦原
では想像もつかない品々が、当たり前のようにある世界。
「俺たちは、本当ならここに来ることすらなかったはずなんだ」
世界はどこまで広いのだろう。ここに生きる人達が知らないだけで、もしかしたら白地図
が表す世界の外にもまた、別の世界があるのかもしれない。
「……」
忍人の脳裏に白地図が広がる。その白地図の下には、もっと大きな白い地図がひかれてい
る。そしてその地図の下に、もっともっと大きな白い地図が……。
それはめまいがするような感覚だった。
自分たちがいる世界を見ている誰か。その誰かのいる世界を外から見ている誰か。…その
誰かを見ている、もっと大きな世界の誰か……。
もし、自分が実際にたどり着けた場所にだけ色がつく地図があったとしたら。その地図は
きっと、どこまでも果てしなく白いのだろう。
「…忍人?」
呼ばれてはっと忍人は我に返った。那岐が心配そうに自分をのぞき込んでいる。
「……大丈夫?…何、考えてた?」
「すまない、大丈夫だ。……たいしたことを考えてたわけじゃない」
那岐はまじまじと忍人を見つめた。それから、眉間にかすかなしわを寄せ、迷いながら、
言葉を紡ぐ。
「……世界の果てでも見てきたような顔をしていたよ」
「………」
忍人はうっすらと笑った。
世界の果てに行ければいい、と思う。
小さな小さな点の中に戻り、姫に痛みを味合わせるくらいならいっそ、地図をはみだして
世界の果てへと行ってしまいたい。
……このまま、彼女が何も思い出さなければ。
「……俺らしくもない」
ぼそりと言った言葉に、那岐がまた心配そうに眉をひそめた。だが、今度は何も問わなか
った。問うても忍人が答えないと思うからだろう。
代わりのように、ぽつりつぶやく。
「果てなんて、なければいい。……終わりなんて、なければいいのに」
それは、地図に書かれた世界のことなのか。…それとも、この穏やかな暮らしのことなの
か。
忍人にはわからなかった。……つぶやいている那岐にもわからなかったかもしれない。