曙光

土曜日の昼ご飯がそうめんだった。
流しに立っている誰かが黙々とそうめんをゆでている。背中を向けていて、それが誰だか
那岐には見えない。テーブルには四つ小鉢が並んでいて、その中に黒々としたつゆが入っ
ている。他に、トマトとキュウリとレタス。切ったりちぎったりしただけのものだ。なぜ
か、これなら安心安心、と那岐は思う。
だが。
四人そろって食卓について、いただきますのあと一斉にそうめんをつゆにつけて一口すす
って、……三人はぱたりとはしを置いた。
………なんだ、これは。
「……なんか、…ちがう、気がする」
ぽつりと千尋がつぶやく。
「めんつゆが古くなってる、のかな?」
「いや、そういうことじゃない気がする。……ああ思い出せないな、この味、なんだっけ。
よく知ってる味なんだけど」
風早も首をひねっている。
那岐は無言で、目の前の人物を睨み付けた。うつむいている彼の顔は見えない。夏だとい
うのに黒っぽい服を着て、彼だけが黙々とそうめんをすすっている。
千尋と風早もそろりと彼を見た。そうめんをすすりつづけていた彼は、視線を感じてかよ
うやく顔を上げた。…だが夢の常で、やっぱりそれが誰なのかはっきりとしない。
彼はめんつゆの入った小鉢を一旦まじまじと眺めてから、……どこか申し訳なさそうな、
遠くを見る目で、
「…そうめんをゆで始めてから、めんつゆがないことに気付いたんだ」
と、言った。
・・・・・。
「だから、…これでも似たようなものだろうと」
「あ、思い出した!」
風早と千尋が異口同音に叫ぶ。
「肉じゃがの味!」
「というか、すき焼きのたれの味だ。…どこかで食べた味だと思ったんだ…」
額を押さえる風早を斜めに見て、声もなく、がっくりと那岐は食卓に突っ伏した。その横
で、あははははと千尋が乾いた笑いをこぼす。
「めんつゆがないと気付いたなら声をかけてくれればよかったのに。しょうゆとみりんが
あれば、あとはだしをとるだけで作れるよ」
風早が困った顔でおっとりと言うと、那岐の前に座る誰かは申し訳なさそうにしょんぼり
と、
「…いや、手を取らせるのは悪いと思って」
とつぶやく。
や、そこは気にしなくていいから、と、なおも言葉を重ねる風早を置いて、千尋は立ち上
がった。
「ていうか、今から作る。那岐、待ってて」
敢えてそう声をかけたのは、さっきから那岐が一言も発しないからだろう。
「大丈夫、中に混ざってるわけじゃないから、気にしないでお兄ちゃん」
…お兄ちゃん?
その一言が那岐の中にぽつんと落ちて、池の波紋のようにゆるゆると広がっていく。
千尋はいったい誰をお兄ちゃんと呼んだのだろう。ここはあの異世界の橿原ではないのだ
ろうか。……まあ確かに、異世界の橿原で、自分と風早と千尋の他にもう一人いるという
状況は奇妙だが、偶然訪れた誰かが一緒に食事をしているのかと思っていた。そういうこ
ともあったかもしれないと。
…だが、偶然訪れただけの誰かを、千尋がお兄ちゃんと呼ぶだろうか。
那岐の内心の疑問に気付くはずもない千尋は朗らかに話を続けている。
「まあ、めんつゆもすき焼きのたれも、入ってるものは似てるもんね。使えるかもしれな
いって思うよね」
頭の中で疑問をぐるぐると回転させていた那岐はしかし、その千尋の一言にだけは思い切
りつっこんだ。

「そこはちがうだろ!てか、割合が違ったら全く別物だから、別物!!!」
叫んだ自分の声で、那岐は目をさました。
「……あ」
不思議な石造りの壁。固い寝台。那岐が起き上がったのは、天鳥船の自室だった。
「……なんだ、夢か」
………変な夢。
那岐はがしがしがしと頭をかく。
なつかしい異世界の家。騒々しくも穏やかに暮らしたあの日々。それを夢に見るのは、感
傷的だと思いつつも別に変だとは思わない。だが。
「…登場人物が変だ…」
あの家で暮らしたのは那岐と千尋と風早だ。だが夢の中ではそこに誰かもう一人加わって
いた。自分の前の席、確か食器棚でふさがっていたはずのその場所に椅子を置いて、当た
り前の顔をしてみんなと食事を取っている。
もちろん、夢なのだから、現実ではなかったことも起こり得る。だが、それにしては違和
感がなかった。彼の存在にも、起こった事件にも。夢の中の千尋と風早は、あきれ脱力し
つつも、彼がいること、彼がやらかすことを当たり前に受け止めていた。あまつさえ、千
尋は彼をお兄ちゃんと呼んだのだ。
「………」
考え込もうとすると、ずきりと頭が痛んだ。那岐は頭を一つ振って、思考を停止する。
壁に細くうがたれた窓の外をうかがうと、朝焼けの光が赤紫色に空を染め始めたばかりの
ようだった。今は夏だ。ということは、まだかなり早い時間のはず。
「…もっかい寝よ」
つぶやいて、がばりと上掛けをかぶったところに突然大音響と共に扉が開いた。
「起きろ那岐ー!!」
声と同時にでかくて重たくて暑苦しい体が那岐の上にどすん、とのしかかってくる。那岐
はかみつくように怒鳴った。
「何するんだよ、このバカ鳥!!」
「年長者に向かってバカとは失礼だなあ那岐」
サザキは那岐の上にのしかかったまま、芝居がかった気難しい顔を作ってみせる。
「わざわざ起こしに来てやったのに」
「なんでこんな朝早くから起きなきゃいけないんだ」
那岐がむっとすると、忘れたのかよ、とサザキはいつもの表情に戻って苦笑した。
「今日から珊瑚を捜しに行くんだろう。夏で日が長いから、少しでも早く出かけて長い時
間探せるようにって、昨日姫さんが言ってたじゃないか」
「………」
那岐は頭痛をこらえて額を押さえた。
……そうだった。今日から皆で珊瑚を探すのだ。南の海で取れるものが、波に乗ってここ
まで流れ着いていないかと、万に一つ、億に一つの可能性に賭けるような無茶を承知で。
「あるわけないのに」
呻くようにつぶやくと、サザキも少し困った顔で、そう言うなよ、と、ぽんと那岐のつむ
じを一つ叩いた。
「他に方法はないんだ。やるしかねえ」
「…わかってるけど」
「とにかくまあ、試してみるさ」
さっさと来いよ、来なかったらもう一回襲いに来るぞ、と言い置いて部屋を出て行くサザ
キの背中を眺めながらふと、…あんな夢を見たのはこの間のそうめん流しのせいかな、と
思う。
「…きっとそうだ」
自分で自分を納得させつつ、那岐は立ち上がって身支度を整え始める。
……けれど、あの夢の中の人物はサザキだっただろうか。……どうもそうは思えない。サ
ザキよりももっと静かで、冷静で、およそ意表を突くことなどしそうになくて、黒衣が似
合う人物。
那岐の脳裏に一人、その条件に当てはまる人物がよぎった。
その人はなぜか、あの古い家と同じ匂いがする。
…………忍人。

宝に関しては非常に前向きなサザキでさえ、半信半疑…というよりは、あるわけないけど
もし本当にあったらすげーよな!くらいの気持ちだった(と後で本人が述懐していた)珊
瑚捜索劇は、思いがけず、本当に珊瑚が見つかる、という形で幕を閉じた。
炎天下の砂浜にはいつくばってありもしない珊瑚を探しまくることになるだろうと、仲間
を半分に分け、一日交代で探すつもりだったのだが、蓋を開けてみればそんな細工は無用
だったわけで。翌日の捜索班に入っていた風早や道臣はこっそりとだがにこにこしている
…ように見えた。…那岐のひがみだろうか。
「…あちー」
那岐が、昼間の捜索で煮えた頭を冷やそうと、涼みに出た堅庭に先客がいた。
夏だというのに黒衣長袖で、庭の先端に立って風に吹かれている。
…忍人だ。
そういや、砂浜でもあの格好のままだったな、とふと思う。
………暑くないのかな。
数歩離れたところで立ち止まり、まじまじと背中を見ていると、不意に彼が
「何か用か、那岐」
と言った。…振り返ってもいないのにだ。
「…よく、僕だとわかったね」
「君の足音だ。履き物の裏の音と歩き方でわかる。足を止めているようだから、俺に何か
用かと。…ちがったらすまない」
「別に用はないけど、忍人がすまながることはないだろ。…今日、昼間があんまり暑かっ
たから、ちょっと涼みに来たんだ。…忍人は?」
「俺も似たようなものだな」
ようやく振り返って彼はそう言ったが、汗もかかず日焼けもせず、ましてや那岐のように
ぐったりした様子を見せることもない白い貌でそう言われても、現実味がない。
那岐は鼻をならしかけて、…やめた。拗ねてみせる体力もないし、何より、那岐は忍人が
嫌いではなかった。
出会って間もない頃こそ、なんだこいつと鼻白むこともあったが、共に時を過ごすうち、
彼の勘の良さとほどよい距離感に居心地の良さを感じるようになった。
忍人は自分にも他人にも厳しい人間だから、那岐の生活態度には思うところもあるだろう
が、那岐が必要とされる役割をきちんと果たしている限りは、度を超して意見してくるこ
とはない。諫めるべきはきちんと諫めるが、過剰ではなく、いつも一歩外から全体を見て
いるような忍人の冷静さが、那岐は好きだった。
だから、隣に並んで同じ風に吹かれる。
「…今日は驚いた」
那岐がぽつりと言うと、
「珊瑚か?」
前を向いたまま忍人は静かに応じる。
「うん。…半信半疑というより、九分九厘ないだろうと思ってたんだ。だから、見つけた
ときは目を疑ったよ」
「…そうか」
穏やかな声は特に変化はなかったのだが、那岐は少しその声を訝しんだ。
元より忍人は、あまり怒り以外の感情を表に出すタイプではないが、今のそれは、驚きが
表に出ていないのではなく、元々驚いていないからのように聞こえたからだ。
だから思わず問い直す。
「驚いてないんだ?」
「…?」
前を見ていた忍人が那岐を見た。黒いと言うよりは濃い紫紺色に近い瞳が、夕日の赤みを
帯びた光を受けて少し紫色に見える。一拍の呼吸の後、ゆるりとその瞳は伏せられ、また
彼は前を向く。
「…驚いてはいるんだが」
言って、彼は少し間をおいた。説明するための言葉を探している様子だった。
「意外と早く珊瑚が見つかったことには驚いている。…が、…時間をかければいずれは見
つかるのではないか、とは思っていた」
「まじで?」
思わず那岐は大きな声を出した。
「そりゃ、世界中の海はつながってるんだから可能性は皆無じゃないけど、…まさかいず
れはって、じじいになるまで探し続けるって意味じゃないよね?」
忍人は一瞬ぱちくりと目を見開いて、それから小さくぷっとふきだす。
「もちろん、…そんなには時間をかけずに、いずれ見つかるのだろうと」
「なんで?勘?」
「勘…と言えば勘なんだが、…俺の勘じゃない」
「…?」
もう那岐は疑問符だらけで問い返す言葉もない。忍人は腕を組んで片手の指の関節をあご
に当てた。
「…風早が、…止めなかっただろう」
「………?」
「それは無駄ですよとか、難しいんじゃないかなとか言わなかった。…だから、あるのか
もしれないと思った」
「………」
那岐は疑問を返す代わりに、忍人の言葉をゆっくりと噛みしめた。
「昔から、何度かあったんだ。…普通に考えたらそれはかなり難しいだろうとか、可能性
が低いだろうということを、風早が提案する。半信半疑でやってみると、それが実現する
んだ」
忍人はそこでかすかに眉をひそめた。
「…普通に考えれば、万に一つの風早の予測が的中した、…そういうことなのだろう。だ
が俺にはそうは思えなかった。風早は前もってそうなると知っていたんだと、…そんな気
がしてならなかった」
那岐の胸の奥がざわざわする。頭の隅がちりりと焦げるような。
「…忍人。…そのこと、誰かに言ったこと、ある?」
「いや。こんな話をするのは君が初めてだ」
言ってから忍人は那岐をのぞき込み、
「そんな顔をしないでくれ」
困った顔をした。
「…そんな顔?」
那岐はどこか虚ろな声で返事をする。
「ずいぶん考え込んでいるようだ。…考えてみれば、君も何年か、あちらで風早と過ごし
ていたんだったな。これは単なる俺の思いこみだから、君に心当たりがなくても当たり前
だと思う。異世界では風早も勝手が違うだろう」
変な話をしてしまったな、忘れてくれ。
彼がそう言ったとき、ちょうど狗奴の兵が一人、堅庭に姿を現した。呼ばれて、忍人は足
早に堅庭を出て行く。見送りもせず、那岐は自分の足元を睨むように見続けていた。

「……おや」
書庫に入ってきた人影を、柊は物珍しげにじろじろと見た。
「捜し物ですか?それとも、いつもの昼寝場所を、誰かに取られでもしましたか」
「どっちでもないよ」
那岐はむっとした顔で、お返しのように柊の顔をじろじろと見た。
「あんたに用事があるんだ。…にしても、…僕がここに来ると、あんたいっつもその書棚
のあたりにいるよね」
「…そうですか?」
柊の、どこか人を食ったような表情は、那岐が何を言っても動かない。今もそうだ。
「そうかもしれませんねえ。一応私はここの管理人を自負していますから、ここに人が入
ってくると、ついつい誰が来たのか確認したくなってしまうんですよ。だから、人が入っ
てくるといつも戸口が見える同じような場所にいるかもしれない」
那岐は胡乱な目をしたが、柊のその返答には何も言わなかった。筋は通っている。
柊はうっすら笑ったまま、それで?と促した。
「私がいつも同じ場所にいる理由を聞きに来たわけでもないでしょう。私に用とは、一体
なんですか?」
「……」
那岐は左手で自分の髪を少しかき乱し、一呼吸おいてから、あのさ、と言った。
「あんたは、…風早に予知が出来ると思う?」
「…予知?」
柊は表情は変えなかったが、那岐の言葉の一つをオウム返しに繰り返した。意味が通じな
かったわけではないだろうが、那岐は一応言い直す。
「風早は、これから起こることをあらかじめ知って行動している。…そういうことが、あ
ると思う?」
柊の表情はやはり動かない。が、軽く肩をすくめた。
「君がそう思うのならそうなんでしょう」
すげない言い方だが、那岐は気にしない。ただ、柊の表情のどんな変化も見逃すまいと、
まっすぐに柊を見つめ続ける。
「僕には応とも否とも言いかねる。…だけど、忍人はそう思ってる。風早には、これから
起こること、とりわけ可能性の低そうなことが、前もってわかってるみたいだって。珊瑚
のこともわかっていたんじゃないかって、そんな風に思ってるらしい」
忍人の名前を出すと、初めて柊に変化が現れた。…といっても、表情を変えたわけではな
い。相変わらずの無表情のままだが、頬がかすかにひくりと震えたのだ。
それを確認して、那岐はようやく柊を凝視するのを止めた。大きく肩をすくめ、書庫の壁
にとんともたれて腕を組む。
「変だと思わない?」
「…何がです」
「予知とか予言って言うなら、風早よりもむしろあんただろ。いつも人を食ったような顔
して、こうなることはわかっていました、とか言うのは柊じゃないか。忍人は、風早だけ
じゃなくあんたとも昔なじみのはずだ。だから予知が出来るようだと忍人が例に出すのが
あんただったら、僕も別に引っかかりはしなかった。…でも、忍人が名をあげたのは風早
なんだ」
柊は手袋をした指で自分の唇に触れている。表情を抑えるのは既にあきらめたのか、はっ
きりと探るような目で那岐を見つめている。
「…そういうことなら、直接風早に聞けばいいのではないですか?なぜ私に?」
「風早にこんなこと真っ向から聞いたって、どうせ笑って煙に巻くだけだろう。でもあん
んたなら答えてくれるだろうと思ったんだ」
「風早が言わないことを、私が?」
「もちろん、あんたが知っていれば、だけど。風早に直接聞くよりは、可能性あるかなっ
て」
那岐は壁にもたれるのを止め、身を起こしてあごをあげ、柊の顔をまっすぐに見つめた。
「…何にかは知らないけど、あんた、風早に何か怒ってることがあるだろう。何か一つだ
け、許せないことがあるんだろう。…たぶん、忍人がらみで」
「………!」
その言葉は明らかに柊の虚を突いたらしい。らしくもなく、彼は鋭く息をのんだ。
「時々気になってた。あんたと風早、昔なじみらしく気安くしているところもあるけど、
微妙に距離を置くところもある。…もちろん、それは誰にだってあることだ。あんたと道
臣だって、風早と忍人だって、気安くするところと大人として距離を置くところはある。
昔なじみとはいえ、しばらくは別々の場所にいたんだしそれが普通だろうとは僕も思う。
…でも時々、……本当に時々だけど、忍人を見ながらあんたは苦しいような切ないような
顔をして、その後必ずふっと風早を見るんだ」
その瞬間を思い出すように、那岐は柊から視線を外して少しあらぬ方を見た。
「風早を見るときの顔が怒っているってわけじゃないけど、変に表情がなくて白くて、…
それが普通に怒っている顔よりも余計に深く憤っているように見える」
「……」
柊は唇を閉ざし、ややうつむいてじっと動かずにいたが、…やがて長々と嘆息した。
「君は、…よく見ていますね、いろんなことを」
ふー、とまた長いため息。だが、今度のため息にはなにかふっきれたような強さが含まれ
ている。
「その観察力に免じて、教えてあげましょうか。…そもそも君には知る権利があるような
気もしますしね。君はもうとっくに、巻き込まれているんだから」
「…?」
…巻き込まれる?
何に、と那岐が問い返す前に、柊がうっすらと嗤いながら口を開いた。
「既定伝承、という言葉を聞いたことはありますか?あるいはアカシヤという言葉を?」
「…アカシヤって、木の名前…じゃないよね」
「ええ、それとは別物です。上手くかみ砕いて説明できるかどうかはわかりませんが、理
解力を駆使して何とかついてきてください。そもそも、君に既定伝承を説明するなんて既
定伝承はないんですから」
…この前置きからして、なるほど、ややこしい説明になりそうだ。
那岐はやや肩に力を入れ、身構えて柊の言葉を待った。

夜はとっぷりと更けた。堅庭には、交代で夜通し見張りに立つ狗奴の兵が一人、身じろぎ
もせずに扉を守っているが、他には人影はない。
那岐は兵からは見えないいつもの隠れ家に座り込んで、ぼんやりと空を見ていた。…いや、
顔を空に向けてはいるが、実際は何も見ていない。那岐の脳裏にあるのは、柊との会話の
内容だけだった。
既定伝承がどういうものかは、おおまかには理解できたように思う。ただ、それはあくま
で表面的な理解であって、実際に柊や風早がそれを知ることで縛られている(と那岐には
思える)既定伝承の本質そのものについては自分は何も理解できていないだろう。
が、それはいい。それはもうこの際気にすまい。
それよりも、那岐にはもっと気になることが出来てしまった。

既定伝承を説明し終えた柊は、ついでのようにぽつりとこう言ったのだ。
「そう言えば那岐、…あちらの世界で私と何回出会ったか、覚えていますか?」
「……は?」
那岐はぽかんとした。
「何回って、…あの一回こっきりだろ。あんたが千尋を迎えにきた、あの時だけ」
真面目にそう答えると、柊はおやおやとつぶやいた。
「…すっかり忘れてしまっているんですね」
……は?
那岐は今度は口に出さなかった。呆気にとられる気持ちはあったが、それよりも、胸の隅
からざわざわと何かが押し寄せてくるようななんともいえないむずがゆさが先に立ったの
だ。
「私と君は3回出会っていますよ。もっとも、1回は出会ったとは言えないかな。私がい
るのを君が見かけただけで、はっきりとは会ってない」
でも、3回ですよ。
柊は言いながらどこか楽しそうに笑った。
「思い出してくださいね、那岐」

那岐には不思議な確信があった。
柊は嘘をついていない。
けれど、自分の中にその記憶が全くないのもまた事実。
ということは、つまり。
「僕の、あの異世界での記憶に抜けがあるってことだ」
………。
そんなことってあるだろうか。今こうして思い返しても、過ごした日々は一日一日鮮明に
思い出せるというのに。あの家で寝て、起きて。学校へ行って、勉強して、家に帰って当
番制で食事を作り…。
ふと那岐の頭を、夢の中の光景がよぎった。
不思議な味のそうめんを食べる夢。あの家で4人で暮らす夢。そのことに全く違和感を感
じない自分。
…あれは、…ただの夢ではないかもしれない。
確かにあったことなのかもしれない。
顔が見えなかったあの人物を、本当は自分は知っているのではないだろうか。


那岐は空を見ていた。
深い夜はまだ明けない。那岐の心の中のように、何もかもが闇に包み隠されて形が見えな
い。
けれどいつか。…きっといつか、この闇の中に夜明けの光は差す。…そんな気がする。
今はまだ、断言は出来ないけれど。