水浴

おかわいそうに。

その見知らぬ男の人は言った。

胸の内の思い出を、踏み荒らされていらっしゃるようだ。

何のことを言われているのかわからなかった。
私が反発すると、その人は、まるで自分が傷つけられているかのような顔をした。

姫。…本当に、おかわいそうに。

その人の他の言葉は、なんだかわけもわからないし、怖いし、…おまけになぜだか、最初
から用意されたお芝居の言葉のような気がしたのに、おかわいそうに、と繰り返された言
葉だけは、なぜだか胸にずんと沈んだ。

そして私は、豊葦原に還った。

・・・

「…ま、最近の事情はこんなとこかね」
言い終えて岩長姫は肩を少しこきこきと鳴らした。
風早は今、岩長姫から一通り、いなかった5年間の戦況を確認しおえたところだった。少
しけだるそうな顔で横を向く師君に、考え込むそぶりで目を閉じてみせていた風早だが、
内心ではぐるぐると一つの問いが渦を巻いていた。
おそるおそる、しかしそうとは悟られないよう、ごく自然な平静さを装って、風早はその
問いを投げる。
「忍人はどうしていますか?」
視線を横に流していた岩長姫が、また風早に向き直った。
「ああ、この砦にいるよ」
ごくあっさりした返答に、風早は胸をほっとなで下ろす。
忍人が一人で消えたのは、既定伝承を元に戻すため。であれば、この時点で岩長姫の砦に
いるはずとは信じていたが、絶対の確証があるとは言い切れない。岩長姫の言葉で、風早
の内心の焦燥がようやく消えた。
「あれから5年もたつのですから、忍人ももうすっかり歴戦の強者でしょう。立派な将軍
として、軍を指揮していることでしょうね」
安堵から、風早が朗らかにもらしたその言葉に、岩長姫はしかし戸惑うような沈黙で応じ
た。
この歯に衣着せぬ烈女が何かを言い淀むことなど滅多にない。風早はふと嫌な予感がした。
「…師君?」
「いや、たいしたことじゃないんだが、気になっていることが一つあってね」
岩長姫はそこで言葉を切り、どう話したものかと言いたげな顔で、少し視線をあらぬ方に
向けた。
黙り込んでいると、砦の中の音がかすかに漏れ聞こえてくる。見回りの兵が歩く足音、寝
付けない誰かのしわぶき。…その中に、狗奴の兵が鼻を鳴らすような音も混じっていた。
まるでそれがきっかけになったかのように、彼女は改めて口を開く。
「…忍人の一族は元々、狗奴の一族と親交が深い。それに、狗奴の兵たちを納得させられ
る実力を備えた将軍はなかなかいない。だから、忍人が合流したとき、あたしはすぐに、
うちの軍にいた狗奴の兵を忍人の軍として編成しようとした。あの子はよほど苦しい戦い
を強いられたとみえて、あたしのところにきたときには部下を一人も連れていなかったか
らね。……ところが、狗奴の兵達が皆妙なことを言うんだよ」
「…妙なこと、というと?」
風早がぽかんとして問うと、岩長姫は顔をしかめて頭をかく。
「みんな口を揃えて、忍人はなんだか妙な匂いがする、と言うのさ」
「…匂い、ですか?」
風早は、かすかに眉をひそめた。
「ああ。彼からはこの世界ではかいだことのないような匂いがすると言っている。狗奴の
民は嗅覚に敏感で、保守的だ。かぎ慣れない匂いには、本能的に警戒してしまんだろう。
それが気になって行軍の時に体を休められないようでは、確かに戦力低下につながるかも
しれない。仕方がないからとりあえず狗奴の兵達はあたしの直轄に戻している。……本当
は、忍人の指揮下で戦わせた方が、大将軍という立場のあたしの直轄にいるよりも狗奴の
兵を活躍させられるはずなんだが…」
ゆるり、うなずきながら、風早は苦い思いを飲み下そうと必死になった。
忍人の妙な匂いというのは、おそらく異世界の橿原の匂いなのだろう。那岐があの世界で
豊葦原の匂いに違和感を感じたように、狗奴の兵達は、忍人にかすかに残る異世界の橿原
の匂いに違和感を感じ、恐れたのか。
忍人に誰よりも信頼を注ぎ、将と崇めて戦っていた狗奴の兵達。彼らが忍人を忌避すると
いうのか。
それも全ては、己の行動に、己の浅慮に由来すること。
風早は自分の中で折れそうになる何かを、必死になって支えていた。自分が支えているも
のが、折れそうになっているものが何かさえ、わからないまま。
風早が思いがけず深刻な顔をしたためか、岩長姫はゆるゆると首を振ってぽんとその肩を
叩いた。
「……大丈夫だよ、あんたがそんな顔をしなくても」
風早は情けない顔で、はははと笑った。…確かに、自分が心弱くなることはない。本当に
心弱くなりそうな目に遭っているのは忍人だ。
「大丈夫。…いずれ雲行きは変わる。今まではあの子を見てくれれば、みなわかるはずだ。
…実際、忍人に心酔している狗奴の兵もいるのさ」
「…それは」
「足往といってね。まだ子供なんだが、志願して軍に加わった。だが、やっぱり体格も技
も未熟で、どうしても古参の兵達からみそっかす扱いされがちでね。ろくに訓練もつけて
もらえないようだったから気にはしていたんだが、あたしもなかなか手が回らなくて」
岩長姫は少し苦い顔で頭をかいた。元々、彼女の屋敷は彼女を慕って若い武者が多く集う
場所だった。岩長姫も、口では何かと面倒くさがりながらも、実際は、よく人を見て的確
な忠告をくれる師匠だった。この戦況下で足往の鍛錬にまで彼女の目が行き届かないこと
は、決して彼女の責ではないと思うが、そこを悔いるのが岩長姫の岩長姫たる所以なのだ
ろう。
「みんなと同じ時間に訓練するだけではいつまでも追いつかないと、朝早く訓練しに出て、
忍人の鍛錬を見たんだそうだ」
足往は忍人の剣技の美しさに圧倒されて、彼の匂いがかぎ慣れないもので警戒していたこ
とも忘れて、話しかけたのだそうだ。鍛錬を続ければ自分も同じことができるようになる
のかと。
怠けなければ出来ると言われて俄然その気になった足往は、忍人に指導を頼み込んだのだ
という。そして毎朝、共に時間を過ごすようになった。
「一緒にいたらわかります、と足往は言ってたよ」
忍人様は、厳しい。言葉少なで怖い。でも、絶対に嘘はつかない。あんなにまっすぐな人
はいない。確かに、変な匂いはします。でも、変な匂いがするからって忍人様を警戒する
ことはありません。一緒にいればどんな人かわかります。忍人様は、誰より信頼できる人
です。
「…うれしかったねえ」
しみじみとした声で岩長姫は言った。
「そうだよ。あたしもそう思う。忍人は厳しいが強くてまっすぐだ。将としても、一個の
人間としても信頼できる。そういう子なんだ。それは昔から変わってない」
今は忌避されていたとしても、いつかきっと狗奴の他の兵達にも伝わる。あの子の強さも、
真摯さも。
「足往がいてくれるから、…あたしもそれを信じられるよ」
風早はじわじわと胸に温かいものが打ち寄せるように思った。忍人にとっても、岩長姫に
とっても、足往は今、希望の光なのだろう。
「…会いたいですね、その子に」
「すぐ会えるさ」
岩長姫はおおらかに笑った。
「二ノ姫の部屋の護衛にしたからね。明日にでも、二ノ姫のところに行ってごらん。すぐ
会えるだろう。茶色い毛並みの子犬さね。いい子だよ」
本当にいい子だ。
風早は穏やかに微笑む。
……足往がいい子であることも、数日のうちに彼がさらわれてしまうことも、先刻承知の
彼だった。

・・・

あっちの世界でお風呂に入っているときもそうだったけど、水浴びをしている時間って、
どうしてこう、いろいろ考えてしまうのかな。
千尋は息を吐いた。
どうやったらあの炎の壁を破れるだろう。どうやったら足往を助け出してあげられるだろ
う。私には何が出来るのだろう。足往、捕まって辛い目にあったりしていないだろうか。
かわいそうに。
そう思った瞬間、ふと、耳にあの声がよみがえって、千尋はぶるりと身を震わせた。

おかわいそうに。

柊と呼ばれた男の人がが繰り返したあの言葉。あの言葉が今も耳から離れない。
「…」
千尋は固く目を閉じ、水に沈んだ。
私は何かを忘れている。それは間違いない。
けれど、忘れているものはこの豊葦原での記憶のはずだ。その記憶は、豊葦原へ戻ってき
たためか、少しずつよみがえりつつある。
姉様のこと。母様のこと。子供の頃の風早のこと。
だからそんなに焦らなくても、いつかすべて思い出すはず。そう思うのに。
でも、…でもなぜだか、柊の声を思い出すたびに胸が騒ぐ。

おかわいそうに。胸の内の思い出を踏み荒らされていらっしゃるようだ。

いいえ、ちがう。…ちがう。
誰かに踏み荒らされたのじゃない。私は自分で、その何かに鍵をかけている。そんな気が
する。

……私は何を忘れているの?

そのとき、がさりと足音がした。誰かが近づいてくる。
「……!」
千尋は慌てた。
「ど、どこか木の陰にでも隠れないと」
おろおろと辺りを見回すが、この水辺に適当な陰などない。
「だめだ、隠れられそうな場所なんてどこにも…」
足音はどんどん近づいてくる。万事休す。千尋はぎゅっと目を閉じた。自分が目を閉じて
も何にもならないのだが。
足音がごく近くで止まる。そして。
「軽率だな」
「………!」
体を電流が走ったような気がして、千尋ははっと目を見開いた。
見上げると、岸辺に男性が一人立っている。
全身黒ずくめで、まるで夜の闇のようだ。怜悧な瞳に射すくめられて、千尋は身動きでき
なくなる。その瞳は夜の海のようだった。深く飲み込まれるような感覚。

……私はこの瞳を知っている。

唐突に千尋はそう思った。
そんなはずはない、となけなしの記憶が反論する。この人は初めて会う人だ。今までに会
ったことなどない。今まで砦で見かけたことはない。子供の頃、橿原宮で接していた記憶
もない。
それなのになぜ、…この人の瞳がこんなに懐かしいのだろう。この瞳にじっと見つめられ
て、必死で見つめ返したような記憶があるのは何故だろう。
「水に入るときとはいえ、武器を手元から放すな。俺が敵なら君は死んでいた」
短い警句を残して彼が去っていった後も、千尋はしばらく動けなかった。
指先がゆっくりと冷えていく。頬も、肩も。動かなければ、水から出なければと思うのに、
動けない。彼の海の底を覗いたような瞳が頭から離れない。
千尋は冷たい水の中、ただ立ちつくす。

どこかで、おかわいそうに、とつぶやく柊の声が聞こえた気がした。