誰そ彼時 「気もそぞろだな」 ため息とともにかけられた厳しい声に、はっと我に返る。顔を上げた先で、律の師匠であ るヴァイオリン工房の主人が、難しい顔で律を見ていた。 「集中できずに作ったものは、たとえ小さな部品一つでも使い物にはならん。…今日はも う上がって、少し頭を冷やしてきなさい」 指摘が正しすぎて、言い訳も出来ない。 「……すみませんでした」 短く謝って道具を片付け、工房を出る。入口をくぐる寸前、 「…しかし、原因を作ったのはわしの孫だしなあ…」 ぼそりとつぶやく声が聞こえて、そうではないのだと、律は苦い笑いをそっとこらえた。 一日の始まりは、確かにかなでだった。朝、さあ作業を始めようと、工房の机で道具を並 べて確認している最中に、携帯を鳴らしたのだ。 「律くん、お誕生日おめでとう!プレゼント届いた?」 かなでからのプレゼントは新しいCDで、通販サイトから二日前に送られてきていた。そ のことを告げると、よかった、と明るい声で彼女は笑う。 「今日着くように日にち指定してもよかったんだけど、もしかして届かなかったら困るな って、二日前を指定したの。…うち、田舎だもん」 「荷物はちゃんと届く」 苦笑で律が応じると、うん、そうだね、とかなでも苦笑を返した。 「とにかくよかった。それを聞きたかったの。それじゃ、お仕事頑張ってね」 じゃあね、と電話は切れた。おじいさんにも一言、と言いかけたのだが、聞いてもいなか ったようだ。かなでの祖父である工房の主人は、律と目が合うと、いい、いい、と手を振 った。 「元気そうかな」 「元気みたいです」 目尻に笑いじわを深く刻んで彼は作業に戻り、律も作業を再開する。…その手が再び遮ら れたのは一時間後、今度は宅配便の来訪だった。律の家の方に回ったら不在だったので、 と説明してくれた顔見知りの宅配業者が運んできたのは、律儀な後輩からの荷物だ。こち らは、かなでのように変に荷物事情を深読みすることなく、素直に当日午前中指定されて いた。 昼休みに箱を開け、礼の電話を入れる。電話に恐縮しながら出た後輩は、律が記憶してい るより少し落ち着いて大人びた声で、 「お誕生日おめでとうございます、如月先輩」 と言った。 響也のことは響也先輩と名前で呼ぶのだから、自分も名前でかまわないと一度言ったのだ が、彼は手と首を激しく横に振り、 「響也先輩は区別がつかなくなるのでやむを得ず名前を呼んでいるだけです。僕にとって 如月先輩はずっと憧れる存在です。名前で呼ぶなんてとんでもない」 と言い切った。 以来、改めて名前で呼んでくれとは言い出せないまま、今に至っている。もう少しくだけ てもらってもかまわないがと思いつつ、そういう生真面目さこそが彼の彼たる所以だとも 感じる。……何しろ、赤ん坊の頃からの幼なじみでさえ、部の中では一日の長ある先輩だ からと、「榊先輩」と呼んだ彼だ。 「……」 その名前が脳裏に浮かんだとたん、胸にきり、と鈍い痛みがはしった。律は眉を寄せ、頭 を一つ振って、思い出したものを心から追い払おうと、別のことを考えようとした。…そ うして耳によみがえったものは、またしても携帯の着信音だ。 ハルとの電話を切り、さて、と腰を上げようとしたところに携帯が鳴った。ハルが何か言 い忘れたことでも、と、一瞬思ったがさにあらず、ディスプレイに浮かぶ名前は再びかな でだ。 「どうした小日向」 言いながら電話に出ると、応じたのは幼なじみの少女ではなかった。 「…よお」 ぼそりと照れくさそうな声でつぶやいたのは弟だ。 「…響也」 「元気か、兄貴。……あー、その」 言いかけて何か戸惑う様子の弟の声の後ろから、 「響也しっかり!ちゃんと言って!」 と、はっぱをかけるかなでの声が聞こえる。…なるほど、彼女がたきつけて、電話をかけ させたか。 「…その」 ならば、と待てば、逡巡しつつも弟はぼそりと言った。 「誕生日おめでとう、兄貴。……あのさ」 「……ありがとう、響也。……CD、興味深く聞いている」 「……っ」 電話の向こうで弟が声を詰まらせる。…律は静かに笑った。 荷物の中にCDは二枚入っていた。一枚はかなで好みと思ったが、もう一枚は違った。差 出人はかなでだが、もう一枚を選んだのは恐らく響也だろう。 「…何でもお見通しかよ」 ちぇー、という響也の舌打ち、何?何?と反応するかなでの声まで、電話は拾う。きっと 電話の向こうではもっと大きな声で騒いでいるんだろうな、と、律は笑った。遠く離れて いても、二人がすぐ側にいるかのような一体感が心地良い。 「私の名前で送って、実は、って驚かせようと思ってたのに、ばれちゃってたね」 響也から電話を取り上げたらしいかなでが、くすくす笑いながら言った。 「そうなの、あのCD、二人からだったの。ゆっくり聞いてね。…せっかくのお昼休みな のに、長電話しちゃってごめんなさい。またね」 電話は切れた。 …ふっ、と、辺りが静まりかえった気がした。 鳥はさえずっている。木々の葉擦れも聞こえる。室内では時計も時を刻んでいる。 静かになったのは恐らく現実の音ではなく、自分の心の中の音なのだろう。ふっつりと何 かが切れてしまったような静けさだ。たった今まで自分は、電話という糸であの場所とつ ながっていた。かなでがいる、響也が、ハルがいる、……彼もそこにいる、あのなつかし い場所。電話でつながっているときには近く感じたその場所が、本当はとても遠いことを 思い知らされた。 「……」 律は、ふう、とため息をついた。昼休みに感じた静けさは、そのときからずっと変わらず、 今も自分の中にある。 元々、現実の静けさは、律にとって安らぎだった。静けさの中で耳を澄まし、心を研いで、 自分のヴァイオリンに相応しい音を選り出すのは、律にとって至福の時間だった。だが、 心の中の静けさは現実の静けさとは違う。心がひたりと静まっていると、そこからは何も 汲み出せない。 律は空を仰ぐ。日は高く、まだなかなか暮れそうにない。それでもどこか、そこはかとな く漂う落日の気配が、日の光にささやかな色を添えている。時計を見るともうすぐ五時だ。 日の短い季節なら、とうに山に日が落ちている時間だ。落日の気配も無理はない。 「……」 ふと、ちょうど反対だな、と思いだし、律は小さく唇を噛んだ。 それは去年の彼の誕生日。 話し込んでふと顔を上げたら外はもう真っ暗だった。ぎょっとして腰を浮かしかけた律に、 彼は笑いながら、 「まだ五時前だよ」 と言った。 「何か予定でも?」 「……いや、その」 律が口ごもると、彼は何かを含むようににやりと笑う。 「夕食の予約は六時かな」 「……な」 絶句する律。してやったりの彼の顔。 「今日はずっと時間を気にしてそわそわしているようだったからね。…俺に内緒で、何か 予約でも入れているのかと。……違うかい?」 違うかいどころか、その通りだ。予約の時間までぴったり言い当てられて、律は笑うしか ない。 「…かなわないな」 「先読みは癖でね。…嫌がる人もいるから、改めようとは思うんだけど」 「いや、…俺にはありがたい」 俺は口下手だから、と付け加えると、彼は優しく目を細め、何も言わずに律の髪をそっと 撫でた。 律は耳を澄ました。 風はなく、鳥たちが家路を急ぐ時間でもない。そんな中降りそそぐ黄白色に柔らかい日の 光は、あたたかいけれどどこか空虚で寂しかった。 「……」 現実の静けさはいろんな色をたたえている。いつもならその静けさの中から安らぎや緊張、 暖かさを汲み取る律だった。だが今日の静けさの中からは寂しさしか汲み取れない。 …わかっている。今日の静けさが特別なのではない。今日の自分が特別なのだ。本当はあ るはずのいろいろな色が見えなくなっている。心が動かされなくなっている。ただただ、 寂しさ一色だけが胸に迫って。 「……っ」 律は手で目を覆った。 …ずっと、その名を思い出さぬようにしようと思っていた。その名を思い出して呼んでし まったら、何か途方もないものに流されていってしまいそうで怖かった。けれどもう、流 されることよりも呼ぶことを我慢することの方が辛くなって。 「……大地」 名を呼んだ。ひそやかに。 「大地」 甘く。 「大地」 請うように。 「……」 会いたかった。だが、それを願ってはならないと、ずっとこらえてきた。大地はこの春か ら、晴れて医者としての第一歩を踏み出したばかりだ。都内の工房で数年の修業を経た自 分でさえ、まだまだ駆け出し扱いで覚えることが山ほどある。大地が日々の仕事と勉強に 追われる姿は容易に想像がついた。だから、誕生日だといって会いたいと願ってはならな いのだと、ずっと自分を戒めていた。 …けれど、心のどこかで、大地は来てくれるのではないかとかすかに期待している自分が いる。会いたくて会いたくて、我慢を忘れ、列車に飛び乗ってしまいそうな自分がいる。 「……会いたい」 とうとうつぶやいてしまった、そのときだった。 背後の方から、ざり、ざり、と砂利を踏みしめつつ近づいてくる足音が聞こえて、律はは っとした。 足音は工房の方からこちらへ向かって近づいてくる。工房主の足音ではない。年齢を重ね たことと座り仕事のために腰を痛めている彼ならば、もっとゆっくり歩いてくるはずだ。 …では、誰か。 胸が早鐘のように鳴り始めた。もしかしたらと思う期待と、期待して裏切られたと思う恐 怖が交錯する。迷う間にも足音は近づいてくる。 ままよ、と開き直り、振り返る。 ………律の前に、彼はいた。 「……っ!」 「…律」 空耳ではない確かな声で、呼ばれる名前。 「…大、地」 応じて彼の名をつぶやく自分の声は震えていた。 「…ど、うして、ここに」 つばを呑み込みながら、やっとの思いで問いを絞り出すと、大地はにこりと笑った。 「工房の場所はひなちゃんから聞いていたからね。この時間ならまだ仕事中だろうと思っ て、先にそっちに寄ったんだ。…そうしたら、今日はもう上がったっていうんで、慌てて 家の方へ向かうところだった。…行き違いにならなくてよかったよ」 「…いや、そうじゃなくて」 どうしてこの場所にいることがわかったか、ではなくて。…横浜にいるはずの大地が、何 故。 「遅くなってごめん。今朝まで夜勤だったんだ。引き継ぎ相手が遅刻してきたんで、乗れ るはずの電車を一本逃してさ。そこからどんどん予定がずれてきて、気付けばこんな時間 だ。…参ったよ」 「……大地」 言われてまじまじ見つめ直せば、確かにまぶたのあたりに疲労の色が濃い。頬も少しほっ そりしたようだ。それでも大地は笑っている。 「誕生日おめでとう、律。…明日の夜はまた夜勤だけど、根性で一日半、休みをもぎ取っ たんだ。ほめてくれないかな」 「……大地」 名前を呼ぶのが精一杯だった。喉に氷の塊がつっかえたような気がする。鋭く息を吸って、 そのまま顔を押さえ、立ちすくんでしまった律の肩に、大地はそっと手を置いた。 「……久しぶりだね、律。…律がこっちに引っ越してまだ二ヶ月かそこらだけど、本当に 久しぶりって気がするな。…………会いたかった」 「……」 目を閉じたままの律の耳のそばで小さく笑う呼気。…そして、そっと囁かれる「律は?」 という問い。 「……っ」 顔を上げ、目を開ける。間近に大地の顔があった。 自分が今どんな顔をしているのかはわからないが、大地は律の表情を見てはっとした顔に なり、ついで、たまらない、とでも言いたげな表情を見せ、やおら律を力の限り抱きすく めた。 その温もりに身体はゆるみ、喉につかえていた氷の塊が溶け出す。…息をして、…ようや く律は、震える唇で言葉をつむいだ。 「……会えないと、思っていた。無理だって。大地は忙しいし、……ここは遠いから」 抱きすくめられて、律の目からは大地のうなじと肩しか見えないのだが、律が訥々と語る 言葉に大地が笑うのが、自分の肩とうなじを通して伝わってきた。 「……嘘をつくのが下手だね、律」 「……」 「…信じていたんだろう?俺は来るって。何があっても絶対来るって」 「………それは俺のわがままだ」 「わがままで結構」 「大地」 「……信じてくれて、ありがとう」 その声の深さに泣きたくなった。今腕の中にある体温も、頬にかすかに触れる癖のある髪 も、愛しくて、愛しくて、たまらない。 「……大地」 「……うん?」 「…都内の工房でも仕事は出来たのに、故郷に帰ることを選んだのは俺だ。…遠く離れて しまうことを選択したのは俺自身だ。だから、俺はずっと、離れても平気なんだと思いこ もうとしていた」 「……律」 大地がそっとつぶやく。 「でもそれは、間違っていた。…俺は、間違っていた」 大地の肩に額をこすりつけ、鼻梁でうなじにそっと触れる。 「遠くても、我慢は出来る。でも平気じゃない。…絶対、平気ではいられないんだ。…本 当はいつだって、触れて、つないで、抱きしめたいと思っていた」 「……律」 先ほどまで饒舌だった大地が、まるで律と入れ替わったかのように、律の名前しか呼ばな い。律は大地の背に回した手に、少しだけ力を込めた。 鼻梁を触れさせていたうなじに今度は耳を押し当てる。皮膚を通して、ごおぉ、というか すかな音がする。身体の中を血がめぐる音だと誰かが言っていた。ならばこれは、大地が 生きている証の音だ。 かすかだけれど、静けさからはほど遠い、力強い音だ。 −…もう、さびしくない。 律は微笑んで瞳を閉じた。