帝王学

「お前は部下の管理がなっていない」
突然そういわれて、千尋は眉をしかめて振り返った。
アシュヴィンは、手袋をした手で小刀のようなものをもてあそびながら、千尋を見ている。
その顔に浮かぶのはいつもの、どこかからかっているような笑顔なのだが、千尋には、今
日のそれは、嘲りが含まれているように思えてならない。
「…何が言いたいの」
だからか、言い返した声は少し硬かった。アシュヴィンは千尋のその声を聞いて、はっき
りにやりと笑う。
「言わねばわからないのなら、お前はその程度の君主だということだ」
明らかにむっとした千尋に、彼はなだめる手つきをした。
「王ならば、時には苛烈な決断をしなければならない。…そうは思わないか?」
アシュヴィンの言葉に、千尋の頬がぴりりと引き攣れた。
「あなたが言いたいのは、忍人さんのこと?」
アシュヴィンは肩をすくめる。
「…さあな?…俺の言葉をどう受け取ろうが、お前の自由だが」
千尋はしばらく唇を噛んでいたが、不意に真摯な瞳をひたりとアシュヴィンに向けた。
「あなたが私の立場ならどうするの?」
その言葉に、常世の皇子は一瞬ぽかんと口を開けた。それからくっくっくっと笑い出す。
「あのときと同じだな」
それは、言われなくても千尋もそう思った。
レヴァンタを制圧するために策を問うた、鵜の子の滝でのことを彼は指しているのだろう。
あのときと違うのは、二人が同じ敵に対して共同戦線を組む仲になったということと、多
少なりとも千尋が、将として経験を積んだことだ。……いや、経験を積んだつもりになっ
ていた、というべきか。
苦い表情の千尋に、アシュヴィンも笑いを引っ込めた。小刀を懐にしまい、指を千尋の鼻
先に突きつける。
「…お前はどうしたいんだ」
「……私」
「…忍人を生かしたいなら、奴から刀を取り上げて軍から退かせるべきだ。以前はともか
く今はこの大所帯だ。出来ないこともなかろう。…あるいは、将軍としての奴の才がどう
しても必要だというなら、破魂刀が奴の魂を削って奴がどうなろうとも、お前だけは王と
してそのことに平然としているべきだ。お前が動揺すれば、皆の、とりわけ忍人本人の士
気に関わる」
アシュヴィンはまっすぐに千尋を見ている。からかわれているわけでもいじめられている
わけでもなく、真剣に千尋に教えてくれているのだろう。
王とは、…非情なものであるべきなのだと。
どの道を選んでも、千尋は忍人を失うのだと、…彼は言っている。
千尋は唇を噛みしめた。アシュヴィンの言うことはわかる。頭では理解する。けれど感情
がそれを許さない。
…こぼれる言葉は、自分でも甘ちゃんだと思った。
「…私は、忍人さんに生きてほしいし、軍にも残っていてほしいわ」
…本当は軍に残ってほしいわけではなく、自分の側にいてほしい。…だがさすがにそれを
そのままアシュヴィンに言うことはためらわれた。王として自分を扱う相手に対して、せ
めてもの矜持だと思った。
が、アシュヴィンは千尋の真意などお見通しだろう。軽く鼻を鳴らした。
「都合のいい言い方だな」
「……」
「…ではなぜ、破魂刀を取り上げない。せめてそれだけでもするべきだろう?…王として
お前が命令すれば、忍人には逆らうべくもない。あいつは臣下だ。臣下が王に逆らっては
ならないということくらい、あれも理解しているだろう」
「……強制は、…したくないもの」
迷いながらぽつりと千尋が言うと、ほらみろ、とアシュヴィンはあからさまに嘆息してみ
せた。
「だからお前は王として部下の管理がなっていないと言うんだ」
アシュヴィンは眉を寄せて千尋を見る。…どこか憐れんでいるようにも見える顔だと千尋
は思った。
「もし俺がお前なら、今すぐ無理矢理に忍人から破魂刀を取り上げる。そして別の刀を与
えて、それを持って俺についてこいと命令する」
もちろん、破魂刀ほどの刀はすぐには見つかるまい。なまくらを持たせて、奴の身を危険
にさらすことになるかもしれん。
「だがそれでも、俺ならそうする。…俺が奴の王であったなら、…とっくにそうしている」
アシュヴィンは苦く笑った。
「……」
「二ノ姫。お前はどうか知らんが、俺は部下のためにきっぱりと命令するのも王たる者の
務めだと信じる。命令一つ出来ぬのなら、それは王でも将でもない。…おともだち、だ」
アシュヴィンがわざとらしくゆっくり発音したその言葉は、ざくりと千尋の胸に深く刺さ
った。
「……」
「それが風早でも、柊でも那岐でも。…彼の師だというあの岩長姫のばあさんでさえ、今
は同じ軍の同じ一将軍に過ぎぬのだろう。…彼らの誰にも、忍人に命令は出来ん。無論、
俺もだ。奴に命令して、律を正すことが出来るのは、奴の王たるお前ただ一人だ、二ノ姫。
…それを忘れるな」
ぎゅ、と千尋は唇を噛み、こぶしを握る。
「…なあ、二ノ姫。…もしもの時は、俺があいつをもらい受けるぞ」
「…なっ」
はた、と千尋は目を見開く。
…こんなときではあるが、アシュヴィンはその目を、空の一番高いところを見上げたよう
だ、と思う。
「何を言い出すの、急に!」
「急にではない。前から思っていたさ。あれは使える男だ。ぜひ俺の軍にほしい」
「そんなこと、許さない!」
真夏の日の光のような意志の力が千尋からあふれだすのを、アシュヴィンは苦笑をこらえ、
せいぜい真面目な顔をして見つめ返す。
「…ならば自分が無能でないことを俺に証してみせろ。…出来ぬのなら、俺が奴をさらっ
ていく」
言うだけ言って、アシュヴィンははたりとマントを翻した。千尋は唇を噛んで立ちつくし
ていたが、追ってくることはせず、ただ黙って何かを考え込んでいるようだった。

アシュヴィンが楼台から出ると、堅庭へ忍人が入ろうとするところだった。
「…よう、虎狼将軍」
その呼ばれ方に、忍人はひくりとかすかに頬を引きつらせる。…先日の楼台での一件がひ
っかかっているのだろう。
「…何か」
「そう身構えるな。傷つく。…ただの挨拶だ」
「ただの挨拶なら、普通に忍人と呼んでくれないか」
「…それもそうだな」
アシュヴィンは破顔一笑した。忍人は少しだけまぶしそうな顔をして、ふいと目をそらす。
その横顔に、アシュヴィンは話しかけた。
「一つ教えろ」
「…何だ」
「二ノ姫が、中つ国の王位継承者であること以外に彼女に従う理由はあるか?」
そっぽを向いていた忍人が、なんだそれは、という顔をしてアシュヴィンに向き直った。
「なぜそんなことを」
「聞いてみたくなったのさ。…という理由ではいけないか?」
「…いや」
「彼女が中つ国の姫だからという理由だけで従っているのなら、無理には聞かん。…だが
もしそれ以外の理由があるなら、聞いてみたい」
忍人は思いめぐらすようにゆるり、と首を傾けて、ややあって、ひどくおかしそうにふと
口をゆがめた。
「…ある、といえばある。…いや、…これも彼女が姫であることに由来していると言われ
ればそれまでだが」
アシュヴィンは、おや、とかすかに眉を上げた。
「何だ」
「彼女が、王としてあまりにもいろんなことが不足しているところだ」
一瞬の間。
そしてその次の瞬間、アシュヴィンは爆発するような勢いで笑い出した。
「なんだそれは!!」
「…いや、…まあ、君にはそう言われるような気がした」
忍人もこらえきれない苦笑を目のふちににじませる。アシュヴィンは、なんだそれは、と
叫んだきりまた笑い始めてしまって声もない。
「最初はそのあまりの自覚と知識のなさに呆れたんだが、…いつしか、これは俺が助けね
ばどうにもならんと思い始める。だが、一方で、ひどく本質的なところで彼女は、王とし
ての何かをちゃんと知っている。その落差に驚かされて、…惹かれて、…王として仰ごう
と思うようになった」
忍人が珍しく訥々と長く語るのを、最初のうちは笑いながら、…だがいつしか笑いおさめ
て、アシュヴィンはただ黙って聞いた。…やがて聞き終えたときには、唇に微笑みを浮か
べていた。
「なるほど。…参った」
「…は?」
「いや、こちらの話だ。…確かにそうだな。俺でさえ、策を授けてやろうかという気にさ
せられた」
……そして今回に限っては、俺はむしろ要らぬ知恵をつけたのかもしれん。
「…礼を言おう、忍人。正直な答えを聞いて、参考になった」
「だから、なぜそんなことが知りたいんだ」
「気にするな。俺の勝手な事情だ。…ではな」
背を向けると、忍人のため息混じりの感想が投げられる。
「…君も本当に、…はかりかねる人だな。いろいろと」
それを聞いて、アシュヴィンは横顔でだけ振り返って笑ってみせた。
「お前にそう言われるのは本望だ。…いつかもっとそう思わせてやる」
後半は声を低めた。…忍人には届かなかったようだ。彼は静かに慈しむような微笑をアシ
ュヴィンに投げ、音もなく堅庭に入っていった。
アシュヴィンは視界の端でそれを見送って、今度こそきっぱりと背を向け、歩き出した。

今まで、手に入れたいと思ったものを、見逃したことはない。……だが、今回は少々分が
悪い。
いや、まだこの先何が起こるかわからない。……腕だけは広げておこう。…いつか彼を手
に入れられるかもしれないと信じて。