橘

「坊。どこへ行きなさる?」
坊という呼ばれ方にむっとして振り返った忍人だったが、呼びかけてきたのがいかにも人
の良さげな小柄な老翁だったので文句をのみこみ、丁寧に返答する。
「知り合いが、この先の窯場にいます」
「…おお、そういえば宮の人が窯を借りに来たという話じゃった」
ほくほくとうなずいて、老翁は首を少しひねる。
「これから窯場まであがるのでは日が暮れますぞ。うちの松明をお貸ししましょう。取り
に戻る間、ここでお待ちなされ」
「いえ」
忍人は首を振る。
「お手間をおかけしたくありません。今しばらくは日も出ているでしょうし、この山は西
南に面していますから」
老翁は苦笑のまじる嗤いをこぼした。
「…この山をよくご存じのようですな。…ではこれ以上はお引き留めいたしますまい。お
気をつけていかっしゃい」
そういうと、老翁はゆるりと忍人に背を向けてのろのろと元来た方へと歩き始めた。その
背中に向かって生真面目に一礼し、忍人も彼に背を向け、山道を登り始める。

道は木々の向こうに西日をすかしながら、ゆっくりと山の斜面にへばりつくようにして目
的地へと向かっている。分岐はほとんどない、わかりやすい道だ。忍人はきびきびと山を
登る。
春の日は暮れるのが心なしか他の季節よりも遅い。太陽の光にはまだ落日の赤は薄く、白
く輝いているから、今しばらくは道も明るいだろう。この分なら容易に窯場につけるに違
いないと、忍人が少し安堵したときだった。
にわかに、辺りが暗くなってきた。
「…!?」
そんなに急に日が落ちるはずはない、一体何が、と慌てて空を見ると、思いがけずむくむ
くと雲がわいて、ちょうど西の空までも覆ってしまうところだった。
「…もしや、あの翁が懸念していたのは…」
山の天気は変わりやすい。まして春から初夏にかけてははなおのこと。日暮れまでにはま
だ時間はあっても、頼りのその日の光を黒雲に遮られてしまっては、足元も覚束なくなる。
この地に長く住む老人なら、この山の天候にも詳しいだろう。正確にではなくとも、天気
の崩れを薄々予想して、忍人に呼びかけたのかもしれない。
老翁の親切から出た言葉を、なぜもっと真剣に聞かなかったか、と、忍人は思わず顔をし
かめ、天を仰いだがもう遅い。
辺りはすっかり夜のような闇に包まれてしまった。
「…」
夜目は利く方だ。闇に目が慣れてくると、少しは歩けるようになった。
だが、道の片側は、木々が生い茂っているとはいえ、崖だ。油断は出来ない。
忍人は歩く速さを少し落として、慎重に歩き始めた。
窯場へは、途中まではずっと、山を巻くようにして登るこの道をたどればいい。だが途中
で道をそれなければならない。
そろそろその分岐にさしかかるはずだが、と忍人は目を凝らした。
すると。
闇の中に、小さな五芒の形が白く閃いた。
忍人ははっとして目をこらす。もしかしたら窯場の光ではないかと思ったのだが、その期
待はすぐに失望に変わる。窯場の光が、いかな遠くてもこれほど小さいはずはないし、そ
もそも窯場の光ならもっと赤みがかっているはずだと思ったのだ。
だが目の前の光は清々しく白い。そして一つではなく、よくよく見ればいくつもの白い五
芒星が薄闇の中に閃いている。

…これは、…なんだ?

忍人は誘われるようにふわふわと歩き出した。もっと間近でその白いものを見ようと思っ
たのだ。
白いものはぽつりぽつりと闇に輝く。…まるで忍人を誘っているようだ。
近寄るとすっきりとそれでいて甘い匂いがする。……これは、花の匂いだろうか。それと
も果実?
いつもならその時点で状況を警戒する忍人だったが、今日はなぜかそうする気になれなか
った。この白いものに誘われるがまま道を行こう。そう決める。
一つには、ひらめく白さがきっぱりと潔く、誘う匂いが甘い中にもきりりとしていて、い
ずれも悪意を感じさせないためであったが、また一つには先の老翁への対応の反省もあっ
た。好意から出た言葉を素直に受け取らなかったことがこの窮地だと思うと、次は少し信
じてみようと思ったのだ。
誘われるまま歩くうちに、忍人はその白いものが五弁の花、…橘の花だと気付く。そうい
えばこの山には橘が多かった。ぐるりと山をめぐるように木が生えていたはずだ。
…だが、不意に白い花は道を曲がった。…このまままっすぐに山を登っても木が続いてい
たはずなのに、だ。
「……」
もしや、と道を急ぐ。煙の匂い。土の匂い。……そして、白い花とは違う赤みを帯びた、
炎に由来する光。
「…風早!」
呼びかけると、窯の前に座り込んでいた青年が立ち上がった。灯りのためだろうか、ある
いは五月になっても夜は冷えるので暖を取るためだろうか、焚かれた焚き火の火で赤く染
まるその顔は、忍人を見て驚いていた。
「…忍人!?…どうして」
「岩長姫と柊から、陣中見舞いを預かってきた」
風早は、柊が壊した岩長姫の酒器を作り直すために、窯を借りて数日山にこもっているの
だった。簡単な食料は持って行っているはずだが、そろそろ里の食べ物が恋しくなるかも
しれないと、忍人が使いに出されたのだ。
「松明なしによく来られたね」
風早はそう言って、まじまじと忍人を見た。
「日がある内につけるだろうと思ったんだが」
少し拗ねた忍人の顔を見て、風早が笑う。
「確かに、本当ならまだ日がある時間だな。急に曇ったから俺も驚いたよ」
「ああ。…人の言うことは聞くものだと思った」
「…ん?」
「…麓の方で、老翁に声をかけられた。松明を貸そうと言われたのに日のある内に着ける
からと断って」
「…翁」
一瞬風早の瞳孔が縦に閃いたが、伏し目がちの忍人はそれに気付かなかった。
「…そうか、じゃあ手探りできたんだ」
よくがんばったねとねぎらわれて、忍人は慌てて、いいや、と首を振った。
「何もなかったらこの時間にはつかなかった。…だが、花が」
「…花?」
風早は少し目を丸くする。
「ああ。…あれはたぶん橘の花だと思う。…五弁の花が道沿いに白く輝いて、道案内をし
てくれたんだ。…だから、思いがけず早くにここに着けた」
ぽつりぽつりと語る忍人の言葉に、風早は深くうなずいた。
「橘…。…そうか……」
そういうことか、というつぶやきは、忍人には届かなかったらしい。
「…?」
少し不思議そうに風早を忍人が見上げてくる。何も知らないそのまっすぐな瞳を見て、君
は愛されているな、というつぶやきを小さな笑みと共に風早は呑み込む。
忍人に声をかけた老翁は、おそらく人ならぬ存在だろう。この山の土地神ではなかろうか
と風早は思う。
土器を焼くに適した地は、五行で言えば土の影響をもっとも強く受ける場所。そして橘は
常緑で永遠の象徴、冬に実るため冬に属する木でもある。死と再生を司り、冬を守る玄武
の眷属なのだ。…玄武に言われて忍人を守ろうと手をさしのべた土地神が、一度は辞退さ
れても窮地に再度手をさしのべる。…人に対して公正で厳格な神という存在には珍しいこ
とで、…それだけ、玄武の慈しみの深さが思われた。
これを、と、背中に負った袋からあれこれ取り出して見せる忍人を火の側に案内しながら、
風早はゆるゆると微笑む。
澄んでまっすぐな忍人の気を、彼の中の神も愛おしく感じている。だから、彼に手をさし
のべる玄武に共感する。…その中に、かすかな嫉妬をまじえながら。

完全に日が落ちた頃、雲はようやく晴れた。…月の光に照らされた橘の花は、地に降りた
星のように清らに美しかった。