天狼


堅庭の扉が開く音に、反射的に柊は振り返った。
するりと滑り込むように黒衣の人影が扉から姿を現し、また音もなく扉を閉める。その身
のこなしはしなやかで規律正しいが、どこか獣を思わせた。
彼は数歩歩いて四阿の柊に気付き、足を止める。闇に慣れた柊の目には、その人物の“し
まった”と言いたげな不満含みの表情がはっきりとうかがえた。苦笑いで柊は彼に声をか
ける。
「そんなに嫌そうな顔をすることはないでしょう、忍人」
「別に厭だとは思っていない。…何故ここにいる」
苦々しげな声で言われても、と思いつつ、柊はそれ以上弟弟子を追求しない。代わりに、
彼の問いに答えるべく、首をすくめた。
「私だって、一日中書庫にこもってはいられませんよ。たまには外の空気も吸わなければ。
…あなたこそ、なぜこんな時間にここに?…ちゃんと寝ているのですか?」
忍人の顔色はひどく青く見える。
…闇の中で見るからだ、日の光の下で見ればこんな風には見えないはずだと、柊は内心の
不安や恐怖を必死で否定した。
忍人が柊の不安に気付いた様子はない。淡々とした顔でさらりと応じる。
「日が短い季節だからまだ暗いが、もう早暁だ。…将が兵よりも遅く起きていては、兵の
士気を削ぐだろう」
「…相変わらず生真面目ですね」
嘆息混じりに柊がつぶやくと、お前が不真面目なんだ、と言い返された。
「ちゃんと寝ているのか、という言葉は、そっくりそのままお前に返すぞ」
「寝ていますよ、私は。…ほどほどに。…那岐ほどではありませんが」
「…。あれは寝過ぎだ」
忍人の言い方がおかしくて、柊はつい、ふふと笑った。笑われて厭な顔をするかと思った
が、忍人も珍しく、かすかにではあったが目元だけ笑っている。
「…彼の寝過ぎは、とがめないのですか」
「彼は必要なときにはちゃんと働いている。問題ない」
「…ええ。そうですね」
会話が途切れた。普段ならそれをしおに、そそくさと柊の前から立ち去る忍人だが、何故
か今日はそうしなかった。ただ、静かに満天の星空を振り仰ぐ。
「まだ冬なのに、この時間に見る空はもう、春の星だな」
「そうですね。…天狼星もあんなに西に傾いてしまった」
「…春か」
柊の言葉を聞いているのかいないのか、…忍人はぽつりひとりごちる。
「次の春の桜は、橿原だな」
きっぱりと言い放つ、その声に柊ははっと胸を衝かれた。
……めぐりめぐる物語、その円環に、桜咲く春だけがないことを柊は知っている。
「…言い切りましたね」
何気なく洩らした一言だったが、忍人には皮肉か、あるいは弱気に聞こえたらしい。
まとう気配が一瞬尖る。…怒りと、…そして軽蔑。
…が、それは本当に刹那のことで、すぐに彼は感情を殺した。そして肩をすくめる。
「国を取り戻すことを、一度でも疑えば、俺は既にここにいないだろう。…俺が経てきた
戦いはそういうものだった」
「……」
柊は、忍人に気付かれぬように、ぐっとつばを飲み込んだ。
「だが俺は疑わず、諦めなかった。……俺をそういう人間だと思うから、お前達は俺をこ
ちら側に置いていったのだろう?……お前も、風早も」
「……っ!」
今度こそはっきりと、柊の肩は揺れた。…忍人は見ないふりをしている。…そしてまた空
を見上げた。
「おれは礎だ。…俺だけは、何があっても最後までここにいる。……そういうものになる
と、決めた」
瞬く満天の星。闇に溶け込んでしまいそうな黒衣。だが、彼の白い貌が、きらめく眼光が、
彼の存在を闇の中でもくっきりと際だたせている。
「迷わない。疑わない。…揺るがない」
じわりと熱いものが眼窩を灼いて、…柊ははっと顔を覆った。…が、時既に遅く、熱い涙
は滂沱と頬に流れる。
「…柊」
さすがに忍人の声に動揺がまじった。…が、柊は何でもありません、と応じる。
「…何でもありません」
念を押すように繰り返して。
そして彼も、空を見た。

−…姫は、光だ。希望の輝きで空を、大地を、明るく照らし出す陽の光。……そして、忍
人もまた光だ。深い深い闇の中で、迷う旅人をまっすぐ目的へと導く、星の光。

「…そろそろ、起き出す兵もいるようだな」
かすかなざわめきを聞き取ったのか、忍人は艇内に目を向けた。
「当番の兵に、今日の鍛錬の準備をさせなければ」
きびすを返して、肩越しに柊を振り返る。
「俺は行くが、…お前は」
柊は忍人に背を向けたまま、いえ、私は、と言った。
「…私はまだしばらくここにいます」
「……。…そうか。…では」
立ち去る忍人を、柊は見送らなかった。
西の空に傾きながらまたたく天狼星が、そんな柊を静かに見下ろしていた。