天に昇る音

「ストップ」
曲の途中で律が不意に声をかけた。
「大地、5小節前からもう一度」
始まった。
大地は思わず首をすくめた。だが逆らわず、素直に言われたところから弾き直す。
「ちがう、もう一度」
……。
「もう一度。もっと丁寧に音を追って」
………。
「音をごまかすな。…もう一度」
…………。
律は淡々とミスを指摘し、何度も同じ個所を繰り返させる。彼の上手さは誰もが認めてい
るのに、部員があまり彼とアンサンブルを合わせたがらないのは、彼のこの性癖のせいだ
った。特に、そこそこ弾ける人間ほど、このやり直し攻撃に嫌気がさすらしい。
だが、大地には気にならなかった。元々自分はヴィオラを始めたばかりで初心者だから、
弾けないところを指摘されて当然という意識があるためでもあるが、あと一つ。
一度、あまりにくどく言いつのられた悔しさから、見返してやるぞとしつこく練習してい
たら、ある日すぽんと、まるでラムネの栓が抜けたときのようにあっけなく弾けるように
なって、……ああ、律が教えたかったのはこれかと気付いたからだ。
だから、弾きこむことを敬遠しようとは思わないが、しかし。
「…もういち」
「……待った、律」
待った、というよりは、待ってくれ、というポーズで、大地はヴィオラを置き、腕をぐる
ぐるさせた。
「ちょっと、休憩」
「……」
はっと律は我に返った顔になった。
「……すまん」
「いや」
大地はペットボトルの水を飲む。律もヴァイオリンを置いて麦茶に口を付ける。
防音のきいた部屋の中はもったりと静まりかえった。隣の練習室で誰かが弾いているパル
ティータ第三番のプレリュードがぽつりぽつりと漏れ聞こえてくる。
音を追っていた律が顔をしかめたので大地は苦笑した。
「律。…練習なんだから」
「わかってる」
わかっていると言いつつ律のしかめ面は治らない。大地はほほえましさと苦笑いが半々の
顔で、律のそのしかめ面を眺めた。
「…なんだ」
「何が」
「俺の顔に何かついているか」
「いや?」
肩をすくめてみせたが、だが、と律は言いつのった。
「…何か言いたそうな顔だ」
「言いたいというか、…不思議なんだ」
「…不思議?…何が?」
「知らない奴の練習にまで完璧を求めるお前が、どうして素人同然の俺のヴィオラに合わ
せてくれるのかなと思って」
そういうと、律はきょとんと目を見開いた。
「…大地の音が好きだからだ」
何を今更、と、当たり前のように言われて、軽口を叩いただけのつもりだった大地の方が
慌ててしまった。
「こんなに下手なのに?」
思わず声がうわずってしまう。
動揺する大地に比べ、律は平然としている。大地にヴィオラを教えるときと同じ顔で、論
理的に説明を披露した。
「技術や経験が伴わないのは仕方がない。まだヴィオラに触れ始めて日が浅いんだから。
…だが、大地の音には支えられているという安堵感があって、気持ちよく弾ける」
大地の中で喜びと落胆がせめぎあい、
「それはさ」
じわじわと落胆が喜びに押し勝った。
「俺じゃなくて、ヴィオラの響きだよ。…ヴィオラがそういう楽器なんだ」
ヴァイオリンより完全5度低い音。じわりと温かく、けれど、ヴァイオリンやチェロに比
べると響きは主張が薄い。それがヴィオラだ。
「ちがう」
だが律はきっぱりと首を横に振る。
「確かに、ヴィオラは前に出る音じゃなく、中音域を支える楽器だが、…弾き方によって
は主張も激しくなる。だが主張の激しいヴィオラよりももっと困るのは、引っ込もう引っ
込もうとするヴィオラだ。ヴァイオリンをたてよう、たてなければ、と思うあまりに自分
の音を引っ込み思案にしてしまうヴィオラは結構いるが、それは本当の意味でヴァイオリ
ンを響かせることにはならないと思う。かみ合わず、互いの音が崩れるだけだ。…だが、
お前のヴィオラは違う」
律の、少し節が目立つ長い指が、そっと大地のヴィオラに触れた。愛おしげに側板をなで、
また静かに離れていく。
「大地の音は、己を誇ることはしないが、ひくこともしない。寄り添うように支えてくれ
る暖かい響きで、…俺は好きだ」
それは、ヴィオラのことだとわかっているのに、大地は浅ましくも胸おどる自分に苦笑し
た。
「…お前にそう言われるのは、うれしいな」
どうちゃかしていいかわからなくて、結局素直に本心を吐露する。…と、それまで淡々と
した顔しか見せなかった律が不意に、少しだけ口元をほころばせた。
「…そうか」
お前がうれしそうにしていると、俺もうれしい。
「……っ」
とん、と何かが大地の胸で跳ねた。
そんな友人の内心に気付くはずもない律は、さっさといつもの無表情に戻って、
「さあ、そろそろ休憩はいいだろう。…続きをやろう」
使い込んだ自分のヴァイオリンを取り上げた。うなずいて自分のヴィオラを手にしながら、
さっき律が撫でていったところをさりげなく大地も撫でてみる。
自分の楽器に、好きなところがまた一つ、増えた。

響きあう二つの音が、からまりあって天に昇っていく。
いつか自分の音は、彼の音に追いつけずに消えていくだろう。
だが、それが自分に許される限りはずっと、彼の音を、彼自身を支え続けたい。
どうか、可能な限り長く、自分にそれが許されますように。
天に昇りゆく音に、大地はそっと願いを込めた。