秋霖


雨は今日で数日降り続いていた。
降りこめられるほど激しい雨ほどではないにせよ、止むことなく降り続く雨もまた厄介だ。
暖かい熊野といえど、糸のように細い晩秋の雨は冷たく、…天鳥船の船内を憂鬱な空気で
満たしている。じっとりと、湿気も重い。

−…そろそろ止むだろうか。……それとも。

空の様子を見ようと何気なく堅庭に出て、忍人はおやと眉を上げた。
四阿の屋根の下、アシュヴィンがいた。その傍らに、美しい毛並みの黒い獣を従えている。
獣はアシュヴィンに背中を撫でられながら、おとなしく首をうなだれていたが、そちらを
伺う忍人の気配に気付いてか、二度ほどぷるりぷるりと耳を動かした。
「……」
ゆるゆるとアシュヴィンが振り返る。彼がうっすらと目を細め、微笑んだのを見て、忍人
は雨を避けるように大股に歩いて四阿の屋根をくぐった。
「…珍しいな」
思わずそう声をかけたのは、黒麒麟がここにいたためだ。
いつもは船の入口辺りに繋がれている。天鳥船には厩などないので、アシュヴィンが出か
けるときに便がいいようにと二ノ姫が決めたのだ。
アシュヴィンは肩をすくめた。
「…雨が続いて、人通りが少ないのでな」
「……?」
それが、黒麒麟を四阿に連れてきた理由だ、というのは理解できたのだが、人通りが少な
いと何故黒麒麟を移動させねばならないのかがわからない。忍人が静かに押し黙っている
と、彼が首をひねっている気配を察してか、アシュヴィンは静かに笑んで、再び口を開い
た。
「……黒麒麟は、元々群れで生きる獣だ。この黒麒麟も、群れにいたものを一頭捕まえて
飼い馴らした。……だから、あまり孤独を好まない。入口に繋がれて、俺と遠く離れてい
ても、人通りが多ければその行き過ぎる人の群れを見て心慰めているが、こんなに雨が降
り続いては人気もなくなる。すると、寂しくて寂しくて仕方がなくなる」
アシュヴィンが、言いながら角の間を掻くように撫でてやると、黒麒麟はその鼻面をうれ
しそうにアシュヴィンにすりつけた。
「そうするとな。…呼ぶんだ」
「…呼ぶ?」
「ああ」
「……黒麒麟は啼くのか?」
同じ船にいても、一度も声を聞いたことがない気がしていた忍人は、少し目を見開いた。
アシュヴィンはしかし、ああ、いや、と首を横に振る。
「啼くが、…こうしたときに声を聞いて主を呼んだりはしない。…何というか、…思念の
ようなものを感じるだけだ」
「……思念」
「ああ」
言って、アシュヴィンは穏やかに笑んだ。
「黒麒麟は人語を語らないが、気配で主と会話する。黒麒麟の主は、そういう気を感じ取
るのに聡い者でなければならないとよく言われている。…常世では、麒麟は皇の騎獣と呼
ばれているが、皇の誰も彼もが乗りこなすわけではないのはそのためだ」
なるほど、と忍人は腕を組む。
「では君は気配に聡いたちか」
「見かけによらずな」
忍人の言葉を受けて、アシュヴィンは今度は悪戯っぽくにやりと笑ってみせた。
「どうもあまり気配聡くは見えないらしいが、案外感じ取っているつもりだ。……たとえ
ば、お前」
「…俺?」
「……。……俺に、殺気を向けなくなった」
「……っ!」
忍人は、知らずぐっと握り込んだこぶしで腹の辺りを押さえた。
…アシュヴィンの指摘通りだ。彼らが船に乗り込んだばかりの頃、忍人は船内で彼らを見
かけるたび、わき起こりそうになる敵意と毎回必死で戦っていた。……だが今は、こうし
て二人きりで語らって、彼が利き手で麒麟の首筋を撫でているにもかかわらず、それを油
断と自分は認識していないし、とがった感情も抱かない。
「……良いのか?」
アシュヴィンの瞳にからかうような光がある。
「俺がお前達を油断させて、二ノ姫を弑するとは思わんのか?」
「……少なくとも今この瞬間は、君はそうしないだろう」
その問いに忍人が静かに答えると、アシュヴィンは眉を上げた。
「…なぜそう思う」
「……。……黒麒麟が、ぴりぴりしていない」
「…」
「もし君にそのつもりがあれば、黒麒麟がもう少し緊張しているだろう。だがこの獣は今
明らかにくつろいでいる」
「……」
アシュヴィンはまじまじと忍人を見た後で、小さくため息をついた。
「…お前も大概、聡いな」
肩をすくめる。
「俺は、頭のいい奴は好きだ。…敵に回すと厄介だが」
「……」
「…お前の察するとおり、黒麒麟は俺の感情にも聡い。俺が何か企めば、すぐこれに伝わ
る。……確かに俺は今、二ノ姫をどうこうしようとは思わない。……だがこの先はどうか
わからんぞ」
試すように光る瞳を見たとたん、ふわっ…と、忍人の中で何かが閃きそうになった。
「……」
とたん、ぶるる、と黒麒麟が鼻を鳴らした。アシュヴィンもくくっと喉を鳴らす。
「…なるほど、そのときは容赦しない、ということだな。…覚えておこう」
黒麒麟を撫でていない手で、アシュヴィンはつっと忍人の頬の線をなぞり、その指をあご
で止めた。
「…本気のお前と刀を交えることを想像するのは楽しいな。……ぞくぞくするほど心地よ
い」
「……戯れ言を」
「戯れ言ではない。本心から言っている。……お前はちがうのか?……本気の俺と、一対
一で戦ってみたいとは思わないか?」
忍人はその情景を想像した。そして、じわりと胸が熱くなることに驚く。
彼と刀を交え、ひたり眼差しを交わし合うことを想像しただけで、昏い快感が腹を灼く。
「……もしそんな日が本当に来れば、恐らくどちらかが命を落とすことになるだろう。…
だから本来、そんな日が来なければいいと願うべきだが」
アシュヴィンは嗤う。
「……どうにも、我ながら、……度し難いものだな」
「……。お互い様だ」
ぼそりつぶやく忍人の、硬い頬の線をもう一度そっと撫でて、アシュヴィンの指先は静か
に離れていった。
愛撫のようなその動きに、忍人はふっと顔をしかめ、目をそらした。
……雨は冷たく、蕭々と降り続いていた。