錫箸


その日は冬だというのに少し不思議なほど朝からうらうらと暖かい小春日和だった。
昼食をしおに一旦執務を終えて私室に戻ったアシュヴィンのところに、追いかけるように
して訪れたのはリブだ。普段から糸のように細い目をにこにこと一層に細めている。
「…何だ」
元々、不機嫌な様子を表に出すような男ではないが、それにしても今日は機嫌が良すぎる。
アシュヴィンが少々身構えると、リブはにこにこしたまま何かを恭しく差し出してきた。
「お祝いでございます」
その言葉に一瞬瞳をすがめたアシュヴィンは、すぐに、ああ、と眉を開いた。
「誕生日か」
「はい」
「不要だと言ったのに」
常世では、中つ国よりも暦法が発達している。そのため、誕生日を盛大に祝う習慣があっ
た。皇の誕生日ともなればなおのことで、祝宴が何日も続くことも珍しくない。しかしア
シュヴィンは、自分が国を建て直すまで、国がその力を取り戻すまではと、自分の誕生日
の祝典を一切取りやめさせた。今一番力を尽くすべきは何に対してなのかを明確に示せる
と、リブ自身も賛成した話だったが。
「国として皇陛下をお祝いするのと、私が個人的にアシュヴィン様をお祝いするのとは、
また別の話でございます」
「…前にも確かにそう言われたな。……しかし」
「どうぞ、お受け取りを」
リブはにこにこしている。…にこにこしているがしかし、主人のしかめっつらを見ても引
き下がる気配は微塵もない。
元々、それが何であれ、自分で言い出したことはやり通す男だ。アシュヴィンが受け取る
までは、にこにこしながら差し出し続けるだろう。
「……」
アシュヴィンはため息をついて、差し出された細長い包みを受け取り、促されるままに開
ける。
「…何だこれは」
出てきた物を見て、アシュヴィンは首をかしげた。
「毒味ばしか?」
贈り物は銀色に輝く箸だった。常世の国では、貴族階級だけの話ではあったが箸を使う習
慣がある。後継争いのために血で血を洗うような騒動が多々起こったため、王族の食事に
は毒味役がつくことが多くなり、主も口をつける食事を毒味役が手づかみで食べるのは失
礼だということで箸を使う習慣が広まったのだ。中でも銀の箸は、ヒ素系の毒に反応して
変色する性質があるため、高価ではあったが、毒味の箸として珍重されていた。
しかし、リブはにこにこしたまま首を横に振る。
「いいえ。…まあとにかく、お使いください」
試しにこれを、と差し出されたのは、炒った豆を盛った小皿だった。いつもならこんなも
のは指でつまんで食べるのだが、促されるまま、アシュヴィンは箸を使ってみた。
豆をつまもうと、箸をつかむ手に少し力を込める。…と、箸がいきなりぐにゃりと曲がっ
た。
「……!?」
その箸で豆をつまもうとしてみるが、とてもつまめたものではない。しかもアシュヴィン
が妙に力を入れるものだから、なおのこと箸は曲がってしまう。
「……!!??」
アシュヴィンは呆気にとられた。
「……リブ」
「はい」
「何だこれは」
「錫で出来た箸でございます」
「……スズ?」
「はい。純度の高いスズは非常に柔らかいのです。そのため、少し力を入れただけで容易
に曲がります。ですが、金属に負担がかかっているわけではないので、折れたりはいたし
ません。このように撫でてやれば、…失礼」
と言って、リブはアシュヴィンから曲がった箸を取り上げた。彼が指で箸をなぞるように
整えると、なるほどすぐにまっすぐに戻る。
「これ、この通り。元に戻ります」
「……で」
アシュヴィンはリブの講釈を聞きながら、執務机に片手で頬杖をついた。
「これは何なんだ」
「ですから錫の箸で…」
「そういう意味ではない」
リブの言葉をアシュヴィンが遮ると、リブはふっふっと何か含むように笑った。
「誕生日の祝いに何かおもしろいものをよこせと仰ったのは陛下ではありませんか」
「言った。…言ったが、しかし」
それは、誕生日の祝いをしないと言っているのに、自分はどうしても陛下を個人として祝
いたいから、何でもいい、とにかくほしいものを言えとリブが迫ってきて、てこでもひか
ないという構えを見せたので、やむなく何か言って場を濁そうととっさに出た言葉だ。ア
シュヴィンにしてみれば、冗談のつもりだった。それにそもそも、この贈り物が面白いか
どうかというと。
「いらいらするばかりでちっともおもしろくないぞ」
「さようでございますか、残念です」
リブは本当に残念そうにため息をついて、…それからふと雰囲気を改め、恭しく一礼した。
「……?」
「では、…本当のお祝いを」
「……???」
顔を上げたリブは、にこりと笑った。……そのまま数歩後ずさり、私室のドアを開ける。
ドアの向こうに苦笑しながら立っている人物を見て、アシュヴィンは思わず椅子からがた
んと立ち上がった。
「…忍人…!」
忍人は、先程リブがみせたものよりは幾分きっちりと堅苦しい、いかにも彼らしい折り目
正しい礼をしてから、改めて顔を上げた。
「常世の皇陛下へ、中つ国の女王陛下から祝いの言葉を携えてまかりこした。皇陛下がお
健やかであられるよう、御代が幾久しく栄えるよう、心より寿ぎ申し上げる」
朗々とした声がやわらかくアシュヴィンの耳に落ちる。……いつのまにか、リブは退室し
ていた。
呆然としたまま何も言わないアシュヴィンに、忍人は目を細めて苦笑する。
「驚いたか?」
「……驚かしに来たのか、お前は」
「いや、祝いに来たんだが、驚いたようだったから」
あっさりと言う、そのうなじにさらりと黒髪がかかってかすかな影を作った。
「リブから陛下の元に文が届いたんだ。常世の皇陛下の誕生日の知らせ、祝いの宴席は設
けないができれば一言寿ぎの言葉をいただけないかという願い、そしてその使者には必ず
俺を立ててくれという要望」
「……」
「狭井君は、葛城将軍を使者に指定するとは失礼が過ぎますと、目を三角にしていたが」
くす、と、忍人はまた笑う。
「陛下は、それがリブの頼みならと快諾なさった。…それが、リブのアシュヴィンへのお
祝いなんでしょう、と、俺にこっそり耳打ちなさって」
じわり、うなじが熱くなるのをアシュヴィンは自覚する。…もしかしたら、少々赤くなっ
ているかも知れない。
言葉もなく見つめるアシュヴィンの目の前で、忍人は少し切ない、何かをこらえるような
目をして唇を薄く開いた。
「……もっとも、…もしリブが頼まなかったら、俺から陛下に直訴していたと思う。…寿
ぎの使者には俺を立ててくれ、と」
「……忍人」
「………」
忍人はにこりと笑い、ふっ、と一度首を振る。それから、わざと作ったような、何でもな
い声で、アシュヴィンの手元にある箸を指さした。
「…それは?」
「……。……ああ、箸だ。…いらいらするんだ」
「いらいら?」
苦笑しながら箸を手にとる忍人を見つめながら、アシュヴィンは穏やかな誕生日の午後の
空気にゆるりと酔った。