卵焼き 忍人が食卓の卵焼きを前に、少し困った顔をしている。 那岐は、その理由を知っている。 この間、友達とお弁当のおかず交換をした千尋は、その子の卵焼きが甘くておいしかった と言って、ここのところ甘い卵焼きを作るのに凝っている。なかなか上達してきておいし いが、…忍人はその甘い卵焼きが苦手なのだ。 だが、彼は食べ物を残すことはしない。まして、千尋ががんばって作っているものを。 …とはいえ、続くと苦痛なのだろう。その結果が、小さな困り顔。 ので、那岐はこう言った。 「忍人さあ、卵焼きとほうれん草のおひたし、交換しない?」 忍人がぱちくり目を見開く。しかし、コンロに向かって人数分のお味噌汁をつけていた千 尋がその那岐の一言を聞きとがめて、 「あ、駄目だよ、那岐!ちゃんとほうれん草食べなくちゃ!」 と振り返ったときには、那岐は忍人の皿の卵焼き二きれを、ぽい、と自分の口に放り込ん でいた。代わりにほうれん草のおひたしの小鉢を忍人に押しつける。 「もう!なーぎー」 「食べちゃったし」 おたまをふる千尋に、けろりとした顔で那岐が言う。忍人が苦笑して、 「…おひたしをいただくから」 静かに言ってはしをつけると、もう、の一言だけ残して、それ以上千尋も何も言わず、味 噌汁の小鍋に向き直った。 その千尋に聞こえないように、小さな小さな声で忍人が。 「…ありがとう」 那岐にはちゃんと聞こえた。ので、日だまりの猫のような顔で那岐は笑った。