掌から微熱 少し人が途切れた。 お守りを並べた社務所で大地とかなでが息をついたとき、 「大地、小日向」 聞き慣れた声が二人を呼んだ。 「律」 「律くん」 声を揃える二人の前に、白い長袖のシャツを着た律が静かに立つ。 「来てたのか」 大地の問いにうなずいて、 「ああ、響也も来てる」 と付け加える。 「え、一緒に?」 なぜかかなでが驚きの声を上げた。 「いや。だがさっき境内で見かけた。金魚をすくっていたが、都会の金魚にもてあそばれ ていた。…田舎の小川のメダカとはわけがちがうようだ」 光景が目に浮かぶようで、大地とかなでは顔を見合わせて苦笑した。 「律は?何か夜店をひやかしたかい?」 「いや、お前達がどこにいるかと思ってまっすぐにここにきたから」 「じゃあ、よかったら一緒に回らないか。もう少ししたら交替なんだ」 「ああ、そうしよう。…それと、せっかくだからお守りを一ついただいていく」 その言葉を聞いて、かなでが俄然張り切る。 「どれにする?いろいろあるよ。えっとね」 数え上げようとするかなでを制して、白い指がまっすぐに一つのお守りをつまんだ。 紫色の袋に白い文字の縫い取り。 「…大願成就に決まっている」 今の律の頭の中には、大会の優勝のことしかないようだ。大地とかなではまた顔を見合わ せて、くすりと笑った。 「お待たせ、律」 背後から声をかけられて律が振り返ると、見慣れたシャツに着替えた大地が立っていた。 「着替えたのか?」 「借り物だからね。第一、あの格好のままじゃ何かと呼び止められて、おちおち祭りを楽 しめない。さっきからハルはずっと右往左往しているよ」 「…確かに」 まさにその瞬間、誰かに呼ばれたハルが目の前を走っていったので、律はしみじみとうな ずいた。 「小日向は」 「響也がさっき社務所に来て、かっさらっていった。…せっかく、射的か輪投げでいいと ころ見せようと思ったのに」 そう言って涼しい顔で笑った大地は、律の手にぽとりと何かを落とした。 「…お守り?…さっきいただいたが」 「あれはお前が神様に願ったことだろう。俺が願ったのは、これ」 黄色い守り袋に縫い取られた赤い文字は、身体健康、と書いてある。…俺の手のことか、 と、律は少し面はゆくなった。 「お前の分は」 「俺のことはお前が願ってくれたじゃないか。大願成就。…コンクールの優勝が第一さ」 「だが、…ほら、学業成就とか」 ふっと大地は笑う。少し律から目をそらし、 「心配いらないよ」 一言だけ応じて、それにしてもと話を変えた。 「意外と人が増えてきたな。今日は残暑もましだから、繰り出す人が増えたらしい。うっ かりするとはぐれそうだ」 「…そうだな」 大地は背が高い。人混みの中でも自分が彼を見失うことはないと思うが、もしもというこ ともある。 律は、何気なくたらされた大地の右手に、するりと自分の手を滑り込ませた。 とたん、大地の肩がびくりと大きく震えた。驚愕の表情で自分を見下ろしてくる大地に、 律は少し首をかしげる。 「…律」 名を呼ぶ声が苦しそうだ。律は不思議そうな顔でなおも首をひねってみせる。はぐれそう だと心配しているのは大地の方ではなかったろうか。 「手をつないでいればはぐれなくていいかと思ったんだが、何か問題が?」 「…あ、や、…その」 大地は珍しくうろたえている。何をどう説明すればわかってもらえるのかという風情で、 必死に言葉を探している。 「…律は、…いいのか?…その、…手をつないでいても」 「はぐれないほうがいいだろう」 さらりと返して、律は大地の目をのぞき込んだ。大地は自分と手をつなぐことを不快と感 じているだろうか。ならば無理強いはよくないが。 のぞきこんだ瞳に見えるのは、戸惑いと、かすかな羞恥。けれどその底にじわりと広がる 熱を律は見た。…だから、笑う。小さな安堵と共に。 「こんな人混みで、誰に気付かれるわけもない」 律がそうひとりごちると、大地がぼそぼそと応じた。聞こえなかったので、 「今、なんと言った?」 と聞き返すと、首をすくめるだけで、 「…何も」 明らかにはぐらかされたが、律はそれ以上は追求しなかった。 会話が途切れると、掌に伝わる熱だけが感覚の全てになる。ひっそりつややかに固いのは、 大地がいつもつけている指輪だろう。冷たいはずの金属の指輪まで、じわりと大地の体温 にあぶられて、熱い。祭りの匂いも光も音も、全てが消え失せたような錯覚を覚える。つ ないだこの手と、左側から伝わってくるかすかな大地の温もりだけが、律を支配する。 ……熱に浮かされる、とよく言うが。 律はぼんやり思う。 今のこの気持ちは、熱に溺れていると言った方が正しい気がする。 そのとき、人混みを無理矢理かき分けるようにして、子供達が走ってきた。感覚が手に集 中していた律はとっさによけられず、たたらを踏んだが、すんでのところで大地に抱きと められ、事なきを得た。 抱きとめている律の背中に向かって、大地が安堵の深いため息をつく。 「…すまない、ありがとう」 「いや、今のは子供達の勢いがすごかったんだ。律が謝ることじゃない…」 …けど、…俺の理性が限界だよと、ぽつりと大地がつぶやくのを、律は今度は聞き逃さな い。きっとさっき聞き逃した大地の言葉も同じようなことだったのだろう。彼が気にして いるのは人目ではなく、自分の理性だということか。 律は静かに笑う。 「…律?」 「いや、すまない。何でもない」 きっとまだ彼は信じている。自分の思いは律に届いていない、気付かれていないと思いこ んでいる。…律が大地の思いをとっくに知っているとは夢にも思っていないだろう。 確かに、口に出して大地が律に何か言ったことは一度もない。けれど、その眼差しに、仕 草に、…何よりも彼が奏でるその音に、毎日接していてまるで気付かない方がどうかして いる。 「もう大丈夫だ。…行こう、大地」 体勢を立て直し、改めて手を差し出すと、今度は迷わず大地はその手を取った。さっきよ りも少し距離を取って、でも手は離さずに、二人でただ参道をそぞろ歩く。人混みの中に まぎれている方が照れ屋の誰かが素直でいられるから、敢えて夜店を冷やかすことはせず、 混雑も避けない。 律は決めている。 待っていても、律の思いに気付かない大地は、このまま何も言わないかもしれないから。 このコンクールが終わったら、…この夏の終わりが来たら、自分からこの思いを告げよう と。…そう決めている。 …今はただ、掌から熱を伝えるだけだけれど。