つないだ手の先には君がいる 早朝の駅には大地と律の姿しかなかった。 3〜4時間に一本の電車しかないダイヤだから、いくら朝が早いとはいえもう少し人がい るかと思ったが、律の工房の最寄り駅はとにかく圧倒的に乗降客が(つまりは住民が)少 ないらしい。 「見送りなんて、玄関まででよかったのに」 大地はさらりと言って空を見上げる。 「この時間だからもう日は高いけど、まだ7時前だよ」 「……いや」 律は言葉少なだ。起きてからずっと、話しかけても「ああ」とか「いや」ばかりで、昨日 の夜の饒舌が嘘のようだ。元々、必要のないときはとことん無口なのが律なので、むしろ 昨夜の方が例外と言うべきなのかもしれない。 辺りは本当に静かだった。鳥のさえずりと風の音はするが、生活音らしきものは皆無だ。 おかげで、列車がやってくる振動がレールを伝ってくるのが感じ取れる。かなり遠くから 伝わってきていたが、そろそろ間近まで来たようだ。 大地は時計を見た。 「…さすが、日本の鉄道は正確だな。ちゃんと時間通りに到着しそうだ」 律の返事はない。…大地は肩をすくめた。唇には苦笑。 「……それじゃ、律、一晩ありがとう。……また」 握手のために差し出した手を、律は静かに握り返した。ぎゅ、と一回力を込めて、そのま ま手を放そうとした大地だったが、何故か手は離れない。 「……律?」 大地が不審そうに名を呼んでも、うつむいたまま律はつないだ手を放さない。 列車が近づいてくる。無人駅なので駅員が出てくることはない。ホームにはやはり二人き りだ。 「……律。…列車が来る」 「……っ」 そのとき律がはっと顔を上げた。熱を帯びてすがるような瞳に見つめられて、大地は思わ ず言葉を失う。 がたんごとん、たたんたたん、と小気味いい音を立てて近づいてきた列車は、やがて、た たん、…たた、た、と速度を落とし、しゅうしゅうと音を立ててゆっくりと止まった。 ドアが開く。 手は離れない。 律の瞳に力が宿る。 大地がはっとするよりも早く、律は何か思いきった顔で、手をつないだまま大地を引っ張 るようにして自分も一緒に列車に乗り込んでしまった。 「……り……」 目を見開き、名を呼ぼうとして大地は声を呑み込んだ。 律がまっすぐに大地を見ている。先ほどとは違い、迷いのない、強い目だ。 しゅう、と音を立てて、扉が閉まった。 「……律」 ようやく名前を最後まで呼べた大地に、律は静かにつぶやいた。 「……糸が」 「……糸?」 「糸が、からまった」 山の空気は肌寒い。六月は初夏というより夏に片足つっこんだような時期だが、律も大地 も長袖を着ている。……が、思わずちらりと見た互いの袖口に、糸のほつれは見つけられ ない。 見え透いた嘘だ。律もそれをわかっている。うなじから耳まで赤く染め、それでも必死に 繰り返す。 「…絡んだ糸を外すまで、……もう少し」 「……」 離れがたい。離れたくない。 けれど、大地を引き留めることは出来ないし、自分にもこの土地で暮らさねばならない理 由がある。 だからこれが律の精一杯のわがままなのだろう。大地はじわりと微笑みながら、ため息に 近い呼吸を呑み込む。 「……律はひどいな」 苦笑の混じる大地の声に、律は眉をひそめる。 「俺は一瞬、このまま律が横浜までついてきてくれるのかと錯覚してしまった」 おろ、と少し慌てる友の顔に、冗談だよと大地は笑った。慌てながらも律の瞳はすまなそ うにきっぱりと大地の願望を否定していたからだ。 「わかってるよ。…糸が外れるまでなんだろう」 後もう少し、…律の気がすむまで。思い切れるまで。 気持ちが整理できれば、…そうすれば律は、各駅停車のこの列車を降りて戻るのだ。自分 が選んだ自分の場所へ。 ……わかってはいるけれど。 「……理性を試されている気分だな」 まだ離れない手を見ないように、大地はそっと窓の外へ視線をそらした。流れていく緑の 木々、木々また木々。 「……俺はね、律。…本当はいつだって、律をさらってしまいたくって、俺の傍にいても らいたくって、たまらないんだよ。……我慢してるのは、わがままを言いたいのは俺だけ じゃない。…俺の方がずっと……」 そう言いかけて、その続きを大地は呑み込んだ。 どちらがどれだけなどと競っても意味はない。 幻の糸が外れるまでもう少しだけ、つないだ手の先に律がいる。触れられる。言葉を交わ せる。…その幸せを、この一瞬を、大事にしよう。 ただ一言だけ、大地は付け加えた。 「律。…糸が外れそうだなと思ったら、予告してくれよ」 「……?」 律は意味がわからないという顔でほんのり首をかしげる。大地は瞳をすがめて切なく笑っ た。 「…もし律の糸がいきなり外れて、そのまま列車を降りてしまったら、今度は俺の糸が律 のボタンに絡まるかもしれないから、…さ」