七夕 玄関を開けた忍人を、わさりと緑が出迎えた。 「お帰り、お兄ちゃん」 緑の向こう側から千尋が声をかける。 「ただいま。…なんだこれ。…笹?」 「そう」 彼女は両手に折り紙を持って笑う。 「七夕にはもう時期が遅いんじゃないのか」 千尋も那岐も、もちろん忍人も、夏休みに入っている時期だ。あと数日で8月がやってく る。 「裏のおばあちゃんにもらったの。このへんは旧暦で七夕をお祝いするから、よかったら どうぞって」 飾りの作り方も教わったんだよ。自慢げに彼女は笑う。 「こうやって折って、はさみで切って、ひろげるの。…ほら」 彼女がその紙を広げると、網で作った釣り鐘のような形になった。 「ここにたんざくを差し込んで、風鈴みたいな形にするんだって。みんなの分、四つ作る から、お兄ちゃんも何かお願い書いてね」 「…っ」 忍人は一瞬言葉に詰まった。 願い。 自分の、本当の、願い。 書いてもいいのだろうか。 いや、書いて願って、…かなうものなのだろうか。 ずっとここで、このままこうして、暮らしていたい。 千尋を妹と呼び、那岐と風早と家族のように、戦いのないこの場所で、このまま。 千尋はレストランの紙ナプキンのような形に折った紙にひたすらはさみをいれている。こ の世界と暮らしがいつか失われるかもしれないことなどまるで知らない彼女。 「…千尋は、…なんて書くんだ?」 「ええ、何?リサーチ?」 千尋ははさみと折り紙から顔を上げて忍人を見てから、うーんそうだなあ、と天井を見上 げた。 「…ずっとこの生活が続きますように、…かな」 ……! 胸を衝かれた思いは、顔に出たのだろうか。 千尋は忍人の表情を見て、ぺろりと舌を出した。 「だって、…このままがいいんだもん。お兄ちゃんと風早と那岐と私で、この家でずっと 暮らすのがいい。……ほんとは、いつかはみんなばらばらになるものかもしれないけど。 風早が結婚したり、…那岐や私やお兄ちゃんが、進学や就職でこの家を離れたり」 千尋は小さく唇をとがらせた。 「…でもほんとは、…そんなの、やだな」 忍人は、慣れない作り笑顔を浮かべて心にもないことを口にする。 「風早だけじゃなくて、千尋だっていつか結婚するだろう」 はっ、と千尋が顔を上げた。怒りにも似たその視線に、忍人は少し気圧される。 「…しないわ」 強い口調だった。 怒りながらすがりつくような、その視線の強さを受け止めかねて、忍人はたまらず目をそ らした。 「…着替えてくる」 千尋は一瞬傷ついたような顔をしたが、すぐに首を振って、小さな笑顔を見せた。 「うん。…ごめんね、玄関先で呼び止めて」 「…いや」 靴を脱いで千尋の横を通り過ぎ、…そこで忍人はもう一度足を止めた。背を向けたまま千 尋を見ずに、傍らで笹の傍にうずくまる千尋の金の髪にそっと手をのせる。 「着替えたら、手伝うから。…一緒に願おう」 ずっと、こうして暮らしていられるように。 千尋の願いと自分の願いは、たぶん少し意味が違うのだろう。けれども、今の生活を、共 に過ごす相手を、愛おしく思う気持ちに代わりはない。 「…うん」 千尋の声にも、少し張りが出る。ほっとしてそっと振り返ると、千尋も忍人を振り仰いで いて、視線を合わせてえへへ、と小さく笑う。 愛おしくて、胸が詰まる。 星に、願いを叶える力があるのかどうか、忍人は知らない。 だが、願うのも悪くはない。 完成した笹飾りを軒下に掲げて、四人で夜空を見上げながらそう思う。 こんなに星が綺麗だと、…願いも叶いそうじゃないか?