早春賦

戦いの後、しばらく中つ国で身体を休めたアシュヴィンは、あえて千尋の即位式には出席
せずに、常世へ戻った。
兵達の疲れが取れた今、国の建て直しに着手するのは一刻も早いほうがいい。アシュヴィ
ンは正統な王位継承者ではあったが、油断すればすぐに簒奪者が現れ、我こそは皇の後継
だと名乗りかねないのが常世という国だった。
即位式の名代にはシャニを立てた。
弟は、出雲の領主時代、領民と良好な関係を気付いていたし、千尋とも(彼女の素性を知
らずに、ではあったが)親しく接していた。何より、彼自身が中つ国を愛している。名代
にはこれ以上の適任はないだろうと思われた。
そのシャニから、先ほど遣いが来た。即位式にこれから出席するが、その後いろいろとし
きたりにのっとった行事が宮中で続くらしい、せっかくなのでもう少し滞在を延ばして見
学していってもよいか、というものだった。
お祭り事の好きな彼らしい理由だった。どうせ、駄目だと言ってものらりくらりと理由を
つけて、戻ってはくるまい。好きにしていいという伝言を持たせて、遣いに来た男を帰ら
せた。シャニに付いて長い彼も、やや苦笑しながら、伝言を受け取り退室していった。

アシュヴィンは、遣いの到来で妨げられていた、竹簡を読む作業を再開した。
国に戻ってからというもの、宮中の体制を立て直すのに手一杯で、民の陳情を記した竹簡
に目を通す時間が全く取れなかった。ようやく手を付け始めたそれを、丁寧に、しかしき
びきびと読んでいく。
開け放たれた窓から、春の柔らかい風が入ってくる。芽吹いたばかりの草の、柔らかい匂
いがする。
…枯れ果てたとばかり思っていた大地のたくましさに、アシュヴィンは内心舌を巻く思い
だった。
畑はともかく、野や山には誰かが種をまくわけではない。ただ黒い太陽が消えた、それだ
けで、眠っていた草や木々は芽吹いたのだ。
さすがに、まだ木々も草も芽吹いたばかりで、花を咲かせたものはない。ついこの間まで
黒い太陽が君臨していた大地だ。植物が花を咲かせ、実を付けるためにはもう少し時間が
必要だろう。
…だが、もうすぐだ。
アシュヴィンは思う。
もうすぐ、木々も草たちも葉を開く。そしてつぼみをつけるだろう。つぼみは花開くだろ
う。
あの木も、きっと花をつける。…そうしたら、知らせを出そう。
もう何年も香りをかいでいない美しい花を思い出し、アシュヴィンはもう一度窓の外へ視
線を向けた。
…おや?
黒い小さな蝶が、ひらりひらりと草の間を飛び回っている。
あちらの草にとまり、こちらの木々の芽に触れ。踊るような、跳ねるようなその飛び方は、
春を歓んでいるかのようで、思わずアシュヴィンの頬もゆるんだ。
「…そうか。…花を捜しているんだな」
ふと思いついて、アシュヴィンはつぶやいた。
…長くさなぎで眠っていた蝶が孵ったのかもしれないが、花がまだ開いていないことには
気付いていないのだろう。
…どこかに一輪でもいい、花が咲いているといいが、と、アシュヴィンは竹簡を繰る作業
を再開しながら思う。
意識と視線がついつい窓外へ向きそうになるのを自戒していると、…突然、ざっと音を立
てて風が通った。
「…?」
風の通り道が出来たのだ。
見ると、リブが執務室の戸を開けていた。彼が声もかけずに入ってくるのは珍しいことだ。
主の訝しげな視線に、リブもはっとした様子で、
「や、申し訳ございません」
ともごもごつぶやいた。
気が急いていたものですから、と付け加え、入ってもよろしいですか、と改めて問う。
もう入室しているのに、入ってもよろしいですか、もないものだ。
アシュヴィンが首をすくめて、
「かまわん、入れ」
と言うと、リブも普段から糸のように細い眼をいっそう細くして、いや誠に申し訳ござい
ません、と言いつつ扉を閉めた。
気が急いていたと言うので、すぐにも話し始めるかと思ったら、彼は少し言い淀み、言葉
を探している。
「…?」
アシュヴィンは眉をひそめた。
リブも、アシュヴィンの腹心の部下として、忙しい日々を送っている。何の意味もなくご
機嫌伺いにへいへいと訪れるはずはないのだが。
「…リブ?」
鋭い声で促すと、ようやくリブは口を開いた。
「…先ほど、中つ国から使者が参りまして」
「…ああ」
アシュヴィンはリブの言葉を最後まで聞かずに首をすくめる。なんだ、そんなことか。
「シャニが滞在を延ばすという話だろう?…もう聞いた。許可も出したぞ」
からりと言うと、いえ、シャニ様のことでは、と言って、リブは首を横に振った。
「シャニ様からの使者ではございません。二ノ姫様の、…あ、いや、もう女王陛下とお呼
びすべきですか。女王陛下からのご使者で」
リブはふと、言葉を切った。
いつもおっとりと細められている瞳が、かすか開いて、どこか傷ましげにアシュヴィンを
見ている。
「…葛城将軍が、亡くなられたそうです」
一瞬、リブの言葉の意味がアシュヴィンには伝わらなかった。よく知っている言葉なのだ
が、音が耳で留まって頭の中にやってこない、そんなもどかしさだ。
だが、傍目にはアシュヴィンは冷静そうに見えたのだろう。リブは言葉を続けてもいいと
判断したらしく、再び口を開いた。
「たった今、早馬が来たところです。殿下は忍人殿と親しくしておられたのでと、女王陛
下が急使を遣わしてくださいました」
その言葉がやってきてようやくアシュヴィンは、葛城将軍が忍人だと、亡くなったという
のはつまり彼が死んだということだと、理解した。
…だまされたような悔しさが、一瞬胸をよぎった。
それはしかし、花を見に来ると言ったのに来なかった忍人に対してではなく、もう忍人の
命は取らないはずなのに彼を死なせた刀に対して感じたもののようだった。
…俺はよほど、あの刀にがっかりしているらしい。
苦い笑みがゆるりとアシュヴィンの頬にのぼった。
リブはぎょっとしたようだ。この状況で主君が笑うとは思っていなかったのだろう。アシ
ュヴィンは苛立ちのような吐息をもらし、肩をすくめた。
「急な話で、どんな顔をしていいのかわからん。…我々が中つ国を去ったときには、少し
は体調もましになっていたように思ったが」
はあ、とリブもうなずく。
「体調が悪化して、ということではなく、即位式を妨げようと侵入した賊と刺し違えたの
だそうです。…実際にその場を見ていた者がないのでしかとはわからぬそうですが、どう
もそのようだと」
リブもそこでふと、苦く笑った。
「賊ごときと刺し違えるとは将軍らしからぬ、と申し上げるべきかもしれませんが、…姫
を守って、というのは、いかにもあの方らしいように思います」
「…全くだ」
アシュヴィンも眉をひそめるようにして笑った。
最後まで彼は、中つ国の武人であり、二ノ姫の忠実な臣下だった。
不思議と、それを羨む気持ちは浮かんでこなかった。
……そうか。俺は彼を部下にしたかったわけではないのだな。
アシュヴィンは、今更ながら自分の気持ちを再確認する。
…では、俺は、…本当は彼になにを望んでいたのだろう。
「…殿下」
ぼんやりと考え込んでいるアシュヴィンに、遠慮がちにリブが声をかけた。
「差し出がましいかとは思いましたが、中つ国からの使者を、返報があると言って待たせ
てあります。彼の疲れを取ってやらねばならぬとも思いましたし、せっかくの女王陛下の
急使です。殿下も何か一言、お言付けになりたいかと」
「…ああ」
はたと我に返ってアシュヴィンはうなずいた。
「そうだな。…悔やみの言葉の一つも送りたい。…少し、一人にしてくれ。文言を考える。
また呼ぶ」
「はい」
うなずいて退室しようとしたリブが、おや、と眉を上げた。
「蝶が」
見ると、あの草原を飛んでいた黒い蝶が、窓枠で羽を休めていた。闇色の羽が、光を受け
たところだけかすかに青みがかって輝いて、美しい。
「…ご存じですか、殿下」
リブが静かな声で言った。
「どこかの国では、人の魂は、身体から抜け出ると蝶の姿になるそうです」
アシュヴィンが、蝶からはっとリブに視線を移す。リブは既に戸口の前にいて、おっとり
と笑うと、一礼して静かに戸の向こうへ姿を消した。
後に、アシュヴィンと蝶だけが残される。
蝶は、ゆっくりと大きく何度か羽を動かして、やがてひたりと閉じ、動かなくなった。
「…お前、…そうなのか?」
アシュヴィンは思わず、少しかすれた声で蝶に問うていた。声に出してから、馬鹿馬鹿し
いことを、と一瞬思いはしたが、聞かずにはいられなかったのだ。
蝶は答えない。だが、閉じていた羽を一度大きく広げて、また閉じた。その仕草がまるで
肯定のようで、アシュヴィンは笑った。
「…だとしたら、律儀な奴だな、お前も。…訪ねねばならぬ人間は多かろうに」
…律儀で、…気が早い。
「まだ約束したあの花は咲いていないんだ。…見せてやれなくてすまない」
アシュヴィンが手を伸ばしても蝶は逃げなかったが、指が羽に触れる、その寸前で突然舞
い上がった。
そのままひらひらと陽光まぶしい春の野へ飛び去っていってしまう。
アシュヴィンは少し目を細めて、白く霞んだ風景の中、飛び去る蝶を見送った。
「気をつけて、行けよ」
黄泉路を案じる言葉が、自然と口をついて出て、…ああ、とアシュヴィンはようやく理解
する。
「…忍人。…俺は、…お前の友になりたかった」
心を開いて、対等に何でも話せて、笑い合える、…そういう仲になりたかった。
今更気付くか、と苦く笑って、アシュヴィンは目を伏せる。
…と、…ざあっと音がして、草原を風が吹き渡った。強い風は、窓から入ってきてアシュ
ヴィンの耳元を吹きすぎてゆき。

「俺は、…とうに、君を友だと思っていたが」
風の中、笑みを含んだ落ち着いた声を聞いた気がした。

アシュヴィンははっと目を開け、慌てて辺りを見回した。
しかし、彼は相変わらず、誰もいないいつもの執務室にただ立ちつくしているのだった。
「…空耳か?」
問いには誰も答えない。けれど、空耳にしてはその声はひどく明瞭で、暖かで、…まるで
息づかいまで聞こえるようで。
目を閉じたアシュヴィンの左頬に、一筋だけ涙が伝った。

外はまだ、浅い春。
あの花は、未だ咲かない。