知るや君

星奏オケ部の全体練習は、パートごとに別れてのチューニングから始まる。クラスの用事
や当番などで開始に遅れた生徒はだいたい、チューニング中に飛び込んできて、慌てて準
備をすませるのが常だ。
その日、遅れてきたのは大地だった。
といっても、チューニングを開始した直後に走って飛び込んできたのでそう遅れたわけで
はない。愛用のヴィオラを慌てて準備する。そのままチューニングに加わるのかと思った
ら、不意に彼は立ち上がった。
「律」
何事かを耳打ちされた部長は肩をすくめ、
「チューニングを続けていてくれ」
言い残して大地と連れだって準備室へ入っていった。
去年の秋以降、よく見かける光景なので、部員達はあまり気にしない。部長副部長なので
クラブに関することを簡単に打ち合わせるのだろう、くらいに思っている。
…しかし、実際は違った。

「シャツの上から見てわかるくらいゆるんでるぞ、テーピング。…それじゃほとんど意味
がないだろう」
眉をしかめる大地に言い訳するかのように、
「朝急いでいて時間がなかった」
律は言う。…会話しながらも律はさっさと手首のボタンを外して袖をまくり上げ、大地は
手際よくゆるんだ包帯を巻き取る。
「最近病院に来てないだろう。…調子はどうなんだ」
「……」
「……黙るってことは、あまりよくないんだな」
大地はため息をついた。都合が悪くなるとお前は黙るよな、と言われて、律は思わず目を
そらす。
「…時間がないんだ」
「時間外に来ても俺の親父なら診るよ。お前の腕のことはずっと気にかけているからな。
何なら、俺から一声かけておく」
「…大地」
そこまでしなくていい、と言いかけた律に、大地は眉をしかめたまま言った。
「…悪化してる、少し手を休ませろ。……そう言われるのが嫌なんだろう?それとも怖い
のか。…だが、本番は夏だ。夏の大会で、お前が弾けません、というのがオケ部としては
一番困るんだ。だから、今のうちにちゃんと医者に診せておけ。休ませろと言われたら従
え」
外ではチューニングが続いている。二人の会話がもれ聞こえるはずもない。
…それでも大地は声をひそめ、律も押し黙る。
誰にも知られてはならない。部長が、爆弾を抱えていることは。
「…今日、うちに来い」
ぼそりと大地は言った。
「何時になってもいいから来い。で、親父に診てもらえ」
「…大地」
言いかけた律を制するように、大地はかすれる声で言った。
「…頼む。…そうしてくれれば、俺の気も済む」
律はかすかに目を見開いた。
「…お前の…?」
「…ああ」
うなずいて大地は少し目をそらした。
「…お前の手が診察も受けずにどんどん悪化しているんじゃないかと思うと、いてもたっ
てもいられない気持ちになるんだ。…だから、俺のためだと思って、一度診察を受けてく
れ。そうしてくれさえすれば、結果が良くても悪くても俺は安心できる」
「………。…わかった」
少し間を開けてから、律はこくりとうなずいた。
「今日、帰りに寄る」
「…そうか」
大地は目に見えてほっとした顔になり、ほどいた包帯をあらためて巻き始めた。…が、途
中で顔をしかめてまたほどく。
「ずいぶんいたんでる。新しい包帯で巻き直すよ」
まさか常備しているわけでもないだろうが、彼はポケットから真新しい包帯を取りだして
巻き始めた。きびきびとした手つきは手慣れている。
が、もう少しで巻き終わるというところで彼は少し慌てた様子でポケットを探り、再び顔
をしかめた。
「どうした」
律が聞くと、
「ハサミがない」
短い答えが返る。
「…ハサミ?」
オウム返しに言ってから、ああ、包帯が切れないのか、と気付く。
「かばんにはあるんだが、取りに戻ってまた準備室にこもるのも変だしな。余計な詮索は
されたくない」
…しかたがないか、とつぶやいて、不意に大地は律の手首に唇を寄せてきた。
「………!?」
さすがの律も驚いて、手を引っ込めようとすると、大地が
「じっとして」
とたしなめるような声で言った。
「すぐすむ」
その声はひどく事務的でそっけない。
言われた律が身を固くして動かなくなると、改めて大地は律の手首に唇で触れた。
大地の熱が、息が、包帯から手首の皮膚の薄いところを通して血管に流れ込んでくるよう
だった。
突如沸点までわき上がった血が、心臓に一気に流れ込んでくる錯覚にとらわれて、律はき
つく目を閉じる。鼓動がトレモロよりも早く激しく、耳の中で鳴り響く。

……その唇で触れてほしいのは、手首などではないのだろう?

…己ではない己にささやかれた気がして律がはっと目を開けるのと、ぴっというかすかな
音がして大地が顔を上げるのが同時だった。
見ると、包帯のふちが歯でかみ切られている。そこから無造作に包帯を引きちぎった大地
は、手早く端の始末をしてテーピングを終えた。
「どうだ、きつくないか?」
「…大丈夫だ、ちょうどいい」
声が震えないように細心の注意を払いながら、律はゆっくりと応じた。
「相変わらず、包帯を巻くのが上手いな、大地。…ありがとう」
「……。…どういたしまして。…すまなかったな、いきなり歯なんかで包帯を切ったりし
て。今度は、手で切れる包帯を探しておくよ」
「……」
律は曖昧に笑った。沸騰した熱はまだ、胸の奥でふつふつとたぎっていて、うっかりした
ことを言うとまた苦しくなりそうだった。
「……。今日、ちゃんと来いよ。…約束だぞ」
「…ああ」
素直にうなずくと、やっと大地がいつもの顔で朗らかに笑ってくれた。その笑顔を見て、
波だった律の心が少し凪ぐ。
「…戻ろう」
「ああ」
立ち上がるとき、少し足が震えた。
先に立っていく大地はその律の姿に気付かない。
少しおぼつかない足取りで、雑多に置かれた障害物をよけながら、律は大地の背中を見つ
める。ゆるぎないその足取りが頼もしく、けれどなぜか心を乱す。
彼が振り向かないことを確信して、律はそっと手首に巻かれた真新しい包帯に唇を寄せて
みる。
……彼の吐息と熱が、まだ少し残っている気がした。