空の穴 「律。辞書貸してくれ」 ばたん、と遠慮なく扉を開けると、律が少しはっとした顔で振り返った。 かまわずにずかずかと、律が腰掛ける勉強机に近づいて、英和辞書を手にする。 「ちょっと借りてく。今日学校に忘れてきたんだ」 言って、響也はふと、律の手元を見た。何か電気スタンドの光にきらりと反射した気がし たのだ。 左の薬指に見慣れない指輪がある。つや消しの銀で少し大ぶり。律のものではないような 気がする。少しサイズが大きいと見えて、指に合っていないからだ。 だが、律本人のものでないことが確信できる割には、どこか見覚えのある指輪だ。…どこ かで誰かが、…自分が知っている誰かが、この指輪をつけていた。 ……誰が? 思い出すのに時間はかからなかった。 「なあ、律。…その、今指にしてるやつ。…大地の指輪じゃねえ?」 「…」 律は無言だ。だが、否定ではなく肯定の沈黙だと感じた。素直にそれを認めるのが少し照 れくさい、…そういう顔だ。 …それはつまり。 「つまりその、…律と大地ってその、…そういうことか?」 律は眉間に少ししわを寄せた。 「…念を押すように聞くな」 「…なのか」 「……」 そうなのか。呆気にとられたような気持ちで、響也はまじまじと律を見た。でもだけど、 …それって。 「いいのか、律。それで」 びくりと肩をふるわせてから、律はまっすぐに顔を上げて響也を見た。敢えて表情を殺し ているかのような静かな顔だ。 「ああ」 つぶやく声も落ち着いて、動揺はない。…ただ、指にはめた指輪を、守るようにもう一つ の手で押さえる仕草が少し切ない。 もし今ここに大地がいれば、きっと律をかばうように立つのだろう。それで?…何か問題 が?と、少し冷たい声でからかうように響也に言い、後は立て板に水で響也を煙に巻いて しまうだろう。誰にも律を傷つけさせないという顔をして。 ……そう、あいつなら律を守るだろう。きっと一生、何があっても。 「…律がいいなら、俺はいいよ」 響也は辞書を持ち直した。 「これ、借りてく。また返しに来るから」 後ろ手に扉を閉めて、響也は少しため息をついた。 律がいいならそれでいい。それにきっと、律はそれで幸せだ。 なのにどうしてこんなに、心にぽかりと穴が空いたような気持ちになるんだろう。俺が何 を失ったわけでもないのに、何故。 寮の廊下に、光が差し込んでいる。窓から外を見ると、今日は満月だった。夜とは思えな い明るさで、皓々とあたりを照らす月は、白く丸く、闇の中に空いた穴のようにぽかりと 浮かんで。 …俺の心の中みたいだ。 …ふと、そう思った。