秋扇

パーティーが佳境を迎えている中、彼はふらりと場を抜け出した。友人は優勝者を祝福し
に行っている。彼に目を向ける者は誰もいない。
控室にするりと滑り込むと、雑然と置かれたかばんや楽器ケースが目に入った。探すほど
のこともなく、目当てのものを見つけて、彼はややほくそえんだ。愛しげに一度そっと撫
でてから、ケースを開けて素早く何かを中に滑り込ませる。
…浮かぶ満足そうな笑みを、目にした者は誰もいない。

「…え?じゃあ今から帰るのか?」
少し驚いた声で、響也が念を押すように問い返した。
「ああ。用は済んだし、飛行機の便も取れたからな」
けろりと千秋は肩をすくめて、
「見送りに行こうか」
真顔で言い出す律には、よせよせと手を振る。
「お前が来たら榊も来るだろう。…あいつら、場所が変わったらまた嬉々として不毛な喧
嘩を始めるぞ」
「「ふーん」」
離れた場所にいる二人の鼻を鳴らす音が見事に重なった。おっと、という顔になったのは
新、両手を小さく口に当てて、右と左をちらちらうかがうかなで、八木沢は口元の苦笑を
片手で隠し、火積はがしがしと頭をかく。
「…あいつらって」
「誰のことやねん、千秋?」
そうやってきれいに文章がつながるところが既におかしいです、あなたがたは、とハルが
小さくつぶやいた。芹沢が静かに二度うなずく。
「まあせやけど、見送りがいらんのは確かやね。…羽田は遠いし」
ゆるゆると千秋に近づいて、蓬生はその肩に腕をかけ、ふわりと含み笑って。
「豪勢なさよならパーティーもしてもろたことやし?」
「って、これは俺たちの優勝祝賀パーティーだろうが!!」
大地が何か返すよりも先に響也がつっこんだ。
「……なんだ。いつのまにか、遊び相手が増えたな、蓬生」
「いや別に、増やしたつもりはないんやけど」
おかしいなー、と首をかしげる蓬生。しょうがねえなと千秋が頭をかく。出番がなくなっ
た大地は腕組みで首をすくめ、その耳元に律が何か耳打ちした。大地が小さく吹き出し、
律も笑う。
何も変わらない。コンクールが始まる前と、終わった今で、変わったことは何もない。
そう言い聞かせるように、心の中でつぶやいている誰かがいることを、この部屋の他の誰
も知らなかった。
……ただ一人を除いては。

「………はー」
大地は部屋に荷物を下ろし、椅子に座り込んで背もたれに身体を預けた。
心地よい疲労感と高揚感、それに少しばかりの奇妙な喪失感がない交ぜになって、心の中
でぐるぐると渦を巻いている。
三年間、コンクールでの優勝が目標だった。それを達成した満足の底に、ほんの少し目標
がなくなった淋しさがあってもそれは仕方ないと思う。…けれど、自分の中にある喪失感
がそれだけではないことを、大地は自覚していた。
「…らしくもない」
苦い笑いがもれる。失うことは、最初からわかっていた。いや、そもそも、自分は彼を得
たわけではない。ただその実験に付き合っただけだ。
押そうが引こうが、自分は彼を変えることが出来なかった。実験結果を見届けることも叶
わない。そして彼は行き、二度と戻らない。…それが現実だ。
「二兎を追う者は一兎をも得ず、じゃなかっただけましか」
コンクールの優勝がこの夏の全てだ。それ以上、何を望む?
大地は小さく笑ってようやくゆるりと立ち上がり、三年間付き合った相棒を収めたケース
をそっと撫でた。
違和感に気付いたのはそのときだった。
「…?」
何だろう。…移り香?
何気なくそう思ってからはっとする。
この薫り。……他にこの薫りを漂わせていた人間は、身近にはいない。
「…!」
大地は慌てて楽器ケースを開けた。ケースに収まった見慣れたヴィオラ。…その隙間に、
差し込まれた細く頼りないもの。
かすか震える指で、その携帯用の小さな扇子を取りだし、鼻梁に押し当てた。ゆるりと白
檀が薫る。よみがえる気配に息が詰まった。
「……っ」
大地は、せっかく立ち上がったばかりの椅子にどさりと乱暴に腰掛ける。顔を天井に向け、
扇子を手にした腕を額に押し当て、きつく目をつむって長く息を吐く。…改めて深く息を
吸い込むと、なんともいえない白檀の薫りが鼻腔の奥をくすぐった。
階下から、お風呂に入っちゃいなさいと母親が呼んでいる。聞こえているのに、その声に
大地は答えられなかった。

当日か、遅くとも二、三日中には電話がかかってくるだろうと思っていた。だが思いがけ
ず、一週間たっても何の音沙汰もない。
…気付いていないのだろうか。
蓬生は首をひねった。
だが、コンクールが終わったとはいえ、そのまま一度も楽器に触れないというのは妙な話
だし、ケースを開ければ気付かないはずはない。
…黙殺。
考えられるのはそれだ。見つけて、でも何もせず放っている。ないしは、関わりのないも
のとして捨ててしまった。
…そうかもしれん。
蓬生はほろ苦く笑った。
あんなもんで気を引こう、縁をつなごうと思うのがどうかしていた。相手にしてみればた
だ一夏、遊びと実験につきあっただけの気持ちだろう。彼の本気は元より別のところにあ
る。自分の本気もだ。
いたずらを思いついて実行したときのわくわくした高揚感が、重く気まずい後悔に変わる
頃、千秋が唐突に星奏と至誠館のメンバーを神戸に招待すると言い出した。ざらりと砂を
かんだような気持ちを呑み込んで手配をした晩、…ほとりと、件名のない短いメールが携
帯に入っていた。
差出人の名前を見て、蓬生は薄く笑う。思いがけず、また顔を合わせることになって慌て
ているのだろうかと思いながら本文を見ると、…そこには思いがけず、不思議な一文がぽ
つりとあるだけだった。

しゅうせんを、知っているか。

しゅうせんはひらがなだ。すぐ思いついたのは終戦の二文字。それから周旋。…どちらも
あまり、ぴんとこない。
「…また、わけのわからん謎かけを…」
蓬生は頭を抱えた。布団の上に携帯を放り出し、いったんは顔を背け、…けれどどうして
も気にかかって。
「…ああもう、しゃあないな」
乱暴にもう一度携帯を取り上げ、アドレス帳から一つの番号を選んで押した。
コール音が二回。ふっと電話がつながって、自分が覚えているよりも少し低い声が
「もしもし」
とささやく。
「…メールもろた」
名乗る気もない。どうせ向こうの携帯にも自分の名前は出ているのだ。
「しゅうせんて何。…意味がわからんのやけど」
「…じゃあ、秋扇は?」
「…あきおうぎ?」
ひらり、彼の手元に残したものが、脳裏にひらめく。
「あきおうぎって、…秋の扇?」
「ああ。…秋の扇。別名、忘れ扇、捨て扇。…秋の季語だ」
蓬生は携帯を抱くように両手でもって、その低い声に耳をすませた。
「…君だろう、土岐。…あの扇子を俺の楽器ケースに入れていったのは」
「…そう。…俺や」
「あれは、…俺はもう不要だという念押しか?」
「…念押し?」
「言ったろう。秋扇は捨て扇だ。…時と場に合わないもの、不要になったものの象徴だよ」
蓬生はすっと息を呑んで。…それから、顔をしかめるようにしてくつくつと笑い出した。
「土岐」
大地の声が尖る。気配を察して、待って、切らんといて、と蓬生は大地を引き留めた。
「…参った。物知りすぎるわ、榊くん。そないうがったこと思いつくとは思わんかった」
「…」
「言うとくけど、パーティーの最中に抜け出してこっそり隠すなんてめんどくさいこと、
これから別れよって奴のためにするほど、俺は優しないんよ」
「……」
ゆるゆると、体中から息を吐ききるようなため息が聞こえてくる。苦い笑いを、蓬生は必
死でこらえた。
「…逆や。……縁をつないだつもりやった。俺のこと、白檀の匂いがするって榊くんが言
うから、置いていくならあの扇子にしようと」
香りでつながることをただ願っただけ。
…じわり、何か熱いものがわいてきた気がして、蓬生はぎょっとした。
…何だこれは。…涙?まさか自分が?大地相手に?
「…最初から素直に聞けば良かったよ」
大地の声はみるみるうちに弛緩した。のんびり、いつもの穏やかさを取り戻す。
「俺も最初は単純にびっくりして、…君の名残が手元に残ったことがうれしかった。すぐ
電話しようとしたけど、いやまだ飛行機の中かとか、家についても家族に積もる話がある
よなとか、いろいろ考えてる内にどんどんタイミングを逃していって、…そしたら今度は
だんだん、裏を考えはじめてさ。…素直に忘れ物だよって返していいのか、それとも何か
裏に意味があるのか悩んで、調べて」
ふう、と嘆息。
「秋扇の言葉を知って、がっくり落ち込んで」
「阿呆」
思わずそこで合いの手を挟んでから、蓬生ははっとした。
…声が、情けないほど震えていた。
「土岐…?」
大地にも気付かれたようだ。呑気だった声が不意に改まる。
「まさか、…泣いてるのか?」
蓬生は、電話を少し遠ざけて唾を一つ呑み込み、息を整えてから、
「まさか」
言い返した。ちゃんと声を作れた、と思う。けれど、明らかにそれを芝居だと確信する声
で大地に再び、
「土岐」
と呼ばれて、…もう蓬生は、どうしようもなくなってしまった。
「…」
……何で。何でこの男なんやろう。頭ばっかりよくて口が達者で、ずるくて優しくて、…
おまけに他に好きな人がおるのに。
千秋へ千秋へと向かう意識とは別の何かが、自分の中で悲鳴のように大地を呼んでいる。
「…土岐」
何も言わない蓬生に、大地の声はしみるほど優しく。
「…東金から連絡をもらった。俺も神戸に行くよ。…神戸で君にもう一度会えることを、
…俺は望んでいいのかな」
「…まだ、実験結果を報告してへんしな」
声を必死で整えて、それでも震えないようにするには低くぼそぼそと言うしかなかった。
本当は、実験結果などありはしない。あの実験を自分は打ち消してしまったのだから。
知ってか知らずか、そうだねと大地は優しく笑う。
「結果報告を楽しみにしているよ」
…それから。
「どうせ泣くなら、電話の向こうでじゃなくて今度会ったときにしてくれないか。…俺の
腕の中で慰めてあげるよ」
「気色悪」
思わず吹き出したとたんに、こらえていた涙が一つだけ落ちた。
「いらんわ」
「ひどいなあ」
「俺のことばっかり言うて、榊くんはどうやの。秋扇の意味を見つけたとき、俺の扇子抱
いて泣いたんちがう?」
「泣いたよ」
けろりと、否、いけしゃあしゃあと言ってくれる。
「…うさんくさいなあ」
「ひどい言われようだな。今度会えばわかるよ。扇子に涙のしみがあるから」
「…」
蓬生は額を押さえた。
「うわ疑ってる」
どこかうれしそうに大地は言う。
「疑うやろ、普通」
…わかっている。こうやって大地は自分を慰めているのだと。二十日余り、手を伸ばせば
すぐそこにあった温かさの代わりに、今はこの声だけが、ぽかりと空いた心の穴をふさい
でくれる。
「再会が楽しみだな。感激で泣いてくれよ、土岐」
「泣かん言うてるやろ」
…そう言えば、前にも似たようなことを言われた気がする。めちゃくちゃにしたかったと。
なぜそんなことを望むのかと思いながらも、一つだけ気付いたのは、それが意地悪からで
はなく優しさからくる願いだということ。
「…扇子は、返さんでいいよ。…持ってて」
「……わかった」
また会おう。…おやすみ。
電話が静かに切れて、…蓬生は呆然と布団の上で膝を抱える。
また会おうという一言が、ほつり、心に残って、じわりと胸を熱くする。
蒸し暑さに立ち上がり、少し窓を開けると、気の早いコオロギが一匹だけ鳴いている。
秋を呼んで、恋を呼んで。…けれど、どんなに鳴いてもただ一匹。
…応えはない。