書庫

柊は、誰かが書庫に入ってくる気配で竹簡から顔を上げた。その誰かは書架をめぐっては
何かを考えこみ、また歩を進める。律動的な歩き方。……おやおやこれは、と柊がもたれ
ていた書架から身を起こすのと、裏側の書架から忍人が顔を出すのが同時だった。
目があったとたんに忍人が顔をしかめたので柊が苦笑すると、彼はむっつりした顔のまま
こう言った。
「…なんだ、いるじゃないか」
「…何のことです?」
「布都彦が探していたぞ、柊。戦術について話を聞きたいのに書庫にも堅庭にも姿がない
といって、回廊あたりをうろうろしていた」
「おや。おかしいですねえ。…私はずっと書庫にいたんですよ?」
「……」
忍人が無言で柊をにらむ。柊は肩をすくめてみせた。
「……まあ、読書の邪魔をされたくないので、私の姿に気づかないようなら、あえて声を
かけたりはしませんけどね」
「…どうせ、布都彦の気配を察してこそこそ隠れていたんだろう」
お前のやりそうなことだ、と一人ごちてから、
「…話し相手になってやればいいじゃないか。どうせすることもないだろう。出雲の祭り
はまだしばらく先なんだから」
柊はうっすら笑った。
「苦手なんです、子供は」
「二ノ姫とたいして年は変わらないはずだが」
「そうですねえ。…男の子は苦手なんです」
忍人は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「…言っていろ。…邪魔をしたな」
言い捨てるなり、彼は身を翻した。
「…おや。書庫に用だったのではありませんか、忍人?」
「お前がいるなら後にする。どうせ、俺が布都彦にお前の居場所を知らせに行けば、お前
は書庫から逃げるんだろう。…お前がいなくなってからまたくればいい」
「……つまり、君は私を避けているわけですね」
はあ、と柊はわざとらしいため息をついた。
「子供の時はあんなにかわいらしく、またチャトランガで勝負をしろと私にまとわりつい
ていたのに、変われば変わるものですね」
「…貴様の身から出たさびだ」
低い声がそう糾弾した。忍人は柊に背を向けたままだ。顔を見られないのをいいことに、
柊は少し本音を顔に出した。苦い、苦しい、笑顔。…もちろん、一瞬でその表情は消え失
せる。代わりに、わざとらしくおどけた声で柊は言った。

「…厳しいですね」
「事実というのは厳しいものだ」
「おやおや。…君もずいぶんうがったことを言うようになりましたね」
「…俺は普通のことを言っているだけだ」
忍人はさっさと話を切り上げて立ち去りたいという態度をあからさまに見せているのだ
が、柊はわざと話を引き延ばした。彼は律儀だから、柊が相手でも話の途中でその場を去
るようなことはしないだろうと思ったからだ。案の定、じりじりしながらも忍人は柊との
会話につきあっている。
「そうですか?…昔の君は、もっと何でも直截的な言い方をしていたように思いますが」
忍人がふと、肩越しに柊を振り返った。
もっといらいらした表情をしていると思ったが、意外なほど、忍人は冷静な顔をしていた。
「…俺は変わらない。……変わったのはお前だろう、柊」
その言葉は柊にとって思いがけないものだった。
「…はあ?」
知らず、間抜けな間投詞をはさんでしまう。忍人はまた柊に背を向けて前を向いた。
「俺は、昔も今も、思ったことをそのとおり口にしているだけだ。だが今のお前は、俺の
言葉の裏にいつも、自分を責める言葉が隠れているのではないかと探している。…だから、
俺のどんな言葉も、うがった台詞に聞こえてしまうんだ」
「……」
これはこれは。
柊は、失った右目がうずく気がして、眼帯を少し押さえた。
…本当に、うがったことを言うようになりましたよ、君は。
「…もういいだろう。…布都彦に、柊は書庫にいたと知らせてくる」
「…それはつまり、私にここから去るようにと言っているのですね?」
「そうとられてもかまわない」
ふう、と柊はため息をついた。
「……忍人。そこまで私に秘密にしたいものとは何なんです。気になるじゃありませんか」
「………」
沈黙の後、忍人もため息をついた。
「…別に。お前はどうせ知っているものだ」
そう言って、忍人はふところから一巻の竹簡を取り出した。
少しほつれた赤い綴じ糸には見覚えがある。
「これは…あのアカシヤではありませんか、君の…」
「そうだ」
「里には行かなかったのですか?」
あの頃の忍人なら、ああいう意味ありげな伝言を残せば、きっと謎を解くだろうと思った。
逆に、はっきりと里に行けと言えば、反発して行かないのではと危惧したのに。
柊の疑念に、忍人は真顔のまま首を横に振った。
「いや、里に行った。長と、話もした。…そのとき、これはアカシヤではないとおっしゃ
ったので、お預けせずに持ち帰ったんだ」
柊は目を見開いた。
「…!…そう、でしたか」
一瞬彼がはっとしたことに忍人も気づいたようだ。少し眉を上げる。
「意外そうだな」
「意外ですよ。…私もまだまだだな。…私はこれを、アカシヤの残欠だと思ったんですが」
「…残欠?」
「一部が欠けているんですよ、この詩文は。中途半端なところで詩が終わっている。だか
ら本物のアカシヤでもないともとれますが、ほら、ここで綴じ糸がほつれているでしょう。
だから残りの部分が失われただけかとも思ったんです。……でも、長が言うのならアカシ
ヤではないのでしょう」
柊がそういうと、不意に忍人は腕を組んで考え込んだ。
「…忍人?」
「…いや、…どうだろう」
「ですが、長が違うと言ったのでしょう」
「ああ。…だが、あの方は、俺にこの竹簡を持たせていたいように見えたから」
あごにこぶしを軽く当て、視線を書架へ流す。ややあって、忍人はぽつりぽつりと話し始
めた。
「…あの戦いの中、この竹簡がなければ、俺はおそらくあきらめていた」
「…あきらめる?…何を」
「…生きることを」
思わず柊は忍人をのぞき込む。思いもかけぬ言葉だった。生真面目で自分に厳しい忍人が、
まさか、と。
だが、忍人はまるで柊が視界に入らないかのようなそぶりで、一人言めかして淡々と言葉
を続ける。
「…いつまで続くのだろうと思った。剣をふるってもふるっても、戦いは終わらない。多
くの部下が命を落としていく。…それを毎日ふがいなく弔うばかりで」
うつむいて息を深く深く吐いてから、忍人は再び語り始める。
「……母が、俺は剣を握って死ぬと予言したのなら、もうここであきらめてもいいかと、
何度か思った。部下が無事に逃げ切れたのを確認して、前から俺を見つけた敵兵のときの
声が聞こえてきたとき、…ああ、みんなが無事に逃げたのなら、俺はここで奴らに手柄の
一つもくれてやってもいいかと、…そうして楽になろうかと」
柊は黙って忍人の言葉を聞いていた。
中つ国がほろぼされることも、その後ひどい戦いになることも、柊はかねてから見ていた。
残された者から自分の行為を裏切りと糾弾されることはわかっていたので、どんなに周り
から責められても受け流す覚悟はできていた。
だが、その戦いが自分の知る人をどう変えるかまでは、予想していなかったと今気づく。
道臣は確かに心優しく、弱いところもあったが、呪具を使ってまでして逃げるような男で
はなかった。そして忍人は、柊の大の苦手の生真面目努力家で、剣の鍛錬や日々の勉強、
チャトランガの勝負に至るまで、あきらめるということが大嫌いな子供だったはずだ。
その彼が。生きることをあきらめようかと思ったと言う。
…正直、面と向かって裏切りを責められるより、この事実の方がこたえますね。
心の中で柊はこっそりひとりごちた。
だが、忍人は再び顔を上げた。
「だが、そのたびにこの竹簡を思い出した。俺はいつか俺の星に出会うのだから、今あき
らめてはならないと思い直して生き延びた。だから、今俺はここにいる」
…星。…そうだ、弓が星へ導くと書いてあった。…ああ、思い出した。あの竹簡を読んだ
とき、柊は、忍人もやがて龍の神子の元へ集う玉の一つなのだと知ったのだった。
「長が、このアカシヤを君に読み解いてみせたのですね」
忍人は、静かにうなずく。
「弓が星へ、俺の希望へ導く、ということだけ教えていただいた。だが、俺の思いこみか
もしれないが、長はそのとき俺のほかの未来も見ておられたのではないだろうか。この竹
簡をアカシヤとして長に預けてしまっていたら、俺は、あの言葉は夢だったかもしれない
と、生きることをあきらめたかもしれない。証拠の竹簡があったから、希望を信じられた。
…だから、今まで肌身離さず持っていた」
だがもう、これはこの書庫に置いていこうと思う。
「そのために、ここに来たんだ」
「置いていく?…なぜです?」
柊の問いに、忍人は目を伏せてやわらかく笑った。…柊はどきりとした。…子供の時は、
こんな笑顔を見たことはなかった。もっとやんちゃで、元気な笑顔ばかり目にしていた。
子供っぽくてうっとうしいとさえ思ったことがあった。
「俺は俺の星に出会った。だからもう、予言は必要ない」
「…そうですね」
柊は忍人に聞こえないようにため息をつく。
……君は、…私が見ないうちに、本当に大人になってしまったんですね。
そのとき、書庫の入口で声がした。
「忍人殿、おられますか?姫がさがしておられるのですが…」
「…!」
しまった!と柊が思うのと、忍人が唇の片端をあげるのは同時だった。声の主はもう一度
忍人殿、と呼びかけてから書架を回り込んでくる。
「…!あ!!!」
布都彦は柊を見てどこからそんな声が、と思うような大声を出した。
「柊殿!こんなところにおられたのですか!!ちょうど良かった、この間読んだ軍略書で
わからないところがあるのです。ぜひご教授ください!!」
「………」
柊が片手で額を押さえると、忍人がくっくっくっと喉声で笑った。
「つかまったな。一度くらい観念してつきあってやれ」
「…忍人……。…軍略書くらい、君でも説明ができるのでは?」
「俺は実技専門だからな。机上の疑問には答えられん」
しゃあしゃあとそう答えてから、ふ、とまた忍人は口元だけで笑う。
「…何回も笑わなくていいですよ」
「…いや。…お前にも読めない未来はあるんだなと思って。…少し安心した」
「星の一族にも、読める未来と読めない未来がありますよ」
「……ああ、…そうだな」
二人が何かを話し合っている様子なので布都彦は黙って控えていたが、その隙を見て柊が
隣をすり抜けようとすると、がっちりその腕をつかんだ。
「…今日は、ぜひ、おつきあいいただきます」
そのまま、その小柄な体で大柄な柊をずるずるずると引きずり始めたので、柊はわかった、
わかりました、と声を上げる。
「逃げないから放してください」
「いいえ、それは致しかねます」
「じゃあせめて、普通に歩かせてください」
それは布都彦も納得したが、まだ柊の衣を握りしめたままだ。
忍人は書架の陰からひらひらと手を振って見せた。柊は恨めしそうな目でしばらく忍人を
振り返っていたが、布都彦に「柊殿!」とせかされて、しぶしぶ書庫を出て行った。

二人を見送り、忍人はアカシヤらしきものが納められている書架を探した。読めないが、
アカシヤの文字がどんなものかはわかる。…それらしき棚にそっと自らのアカシヤを納め、
ふと思い出す。
「…そうだ。…長からの伝言を忘れていたな」
柊に、この爺不幸者が、と伝えねばならなかった。
「……まあ、いい。…また、機会もあるだろう……」
…つぶやきとともに、書庫の扉が静かに閉じられた。