空を見る約束

サザキは、天鳥船の舵をカリガネに任せて堅庭に出た。船は今、出雲から畿内を目指して
いる。直接橿原宮に乗り込むわけにはいかないので、山陰道をずっと東へ進み、淡海あた
りから鈴鹿の山並みを橿原を避けるようにして回り込んで、まずは熊野あたりを目指す、
というのが、常世の王子と風早、柊たちの協議の結果だった。風早に言わせると、「熊野
からもっと白良浜あたりまで回り込んでもいいんですがね。どうせ熊野あたりで落ちます
よ。あのあたりに玄武がいるはずだから」ということになる。
筑紫から出雲へ向かったのとは違って、出雲から熊野へとなるとかなりの距離になる。船
は好きだが、楼台は窓こそあるものの壁で覆われていて、どうにも息苦しい。少し外の空
気が吸いたくなった。
堅庭に出ると、珍しく人気がなかった。みな、出雲の最後の戦いで疲れ切って、体を休め
ているのだろう。……いや。
堅庭の、ほとんど縁に近いところに、黒い影がたっていた。紫紺色の服をまとい、漆黒の
髪をなびかせている彼は、後ろから見ると本当にただ影が立っているように見える。
彼がこんなところでぼうっとしているとは。珍しいこともあるものだ、とサザキは思った。
みなが休息しているときでも、いつもせかせかと何かをしている彼だ。新兵の訓練をして
いたり、道臣と兵站の相談をしていたり、二ノ姫を緊張感がないとしかりとばしていたり。
…そうだ、この船で姫さんをがんがんしかりつけるのはあいつくらいだよなあ。
サザキはぽりぽりと頬をかいた。
教育係を以て自認しているらしい風早でさえ、おっとり注意することはあっても頭ごなし
にしかりつけることはない。が、彼は「そんなことくらいいいんじゃねえの?」とサザキ
が言いたくなるようなことでもびしびし姫を叱責する。それをまた、姫が妙に素直に、は
い、すみませんでした!などとはきはき言いながらおとなしく聞いているのがなんとなく
サザキには腹立たしい。
そんなことくらいで怒るな、くらい言ってもいいのによ。
…ちらりと思ったら、なんだかどんどんむかむかしてきた。
サザキは堅庭の入り口近くに立っている。彼のチャクラムは投擲武器なのでもう少し近づ
けば投げて彼に届くが、彼の武器は長剣だ。武器が届く間合いはチャクラムとは比べもの
にならないはずだ。
サザキは、忍び足で彼に近づいた。本気で当てるつもりはない。ただ、頬でもかすめれば
おもしろいかと思っただけだった。
ここから投げれば、チャクラムも届くし、間違って本気で当ててしまうほど遠くもない、
というところまで近づいて、さあ、とサザキがチャクラムを手に取ろうとしたときだった。
突然彼は振り返った。…そして、一瞬で剣の間合いまでサザキに近づき、その二振りの剣
の片方の切っ先を、ぴたりとサザキの喉元に当てた。
「………う、お」
「………」
漆黒の瞳に表情はない。冗談ではなく、少しでも動けば切られる気がして、サザキは指一
本動かせない。
「……お、…忍人」
ようやく、彼の名前だけをなんとか口にすると、忍人も口を開いた。
「何のまねだ」
「……こ、こっちが聞きたい…」
「先に武器に手をかけたのはお前だろう」
彼の視線がサザキの指先に向けられた。…確かに、自分の指はチャクラムにかかっている。
言い逃れのしようもない。
「…いや、悪かった。…なんか、ぼうっとして見えたから、ちょっとからかってやろうか
と…」
ちゃき、と音がして、峰を向けられていた剣が刃のほうに返された。
「ほ、ほんとだって!」
サザキが必死に言葉を重ねると、忍人は、腹の底からあきれかえったというため息をつい
てようやく刀を引いた。
「………し、死ぬかと思った……」
サザキはへなへなとその場にうずくまる。忍人はむっとした顔で言い返した。
「俺の台詞だ、それは」
「ちがう、絶対違う。俺は冗談だったけど、お前、俺の返答によっては絶対切る気だった
だろ」
「当たり前だ」
「当たり前とか言うなー!」
「人を背後から狙っておいて言える言葉か」
「……あうううう」
したことはおっしゃるとおりなので、言い訳のしようもないのだが。
「当てるわけないだろー?仲間を信じろよー」
サザキが訴えたら、鼻で笑われた。
「なんだその態度!」
「あいにくと、お前のチャクラムの腕をそれほど信用できなくてな」
「………」
いちいちむかつく奴だな、と、サザキがまたむっかりしていると、忍人はかすかに頬を赤
くしてそっぽを向いた。
………あれ?
その表情と態度が一瞬サザキの心に引っかかったが、考え込む暇もなく、忍人が嘲笑とと
もにこう続けた。
「……そもそも、そんなに羽の音をばさばさいわせて近づいてきて、それで気づかれてい
ないつもりか」
「そうだ、どこから気づいてたんだよ!?」
「お前が堅庭に入ってきたときからだ。そこからもうばさばさいってた」
「俺の美しい羽の音を、ばさばさとか言うな!」
「………」
そこではたと忍人は言葉を切る。…腕を組んで考え込むそぶりを見せ、ややあって、真顔
でサザキに聞いてきた。
「…ばさばさ、じゃなかったらなんなんだ」
ま、真顔で聞かれると、返答に困る。
「えーと、…ふあさっ、ふあさっ……て、…感じか?」
頭上で、かあ、とヤタガラスが鳴く声がした。
「………」
「………」
忍人とサザキは顔を見合わせる。何とも言えない沈黙の後、ぼそりと忍人が言った。
「……お前、……相棒に笑われてるぞ」
「………」
返す言葉がない。
サザキは髪をばりばりかいて、話題を変えた。
「ここで何してたんだ?」
「別に。…休んでいただけだ。空を飛んでいるときは、俺にできることはあまりないから」
船長こそ、何をしている。
忍人には滅多と呼ばれない呼び名で呼びかけられて、サザキはまたむっつりとほおをふく
らませた。
「俺も休憩だ。…舵はカリガネがとってる。…楼台はどうも、空が狭くていけない。……
ここはいい。空が広くて」
「……そうだな。…ここで空を見ているのは、いい気分だ」
彼はゆっくりと空を振り仰いだ。口元がうっすらと微笑む。
「…二ノ姫と出会う前は、ずっと森や山に隠れるようにして戦っていた。空が広く見える
場所は危険な場所だから近づかないようにしていた。……こんなふうに、悠々と空を見上
げることは、しばらくなかったな」
…そうか、負けた国の生き残りだもんな。将軍様とはいえ、楽な戦いはしてないか。
「…とはいえ、気を抜いていると背中を狙われるな」
サザキが一緒になってしみじみしていると、ため息と共に忍人はそうこぼした。
傷をえぐるな、いちいち!
「だから!悪かったって言ってるだろう!本気で狙ったんじゃねえよ!!」
「わかっている」
けろりと忍人は言った。その言葉に、少しサザキはかちんと来た。
「だーっ!なんだよ、わかってるって!さっきは俺のこと信用できないとか言ってたくせ
に!」
わめいたら、思いがけないことを忍人が言った。
「…お前のチャクラムの腕を信用できないといったんだ。…お前を信用できないとは言っ
てない」
「……え」
そう言われて、サザキはさっき少しひっかかったことを思い出した。…そうだ、信用でき
なくてなと言った後、忍人はそっぽを向いたが、その頬がかすかに赤かった。
……あれはもしかして、照れていたのか。
「な、なあ忍人」
サザキが話しかけようとしたとき、堅庭の入り口に狗奴の兵が一人姿を現した。
「将軍、こちらにおいででしたか」
「なんだ、どうした」
忍人は、いつものきびきびした表情で部下に向き直る。
「岩長姫様が探しておいでです。なにやらご相談があるそうで」
「わかった、今行く」
兵に言い置いて、忍人は今度はサザキに向き直った。
「何か今言いかけていなかったか」
「いや、たいしたことじゃねえ。さっさとばーさんとこに行けよ。俺も、ちっと休憩した
らまた楼台に戻るし」
「そうか。…じゃあ」
片手をあげ、彼は足早に堅庭を出て行ってしまった。
ひらひらと手を振ってその姿を見送り、サザキはぺたんと堅庭に座り込んだ。
…空が近い。

…なあ、もしかしてお前、俺のことちゃんと仲間だと思ってんのか?
…サザキは、そう忍人に聞こうとしたのだった。
だって、今の今まで、仲間扱いされてるとは思ってなかったんだ。姫は山賊だろうと異種
族だろうと気にしない、ああいう性格だけど、忍人は腐っても中つ国の将軍様だからさ。
翼もちの異種族で、まして橿原宮に盗賊で入り込んだことがあるような海賊のこと、本気
で仲間だと思うとは思ってなかったんだ、俺は。
「………聞かなくて、よかった……」
聞かなくても、もうわかる。忍人はちゃんと、俺のことも、俺の仲間たちのことも、仲間
だと思ってる。
仲間と思われてないんじゃないかなんて、相手を疑って差別していたのは、俺の方だった。
「反省。反省だ、俺」
おわびのしるしに、…そうだ、忍人。…俺がもしまた船を持ったら。姫さんだけじゃなく
てお前も乗せてやろうか。内海じゃないぜ、外海だ。
…外海はいい。海も広い、空も広い。…見渡す限り、俺たちを邪魔するものは何もない。
どこへでも行ける。
国のことなんか、そのときくらい忘れちまえ。お前も姫さんも。
いつになるかわからないけど。俺はきっとまた船を手に入れるから。…そのときにはお前
たちもきっと橿原を取り戻しているだろう。だから、和泉か紀の湊までちゃんと迎えにき
てやるから。

海に出よう。一緒に広い空を見よう。約束だ。