死者の日

岩長姫の屋敷は、一豪族のものとしては広く、複雑だ。
四道将軍の一人として、様々な軍事書や古書、武器などを資料として収集し、また各部族
の子弟を弟子として受け入れているうちに、元々の屋敷が手狭となってあちこちつぎはぎ
建て増ししていた結果、複雑で、少し迷路じみた屋敷になってしまった。意図して隠れな
くても、行き先を告げずにふらりといなくなってしまわれたらなかなか探し出しづらい、
厄介な作りだ。

柊は、武器庫と書庫に囲まれた小さな中庭で、ぼんやりと立ちつくしていた。人が寝起き
する場所から離れたその一角は、夜も更けたこんな時間には灯りの一つもない。月齢と建
物の関係で月明かりもほとんど差し込まず、かろうじて星の光が、かすかに物の輪郭を教
えている。
人が暮らす息づかいは遠く、闇はねっとりと重い。
…が、小さな足音がその闇に近づいてきていた。橙色の手燭の光が闇の中に差し込み、足
音がひたりと止まる。
「こんなところにいたのか、柊」
りんとした少年の声。
柊はゆるゆると振り返って、右目でちらりと彼を見た。
「…どうしました、忍人」
「休む時間だというのにお前が戻らないと、羽張彦が」
「…捜させましたか。…すみません」
忍人は嗅覚のようなものが働くのか、なぜだか人を捜し出すのが上手い。屋敷内の複雑さ
もあいまって、皆、ちらと心当たりを捜して相手が見あたらないと、忍人に探索を依頼す
る癖があった。もっとも、心当たりをいくつか見て回っても見当たらないようなことにな
るのはたいてい柊で、忍人の捜索相手はほとんど彼だった。
すみません、と言いつつ柊が動かないのを見て、忍人は眉を寄せた。
「ここに何か用でも?」
「……」
柊は答えない。忍人は眉間のしわを一層深くして、問い直した。
「ここで何をしていたんだ?」
「……」
その問いにも口をつぐもうとしていた柊だったが、無言の圧力を感じてか、ようやく口を
開いた。
「闇を、見ていました」
「…闇?」
「…ええ」
…一旦口を開くと、柊は饒舌になった。
「…知っていますか、忍人。……ここから時と空間を遙か隔てたある国では、今日は影と
死者の日なのです」
「……?」
「影が現身の体から離れて自由に遊び、死者が死者の国から出てきてこの世の生者を訪れ
る日。…そう言われているんですよ」
「……」
先刻までの柊の姿をなぞるように黙りこくってしまった忍人を、柊はのぞき込んだ。
「…怖いですか?」
「何がだ」
「影が体を離れることが。…死者に訪われることが」
「…別に」
ゆっくりと、子供は首を横に振った。肩の辺りでそろえられた髪がさらさらと揺れる。
「影も、年がら年中足と地面に貼り付いているのだから、たまには自由になりたいと思う
だろうし、死者も時に生者に会いたいと思うこともあるだろう」
闇を映したような瞳で、彼はまっすぐに柊を見る。
「たとえば俺がお前よりも先に逝ったとして、俺が死者として会いに来たら、お前は俺を
恐れるか?」
柊は軽く目を見開いてから、薄く嗤った。
「その仮定はあまり現実的ではありませんね、忍人。……そもそも年の順でいけば私の方
が君より先に逝くだろうし、仮に君が先に逝ったとしても、君はわざわざ私に会いになど
来ないでしょう」
「…何故」
問う忍人は目をそらさない。問われる柊は目を伏せる。
「生きている間さんざん私を捜し回らされたんですから、死んでからまで捜したくはない
でしょう?……さあ、もう行きましょう」
ゆらりと柊は忍人の傍らを通り過ぎた。手燭を持っているのは忍人だ。忍人の前に立って
回廊へ向かう彼は、闇の中へ入っていくように見える。その黒い背中に向かって忍人は手
燭を掲げた。
「…柊」
「……何です」
「しつこいようだがもう一度聞かせてくれ。俺が死者となってお前に会いに来たら、お前
は俺を恐れるか?」
柊の背中も、彼自身も無口だった。忍人はただ、答えを待った。答えは返るはずだと信じ
た。
やがて、……答えは返った。
「……君が訪なってくれることは恐ろしくありません。……たとえそれが死者であっても。
……ですが」
ゆっくりと柊が振り返る。眉間に深くしわを刻み、きつく唇をかんで。
「……君の死は、…恐ろしいです」
「………」
中庭に、沈黙が落ちた。かさりとも音がしない。
「…忍人。……君は幼い。死は君にとって実感のないあいまいなものでしかないのでしょ
う。けれど死というものは、想像以上に身近にあるものです。己の死を気安く口にしない
でください」
どこかすがりつくような声に、忍人は唇をかんだ。
「……すまない。…柊の言うとおりだ」
うなだれて。……しかし彼は、だが、と言葉を続けた。
「俺は、父をなくした。だから、死が思いがけず唐突に訪れるものだということは知って
いる。知っているからこそ、死した後に生者を訪れる機会があることを願いたいんだ」
父に聞きたかったことがある。たった一日でも、いっそ一瞬でもいい、もしもう一度会え
たなら彼の口から聞きたいことがある。
「だから、もし本当に死者の日というのがあって、生きている誰かに会いに行くことが出
来るならどんなにいいだろうと思ったんだ。…しかし俺の浅慮で、柊が気分を害したなら
すまなかった」
言い終えて顔を上げると、今度は逆に柊がうなだれていた。
「…謝らないでください、忍人」
息を唇の隙間からせせり出すようなため息が一つ。
「そもそも、うかつに死者の日の話を持ち出したのは私だ。元はと言えば、私が悪いんで
す。それを君に謝られると落ち着かない」
あやまりっこなしにしましょう。いいですね?
柊の声がいつもの飄々とした色に戻ったのを聞いて、忍人はほっと笑った。
「…わかった。おあいこだ」
「ええ」
ようやく手打ちになって、二人肩を並べて回廊を歩き出しながら、柊はふと気になってい
たことを口にした。
「…それにしても君は、ずいぶん私が死者を恐れるかどうか気にしていましたが、…私に
何か言い残すことがあるだろうと思うんですか?」
「確証はないが、そんな気がする」
こっくん、と少年はうなずく。
「俺はどうも、柊にうまく言葉を伝えられない」
「たとえば?」
「たとえば、…俺は別に、いつもいやいやお前を捜しに来てるわけじゃない、…とか」
………。
柊はまじまじと忍人を見た。歩みも遅くなる。気付いたろうに、忍人は敢えて足取りを揃
えずにたったかと先を急ぐ。
「……なるほど確かに。……それは今初めて知りました」
回廊を曲がるときにちらりと見えた忍人の横顔は、気恥ずかしそうにむっつりと唇をとが
らせていた。少し拗ねた、いかにも子供らしい顔に、知らず柊の顔がほころんでいく。

深まる秋の夜。
ひんやりと涼しいはずのその闇の中に、ほんの少し橙色の暖かさがともった気がした。