端緒

名前を呼ばれた気がして、忍人は顔を上げた。
辺りを見回すまでもなく、顔を上げたちょうどその先に、少女がぽつりと立っている。四
阿に入ろうか入るまいかと思案する様子で小首をかしげていたが、忍人と目が合うとうれ
しそうに笑った。
「何か、調べ物ですか?」
忍人が卓上にかがみ込んでいる姿を見たからだろう、少し遠慮がちにそう問うてくる。
「ああ。このあたりの地図だ。古いものしかなかったんだが、ついこの間、サザキ達が空
から確認して、新しく正確なものに修正してくれた」
千尋の瞳がぱあっと輝く。
「一緒に見てもかまいませんか?」
「それはまあ…」
応じながら、忍人は困惑の色を隠せない。それを見た千尋の瞳が少しかげった。
「…あの、駄目なら駄目って言ってください」
「いやかまわないが」
慌てて肯定して、忍人はまじまじと千尋を見た。
「…何ですか?」
「君は変わっているな」
「…?」
千尋はきょとんと目を丸くする。
「俺はこれといって女性が喜ぶ話は出来ないのに、よく話しかけてくる」
地図を開いていても、たとえば常世の皇子達なら、美しい花の咲く場所を教えて彼女を喜
ばせることも出来るだろう。だが自分にはそんなことは出来ない。
忍人が率直にそう言うと、千尋はくすくすと笑った。
「でも今の私に必要なのは、女の子の好きそうな場所を知ったり花を摘んだりすることじ
ゃなくて、大将としての知識でしょう?」
いつもなら自分が彼女に厳しく指摘することを、真顔で彼女から申し出られて、忍人も思
わず苦笑した。大きく肩をすくめたのは降参の印だ。改めて地図を広げ、千尋から文字が
見やすいように置き直してやる。
街道、鉱山、港、川筋と渡れる場所、開けた土地。戦略的に重要と思われる場所をゆっく
りと指し示す。彼女が自分の足で歩いた場所も含まれているので、彼女も納得するように
ゆるゆると頷きながら忍人の指を追う。
ふと千尋が、忍人の指を先回りして一ヶ所を指した。
「…ここは?」
そこについている印は港や鉱山とは少し違っている。それが気になったのだろう。ああそ
れは、と忍人は小さく肩をすくめた。
「それは玉の印だな」
「…玉?」
「ああ。…古来、この地にはいい玉が産する。この山から流れる川の下流でも玉が見つか
ることが多い」
言って、忍人はふと自分の腰飾りを弄んだ。
「俺のこの玉も、確かこの辺りの産と聞いた」
何気なく言ったのだが、千尋は瞳を輝かせて忍人のその玉に見入っている。
「きれい」
いつも身につけているものだが、腰に控えめに下がっているだけなので、彼女が間近で見
る機会は少なかっただろう。うれしそうに見つめる瞳が少女らしくて、忍人は彼女に気付
かれないようにそっと笑んだ。
王族の生き残りだ、将軍だ、と奉られ、忍人も意識して彼女に厳しく接しているが、彼女
はやはりまだ年端のいかない少女なのだ。港や鉱山よりも、玉の方に興味を示すのが当た
り前だ。
…そう思ったせいだろうか。忍人は思わずこう洩らした。
「よければ、一つ進呈しよう」
「…!?」
うつむき気味に玉をじっと見ていた千尋の頭がひょん、と跳ね上がった。忍人の顔をまじ
まじと見て、それから弾かれたようにぶんぶんと手と顔を横に振る。
「え、いえその、いいです、大事なものを。ごめんなさい、私がじろじろ見ていたから」
大事、というか、まあ。
忍人は耳の後ろを少しこすった。
「親からもらったものだが、一つくらいどうということはない。こういうものは本来、俺
より君の方が似合うだろう。それに、持っておけばいざというとき何かの交渉材料に出来
るかもしれない」
何か必要なものがあったとき、物々交換できるものを持っていれば、交渉が上手くはかど
るかもしれない。忍人が、あまり好きではないこういう腰飾りを下げているのも、親から
もらったという理由よりはそういう実際的な理由の方が大きい。
そう説明すると千尋は、
「交渉材料…」
なんともいえない微妙な顔をした。それから吹き出したいのをこらえる顔になって、口元
を手で隠す。
「…姫?」
男性が女性に飾り物を渡すにしては、あまりにも情緒のない理由だったということに忍人
は気付いていない。千尋はようやく何かを(おそらくは笑いを)こらえきって、ええと、
それじゃあ、と小首をかしげた。
「お言葉に甘えて、…その、二つめの玉をいただいてもいいですか?」
忍人はまじまじと自分の腰飾りを見た。自分には全部似たような玉に見えるのだが。
「君がこれを気に入ったなら」
素直に二つめを外して手渡す。ぺこりと頭を下げて受け取った彼女は、掌でそっと玉を握
り、その手をもう片方の手で大事そうにくるんで、
「ありがとうございます」
と柔らかい声で礼を言った。それから、
「……みたい」
かすかな声で何か一言つけたした。…が、声が小さすぎて、忍人は彼女がなんといったの
か聞き漏らす。
「…今何と?」
聞き返したら、いえ、と千尋は小さく首を横に振った。
「別に何も」


「釦みたい」
自室の寝台に腰掛けた千尋は、忍人が聞き取れなかった言葉をもう一度つぶやいて、掌の
上でそっと、もらった玉を転がした。
玉は濃い霧のような乳白色で、球というよりはやや平たい、楕円球のような形状をしてい
る。
遠目で見ていたときには気付かなかった。ただの白っぽい玉だと思っていた。だけどこう
して手に取ってみると、その平たい感じや中心の穴が、やっぱり釦に似ている。
もらった玉をしみじみと眺めながら、そのときの会話を思い出して、千尋は少しだけくす
っと笑った。
「交渉材料って」
お金という概念がない豊葦原では、確かに、誰もが喜ぶような貴石の類は良いものと取引
できるだろう。がしかし、女性に身を飾るものをプレゼントするのに、その発言はいかが
なものか。
くすくす笑いながら千尋はしかし、自分の胸にひやりと入り込む痛みに気付いていた。
忍人がそういう発言をするのはつまり、自分を女性として意識していないということだ。
大将軍と奉られてはいるけれども、女性であるが故にまだまだ戦力面では心許ないこと、
逆に女性であるが故の中つ国での王位継承者としての正統性、…そういう意味では彼は間
違いなく千尋を女性として扱っている。…けれど、恋をする対象としてはおそらく意識さ
れていない。
心臓を鋭い爪でわしづかみにされたような痛みが走る。
千尋はそっと唇をかんだ。
このことが辛いのは、…私自身は、忍人さんのことを男性として意識しているから。
私は、……あの人が、好きだから。
彼を思うと、じわりと胸が熱くなる。ひやり冷たいはずの玉にさえ、彼の熱を捜してしま
う。
彼のことを考えただけで、声が出なくなってしまうくらい、好き。
いつから好きになっていたのかなんて、もう思い出せない。気がつけばその姿を目で追っ
ている。彼の発言を気にしている。ほめられるとうれしくて、怒られると泣きたくなる。
でも怒られることよりももっと怖いのは、呆れられて無視されること。だからそんなこと
にだけはならないように、怒られても怒られても、次は怒られないように必死で彼の言葉
を守る。努力する。前を見る。
そうしているとふと、時々彼の視線に気付く。面と向かっては決して見せてくれない優し
い視線で、私を見つめてくれていることがある。振り返るともういつもの無表情に戻って
いるところは厳しいなあと思うけれど、私は彼のその照れ屋で無器用な優しさを愛してい
る。
だから、…二つ目の玉をとねだった。
玉が釦に似ていると思ったとき、すぐに思い出したのはかつて暮らした世界での第二ボタ
ンの風習。大好きな人に、その人の心臓に一番近いところの釦をもらう、おまじないのよ
うなイベント。
玉と釦は違うし、腰飾りの玉ではどの玉も心臓から似たような位置なのだけれど、釦を連
想したらどうしても、二つめがほしくなった。
少し怪訝そうに、それでも快く彼がくれた二つめの玉。白い指先は玉を外すときは無造作
だったが、千尋の掌にその玉を落とすときは物慣れない少年のようにどこかおずおずと遠
慮がちだった。
その朴訥さを思い返していたら、千尋は不意に、眩暈のような既視感に襲われた。
同じことが、前にも一度あったような。
「………」
だが、忍人から何かをもらうのはこれが初めてだし、異世界で卒業式は経験したが、釦を
もらったことはない。だからこれはいつもの気のせいなのだ。
…いつもの。
千尋は知らず爪をかんでいた。
「どうしていつも、忍人さんなの」
初めて会ったときからなつかしいと感じるのも、同じ夢を見るのも。
懐かしいと感じるのが、いかにも自分を見知っていると言いたげな柊だったなら、たぶん
こんなに不思議には思わなかった。
同じ夢を見たのが那岐なら、不思議ねといいながらも、同じ家で暮らしたもの同士、笑っ
てすませられた。
それなのにどうして忍人なのだろう。いつも。
……もう、偶然とは思えない。きっと何かがあるのだ。何も失ってはいないつもりの異世
界の記憶の中に、自分が失っている何かが、きっと。
「……っ」
不意にひどい頭痛がして、千尋はこめかみを押さえた。座り込んでいた寝台にぐらりと倒
れ込む。柔らかな寝具にそっと体を包みこまれても、頭痛は治まらない。何かをせかす時
計のように、ずきん、ずきん、と規則正しく千尋を打つ。
ずきん、ずきん。
痛みを刻まれるたびに、ゆるゆると脳裏を流れていくもの。
それはあのなつかしい橿原の家の間取りの一つ一つだった。
少し手狭な玄関。入ってすぐに二階へ昇る階段。那岐と毎朝取り合いだった洗面所。居間
と、台所兼食堂。食器棚でふさがれて三つだけ置かれた椅子。二階には千尋の自室と風早
の部屋と那岐の部屋。
「……!」
瞬間、千尋の脳裏にあるものが稲妻のようにひらめいた。
それって。…それってもしかして。
確かめなければ、と思いながら彼女は、泥のような眠りの淵に落ちていった。