書を読む人

岩長姫の屋敷は、東北の隅に書庫があった。竹簡を傷めないよう、風通しをよく、採光を
少なめにしたその場所は、いつも薄暗くてひんやりしていた。竹簡を確認するために、直
射日光が入らないように工夫された灯りとりの窓があって、その一角だけ、上から光が注
いでいる。柊はそこにいるのが好きだった。
「…おや」
誰かが書庫に入ってきた気配がする。棚の周りを歩いて竹簡を集めているようだ。その足
が柊のいる一隅に近づいてきて、ひたりと止まった。
「またここにいたのか、柊」
忍人だった。
「何をしているんだ」
柊は肩をすくめた。
「竹簡を読んでいるんですよ。君こそ、なんです?君が書庫に来るとは珍しいですね」
「道臣殿に頼まれて、素読に使う竹簡を取りに来たんだ」
彼が手にしているのは史書のたぐいだ。道臣は岩長姫から押しつけられて、屋敷に入門し
てきたばかりの若者に基礎知識を仕込むようなことをしていたから、おそらくその学習に
使うのだろう。道臣や忍人ならばとうに読み終えているような内容の竹簡である。
忍人は、柊の手元をふとのぞき込んだ。
「…ずいぶん傷んだ竹簡だな」
「この書庫のものではありませんからね。狭井君からお預かりしてきたんです」
柊は、ゆっくりと竹簡をくってみせた。ある程度汚れはおとされているのだが、それでも
あちこち泥をかぶった跡が残り、白く塩を吹いた形跡もある。
「出雲の国の浜に打ち上げられていたものを、あちらの国守が橿原宮に献上したんだそう
ですよ」
忍人は無言で竹簡をのぞき込んだ。柊は、忍人が見やすいように広げてやる。
「……読めますか?」
忍人はゆっくりと首を横に振った。
「…見たことのない文字だ」
「でしょうね。…出雲でも読める者がいないので、橿原宮に押しつけてきたというのが正
解らしいですよ。もっとも、宮でも読める者がいないので、私におはちが回ってきた」
忍人は目を見開いた。
「柊は読めるのか?」
「ええ。何かの献上目録ですね。麻や干魚、干飯、猪、…品物の名前の羅列だ」
「麻?……どの字が?」
「ここ。これが麻という字。…こちらが魚」
忍人はまじまじと文字を凝視していたが首を横に振った。
「…さっぱり……」
「でしょうね。これは君の知る文字ではないから」
「俺の知る文字ではない?」
「ええそう。これは…」
柊が答えを言おうとしたとき、忍人がかすかにつぶやいた。
「…あかしや?」
「…!」
柊は一瞬、雷で打たれたような衝撃を受けて、びくりと大きく肩をふるわせた。いつもな
にがあっても崩れない、どこか人を食ったような表情が、ほんの一瞬だけ驚愕にいろどら
れる。が、忍人に気づかれる前になんとか柊は気持ちを立て直した。
「…これは、大陸の文字ですよ」
「……大陸?……海の向こうに国があるという伝説の話か?」
「伝説ではありませんよ。こうして実際、出雲の国の浜辺に、この国の文字ではない文書
が流れ着いているんです。…大陸は確かにある」
「……確かに、理にかなった考えだが」
少しだけ納得がいかないのか首をかしげつつ、忍人は別の疑問を口にした。
「…柊はどうしてこの文字が読めるんだ?」
「私は星の一族の出だから。昔から星の一族は口伝と文書の管理を生業にしているから、
一族の手元にはいろんな竹簡が集まる。それを片端から読んでいたら、たいがいの文字は
読めるようになります」
「では柊なら、アカシヤも読めるのか?」
先の不意打ちとは違い、今度は柊は驚かなかった。驚かなかったが、その表情をくっきり
と険しくする。
「その質問に答える前に、私の質問に答えてもらえますか。…忍人、君の母上は笹姫とい
う名前では?」
「母を知っているのか?」
少年は黒目の大きい瞳を丸く見開いた。吸い込まれそうな深淵の色だ、と、柊はふと思う。
「直接には知りませんが、君の母上の名は、うちの一族では有名なんです。…なるほどね。
それでか」
「…母が有名?」
「そう。…君の母上は、星の一族から葛城の族に嫁いだから」
「……?」
忍人は不得要領な顔をしている。
「それが、どうか?」
「これがたとえば、羽張彦の姉上が君の一族に嫁いだとか、君の親族が大伴の族に嫁いだ
とかいう話なら、誰も気にもとめないでしょう。ですが、星の一族は、よそから夫や妻を
迎えることはあっても、よそへ嫁いだり婿入りしたりはしない一族なんです。外から伴侶
を迎えるのでなければ、一族の中で婚姻するか、あるいは一生誰とも添わない。…そうい
う一族なんですよ」
「…どうして?」
忍人の疑問に、柊は疑問で答える。
「…君は、星の一族のことをどの程度知っていますか?」
忍人は眉をよせて少し考え込むそぶりを見せた。
「…あまり、知らない。母は、一族から出るときに一族と縁を切ったとかで、母方の親族
にはあったことがない。祖父母にさえ、一度も」
「そう。でも君はアカシヤのことは知っていた。…ならばアカシヤのことはどの程度知っ
ている?」
ひそめた眉が、忍人の表情に影を落とした。
「…さだめられた、変えられない人の運命のことだと、母は言っていた。アカシヤを読め
る者は、未来がわかると」
「そうです」
柊は左手で自らの左目を覆った。…時折、自分が望みもしないのに、見たくもない未来を
見せてくれるこの目を。
「…考えてみてください。自分の傍らにいる人間が、自分の未来に起こることを全て知っ
ているとしたら。……気味が悪いと思いませんか?」
忍人はその質問には答えなかった。ただ、無言で柊を見返してくる。
「…もちろん、星の一族の人間だからといって、見たい未来を自由に見られるわけじゃな
い。けれど、自分の未来を知られているかもしれないと思うだけで、人はその人間を忌避
するものだ。…だから、我々は一族の中で生きることを選んだ。君の母上は、一族がその
ことを決めてから初めて一族を飛び出した女性なんです。だから、一族の者は皆、君の母
上の名前を知っている」
「……」
忍人は無言のままだ。
「愚かなことをした、きっと幸せにはなれまい、…そう、思われている」
「…!」
柊の挑発のあからさまさに気づけるほど、忍人は大人ではなく、余裕もなかった。
体技と瞬発力に関してはすでに柊に勝る少年は、一瞬で彼の胸ぐらをつかみ、左腕でその
のど元を壁に押しつけた。
柊の体が壁にぶつかる音が書庫に響く。ぐ、とくぐもった声が柊ののどから漏れ、はっと
我に返った忍人は柊から体を離した。
「…悪い」
ごほ、と柊は軽く咳き込む。そしてかすれた声で、
「謝ることはありませんよ。私はわかっていて、君を怒らせたんだから」
肩をすくめながらつぶやいた。
忍人はその言葉に、厭そうな顔をして柊を見やる。かみしめた唇をほどくと、その紅さが
際だった。
「…母は確かに、俺の死期を知っていた」
「……!……彼女は君に、それを告げたのですか」
少年は、かすかに首をかしげる。妙に子供らしい仕草だった。
「俺ははっきりとは聞いてない。父は、もっと詳しく聞いていたようだが。でも父はその
ことで母を疎んじたりはしなかったし、俺も母を疎ましく思ったことはない」
つらいことを思い出したのか、忍人の肩が落ちた。
「…自分が病を得て死の床にあっても、ずっと俺のことだけ案じて、俺のことばかり気に
して、…逝ってしまった」
…亡くなっていたのか、と、柊は心の中でひとりごちた。たとえ一族から出たとしても、
通常なら去就は一族に伝わるはずだから、おそらく柊が岩長姫のもとにきてから亡くなっ
たのだろう。しかし、見えた未来をあからさまではないにしろ、その本人に告げるとは。
一族では、笹姫は変わり者で通っていたが、本当に変わり者だったらしい。本人がどう感
じるか、考えはしなかったのだろうか。
「…俺は柊の質問に答えたと思うが」
ぼそりと言われて、柊は自分の物思いから我に返った。そうだ、忍人の質問に答えねばな
らない。
「私がアカシヤを読めるか、でしたね。……ええ、読めますよ」
「ならば、アカシヤを納めるしかるべき場所というのも、柊ならわかるだろうか」
「…というと?」
「母は一巻だけ、アカシヤを持っていた。…アカシヤ、だと思う。俺には読めないから、
確かにアカシヤかどうかわからない。母はこれをしかるべき場所に納めてほしいと俺に言
い遺して逝った。俺れはずっと、そのしかるべき場所がどこなのか、わからないでいた」
うつむきがちに話していた忍人が、まっすぐに顔を上げた。
「柊。俺の持っている竹簡がアカシヤかどうか、読んでみてもらえないか。そして、もし
本当にアカシヤなら、どうか、しかるべき場所に納めて欲しい」
柊はあっけにとられて思わずぽかんと口を開けた。笹姫はどこでアカシヤを手に入れたの
だろう。星の一族に伝わるアカシヤなら、厳しい管理下にあるから持ち出せるはずがない。
「…これは俺の想像だが、…母はこれを持って、俺に星の一族のもとに行ってほしかった
のだと思う。母が見た俺の未来では、俺は金色の剣とともに命を落とすことになっている。
星の一族で過ごせば、剣を握ることはないはずだと、彼女は考えていたようだ」
忍人はそこで少し言葉を切って、少し恥ずかしそうに、…多少情けなさそうにも見える笑
顔を見せた。
「でも、いろいろやってみて、わかった。…俺は、戦うことでしか、何かを変えられそう
にない。他のことはからきしなんだ。だから、俺は剣で、俺の運命を変えてみせる」
………ああ。
「…けれど、剣を握って死ぬ運命だと君の母上は予言したんでしょう。戦いの中に身を投
じる運命なら、君の母上の見たさだめのとおりだと思わないんですか?」
「思わない。さだめはきっと変えられる」
「………さだめは、…変えられる」
柊の脳裏を、一ノ姫の笑顔がよぎる。強大な敵と戦いながら、それでも余裕ある笑みを捨
てない羽張彦の未来の姿が浮かぶ。やがて力尽きる二人の未来を、幾度もこの左目は見せ
た。未来は変わらない、…そう、柊をあざ笑うように。
けれど。
「君は、剣を手放そうと思ったことはないのか?」
「一度も。…この剣で、さだめを変えなければならないから」
……ああ、だから。…だから笹姫は、忍人に未来を伝えたのか。
忍人のこの生き様を知って、彼ならば、絶望的な未来すら、希望に変えると信じたのか。
剣で命を落とすさだめと知っていても、彼は笑ってその剣でさだめを変えると言い放つの
だ。ならば一ノ姫と羽張彦も、柊が見た未来を笑い飛ばして、ともにさだめを変えようと
言うだろうか。
…己にもできるだろうか。さだめを変えることが。
「……わかりました。…預かりましょう、君のアカシヤを」
そして、ともに変えましょう。君のさだめと、己のさだめを。
「ありがとう、柊。…面倒を頼んで、すまない」
「いいえ」
柊がうっすらと微笑んだとき、書庫の入り口のところで道臣の声がした。
「……忍人はいますか?」
しまった、と忍人は首をすくめる。頼まれごとをすっかり忘れていたらしい。
「います。すみません、道臣殿、今行きます」
あわてて駆け出す忍人を、ひらひらと手を振って柊は見送った。ほの明るい北向きの窓か
ら落ちる光が、その色の淡い右の目を照らしていた。