ステージドア コンクールファイナルのバックステージは騒然としていた。ピアニストが急に変更になっ たとか、今になって編曲を変えるとか、天音側の動きがひどく慌ただしい。 一方で俺たちの楽屋は落ち着いていた。いや、落ち着くというよりは妙に空気が硬い。張 り詰めている。 「…兄貴」 奇妙な静寂を破ったのは響也だった。 「気分でも悪いのか。…なんか、いつもより顔が青いぜ」 律はゆっくりと眼鏡のブリッジを指で押し上げ、顔を上げて響也をまっすぐ見てから首を 横に振った。 「別に何もないが、…少し風にあたってくる」 言い置いて、ふらりとドアを開け、出て行ってしまった。 残された俺たちは閉まったドアを見つめてから顔を見合わせる。 「…部長でも緊張されるんでしょうか」 「子供の頃からコンクール慣れしてるし、あんまり緊張するタイプじゃないんだけどな。 見た目より図太いから」 「部長に失礼ですよ、響也先輩」 「事実なんだからしょうがないだろ」 まったく、と首をすくめてからハルがふと俺を見た。 「…最後の夏、だからですか?」 突然の問いの意味がわからない。 「何が」 「…大地先輩も、顔色良くないですよ」 ………。とっさに、そんなことないさ、とすら言えなくて、俺は苦笑いした。 「…ああ。…緊張してるのかもしれない。我ながららしくないな。…俺もちょっと、風に あたってくるよ」 俺は二人に笑いかけてから楽屋を出た。廊下の壁に背中を預けると、少しひやりとして気 持ちがいい。 だが、廊下は慌ただしく人が行き交っていてやはり落ち着けない。…俺は、楽屋口から外 に出た。 ホールは海の側にある。外に出ると潮の匂いがした。人気のなさをこれ幸いと、俺が大き く深呼吸して伸びをしたとき、突然名を呼ばれた。 「…大地」 律だ。 肩はびくりと震えたが、俺は心のどこかで、彼がここにいると確信していたので、実際は さほど驚きはしなかった。 ゆるりと首を回して律を見る。 こうやって日の光の下でまじまじと見ると、確かに律の顔色は悪い。少しかさつく声で、 俺は聞いた。 「…響也の言うとおりだ。顔が青いな」 律は無言のまま、こくりと小さくうなずく。 「腕の調子が、よくないのか」 「…いや、…腕は問題ない」 「…ならよかった」 俺の言葉をじっと聞いて、…律は、ぽつりとつぶやいた。 「…少し、緊張しているようだ」 俺は目をすがめる。 「律の口から緊張っていう言葉を聞くのは意外だな。…一年の時の決勝の舞台の前でさえ、 淡々としていたのに」 「…」 律はどこか思い詰めた顔をして、返事をしなかった。 緊張しているのは確かなのだろう。リラックスしろよと声をかけるのは簡単だったが、さ すがにそれはためらわれた。この気まずい空気の原因が、あの日の自分の大人げなさにあ ることを、俺は重々承知していた。 あの日、もう少し上手く応対できれば、と後になって悔やんだ。必死でさりげなさを装っ たつもりだったが、俺の嫉妬と苛立ちは、確実に律に伝わっただろう。律にとっては何の 謂われもないことで、理不尽さに苛立ち、不快感を覚えるのも無理はない。 そんなことをしでかしておいて、律にリラックスしろなんて言えるわけがない。そもそも 俺自身、まだ気持ちの整理がついていないのだから。 会話が途切れ、二人してただ立ちつくす。近くの道路を車が走りさる音がひどく耳障りだ った。普段ならそんなもの、気にも留めないのに。 硬直した沈黙を破ったのは、意外なことに律だった。 「…頼みがある」 声は低くかすかだったが、顔を上げ、まっすぐに俺を見つめる瞳は気圧されるような光を 帯びていた。 「…何だい?」 答える俺の声は緊張で少し震えていた。…律に気付かれていなければいいが。 「…俺に出来ることなら、…何でも」 「…」 律は、一呼吸の間をおいて、俺をまっすぐ見たまま言った。 「…手を貸してくれないか。…右手を」 俺は、はっ?と問い返しかけて、ぐっとそれを飲み込んだ。右手に何の意味があるのかは わからないが、律が俺に少しでも何か望んでくれるなら、何でも与えたい。…律のためな ら、何でも。 「ああ。…いいよ」 俺は右手を、掌を上にして差し出した。律はその手を左手でくるりと裏返して自分に引き 寄せ、俺の中指に、…否、中指にはめた俺の指輪に、祈るように額を押し当てた。 「…律」 俺の声の震えは、もう隠しようがなかった。律は俺の手に額を当てたまま、少しくぐもる 声で言った。 「…俺の指輪は、まだ小日向が持っているんだ。…だから」 「…っ」 …そうか。…そうだった。 律のお守りは、ひなちゃんを守っている。 ……それなら。 「…少しごめん、…律」 手の甲に感じる律の体温を少し惜しく思いながら、俺は一旦右手を退いた。そして中指か ら指輪を外し、律の手を取って、その上にそっと載せる。 「…」 「…俺の指輪に、律の指輪のような効果があるかどうかはわからない。だけど少なくとも 音楽に関わりのあるものだし、…きっと律を守るよ」 二年半。 二年半の間、俺の律への思いをこの指輪はずっと見てきた。俺の思いの全てを、この指輪 は知っている。だからきっと、律を守る。 「…だが」 律はかすかに逡巡した。 「いいんだ。持っていてくれ。…律に、持っていてほしい」 律の手を俺の手で包み込むようにして、無理矢理指輪を握らせる。…律は決心したように、 ありがとう、と一言つぶやいて指輪をつまみ、自分の左手の中指にはめた。そしてそっと、 指輪に唇を押し当てる。 儀式のように美しいその姿に、思わず目を奪われた。どうしようもなく胸が騒いで、…馬 鹿馬鹿しくも改めて自覚する。 俺は、律が好きだ。 このまま、ただの友人として卒業しようと思っていた。何も言わず、律を驚かせたり傷つ けたりしないように、感情の全てを殺してしまおうと思っていた。 でも駄目だ。やっぱり駄目だ。 律。俺はお前が好きだ。どうしようもなく好きだ。見苦しいかもしれない。嫌われても仕 方がない。 でも、好きなんだ。 このコンクールが終わったら、律にこの思いを伝えよう。どんな反応をされてもいい。た ぶん間違いなく、嫌われ、疎ましがられてしまうだろうが、それでもいい。こんなふうに 曖昧に気まずいよりも、その方がきっといい。 何が起こっても、律が好きだという俺の気持ちはぶれないのだと、やっと気付けたから。 「…」 律が顔を上げて俺を見た。…そして、少し不思議そうに目を見開く。 「…大地」 「…何だい?」 「何か、…その、…急にすっきりした顔になったな」 俺は、思わず苦笑した。…そうなのか。…そうかもしれないな。 「…ああ。…もうこれが最後の本番なんだと思ったら、急に開き直れたよ」 律は鳩が豆鉄砲食らったような顔になって、…その日初めて、いや、あの日以来初めて見 る、気の抜けた顔でぷっと笑った。 「土壇場でそうやって開き直れるところが大地らしいな」 「律だって、ずいぶん顔色が良くなったじゃないか」 「…そうか?」 自分ではわからないが、とつぶやいて、律は目を伏せて微笑む。 「…もう、効果があったかな」 視線の先にあるのは、俺の指輪で。 …きらきらと、ちらちらと、指輪のまわりを光が瞬くように見えたけれど、太陽の光の加 減か、それとも目の錯覚だろうか。 凝視していると、律が再び指輪に口づけて、それから俺を振り返った。穏やかに強く笑う。 「…行こう、大地。…これが俺たちの最後のステージだ」 「ああ。…一緒に行こう」 俺たちは連れだって歩き出し、ホールに続くドアを開けた。 俺たちの、最後の、運命のステージにつながるドアを。