手をつないでどこまでも

彼についての一番古い記憶は、風早に紹介されたときのものだ。
「これから一緒に暮らす忍人と那岐ですよ」
と、風早に背を押され、私の前に立った彼。
那岐も仏頂面だったけれど、彼の顔は仏頂面とさえ呼べなかった。
あまりにも表情がなさすぎて。この世の全てに絶望しているような、何かを無理矢理あき
らめさせられたような、そんな顔をしていて。
……私は、…とても怖かった。

玄関で物音が聞こえる。
高校に通う彼は、中学校に行く私たちよりも先に学校に行く。
「…それじゃあ」
その声が聞こえて、慌てて私が、一人で占領して髪をまとめていた洗面所から顔を出すと、
那岐もちょうど食堂から顔を突き出していた。
「忍人、いってらっしゃい」
先に声をかけたのは那岐だった。
「…いってらっしゃい」
その後に続けるように、私もおずおずと。
彼は、静かでかすかな、笑顔らしきものを浮かべて私たちを均等に見ると、
「いってきます。…戸締まり、気をつけて」
そう言って、出て行った。

朝はいつもこうだ。
一番先に家を出るのが風早、次が彼、最後が同じ中学に通う私と那岐。
風早は、大学に通いながら予備校の講師をして生活費を得ているので、講義の空き時間は
全部予備校でのバイトに当てている。だから、いつも朝早く出て、夜遅くに帰ってくる。
私が朝起きたときに風早がいなかったり、夜寝ようと思うときにまだ帰っていないことは
ざらにあるのだ。…けれど不思議と、風早が私の前からいなくなってしまうのでは、と不
安になったことはない。何があっても、風早は必ず私のそばにいてくれるにちがいないと、
根拠もないのに確固とした自信が私にはある。
けれど、彼は。
毎朝必ず声をかけてから家を出て行って、夕方も帰ってからはずっと家にいる。
風早がいない間の、我が家の大黒柱のような存在なのに、……彼は必ずそこにいるのに、
私は何故かいつも不安になる。
ある日突然、彼はいなくなってしまうのではないか。
いいや、もしかしたら、私の見ている前で、ふいとどこかへ消えてしまうのではないか。
…そんなことを考えてしまうのはきっと、彼がいつも浮かべているあの表情のせいだ。
静かで、穏やかで、…でも現実の風景や事物には何一つ焦点を合わせていないようなあの
瞳。心をどこかに置き去りにしてきてしまったかのような、あの無表情。
…彼の目に、きっと私は映っていない。…そう思えて仕方がない。
…だから私は、風早や那岐にそうするようには、彼の名を呼ぶことが出来ない。
…一度も、彼を忍人、と、名前で呼んだことはない。
その静かな瞳を寂しいと、その瞳に私を映してほしいと、いつも願っているのに。
名を呼べば、その願いが叶うかもしれないのに。
けれど、叶わないかもしれない。…もし叶わなかったら、と思うと怖くて。…だから、名
前を呼べない。

「…千尋、いこ」
那岐に話しかけられて、私ははっと我に返った。
無意識でもちゃんと朝食をすましている。
「今日、朝の一時間目から体育なんだ、僕のクラス。着替えなきゃいけないから、早く行
きたいんだよ」
「あ、うん。行こう」
靴を履きながら那岐がぼやく。
「あーあ、マラソンだってさ。めんどくさい」
「那岐のクラスも?うちもマラソンだよ。うちは四時間目だけど」
「げ。昼直前?サイアクじゃん」
「そうかなあ。私は、昼一の五時間目にマラソンやるほうがやだ。お腹痛くなるもん」
「…あー。それも言えてるな。てかどうして、五時間目は全校一斉に昼寝時間とかにしな
いんだろう」
「…それ、ありえないから、那岐」
他愛ない話をしながら学校へ急ぐ。
那岐とはこんなに普通でいられるのに。

四時間目のマラソンは、校外へ出てランニングになった。先生を先頭に、みんなでぞろぞ
ろと、だらだらと、走る。
真面目な子は真面目にペースを崩さずに走っていく。めんどくさい子は適当にペースを落
として遅くなっていく。
私は普通に走っていたつもりなのに、気がついたら少し前の子とも後ろの子とも間隔が開
いてしまっていた。
とはいえ、前の子を見失うほどじゃない。
少しペースを上げて追いつこうとしたそのとき、私はかなり前の方を歩く高校生に気がつ
いてはっとした。
…彼だ。
彼は背筋をぴっと伸ばしたいつもの姿勢のいい歩き方で、足早に歩いていく。朝着ていた
とおりの学生服で、学生鞄を持って。
…でも、まだお昼前なのに。どうして?
…どこへ行くの?
……どこかへ行ってしまうの?…私たちを置いて?……私を置いて?
気付いたときには、私は全速力で走り出していた。
今彼を見失ってはいけない、とそう思って。
授業のこととか、マラソンのこととか、すっかり忘れてしまって。
目の前の彼だけ見て、私は走り出していた。

彼は普通に歩いているようなのにずいぶん足が早い。なかなか追いつけない。私はそれま
でにもうずいぶん走っていたので、スピードがなかなか上がらない。
名を呼べば、彼は振り返って足を止めてくれるかもしれない。
…でももし、足を止めてくれなかったら。私が声をかけても聞こえないふりで行ってしま
ったら。
そう思うと、声をかける時間も惜しくて私は走り続けた。
あと少しで追いつく、そう思ったとき。
「おい、君?」
誰かが私の肩をひいて引き留めた。
「こんなところで何をしているんだ?授業中じゃないのか?」
それはお巡りさんだった。
「……っ……」
息が切れて、とっさに声が出ない。膝に手をついてはあはあ息を切らしていると、お巡り
さんは怖い人ではないらしく、ゆっくりでいいから、と隣に腰を下ろしてしゃがんでくれ
た。
「なにをそんなに急いで」
「あの、……あの、」
私は必死で前を指さす。幸い、彼は少し先の交差点で信号待ちをしている。
「あの高校生?…彼がどうか?」
お巡りさんは職業柄か、声が大きい。高校生、という単語に彼が反応して振り返る。
「……!」
…何故かそのとき、私は裁判で審判を下されるときの気持ちになった。
彼が振り返って、そのまま無視して行ってしまったらどうしよう、と、指先が凍り付くよ
うな気持ちになった。

…だが、彼はそうしなかった。

「…千尋!?」
大きな声で。…私にもちゃんと聞こえる声で。…彼は私の名を呼んだ。
それから、足早にこちらに向かってくる。
「あの、」
そこで彼は一瞬言いよどんだ。おそらくは、自分たちの関係をどう説明したものかと思っ
たのだろう。風早は、ご近所の人には、自分たちは従兄弟同士だが通学に不便なのでここ
でみんなで下宿しているのだと説明している。だが、ここでいちいちその説明をお巡りさ
んにするのは面倒くさい。
結果、彼はこう言った。
「俺の妹が、どうか?」
「……!」
…その瞬間の、胸が震えるような気持ちを、…私は忘れない。
「…妹?」
お巡りさんは私と彼とを見比べた。…髪の色から顔立ちから、私たちはあまりにも似てい
ない。
だが、彼はきっぱりと繰り返した。
「はい、妹です。…何やっているんだ、千尋、こんなところで」
肩を抱かれるようにして顔をのぞき込まれて。…私の感情の堰が切れた。
「……お」
ぼろり、と涙がこぼれる。
「…おに、おにい、ちゃん」
思わず、私はそう呼んでいた。
彼ははっと目を見開いたが。…何も言わなかった。…何も言わずにただ、ぎゅ、と肩に置
いた手に力を込めてくれた。
「…お兄ちゃん、こそ」
もう、ぼろぼろぼろぼろ、涙が出て止まらない。うわ、と言ったのは彼だが、お巡りさん
も慌てた様子でどうしたんだね、と聞いてくれる。
「お兄ちゃんこそ、学校に行ってるはずの時間じゃない。…どうして、こ、こんなところ
にいるの。…どこ行くの?……し、心配、心配で、私、わたし」
「……ああ」
と言ったのはお巡りさんで。
彼は、一瞬ぽかんと口を開けて。それからがしがしと自分の頭をかいた。
「…千尋。…俺は今日、実力テストで昼までなんだ。だから、これから家に帰って、…帰
る前にスーパーで弁当でも買おうと思ってこっちに来ただけだ」
「…………へ」
今度ぽかんと口を開けるのは私の番だった。
ぶはは、とお巡りさんが爆笑する。
「なるほど、お兄さんを見かけて、家出でもするんじゃないかと心配して追いかけてきた
のか!」
私はかーっと頭に血がのぼるのを感じた。…たぶん、おでこのてっぺんから耳の先まで真
っ赤になっていたと思う。
「すいません、妹がお騒がせしました」
ぺこりと彼は頭を下げて。…ちらりと見えた彼の耳も、少し赤かった。
「ほら、千尋」
頭をぐい、と押される。
「…すいませんでした」
私もぺこりと頭を下げる。いいよいいよ、とお巡りさんは笑って。
「誤解が解けて良かったな。呼び止めてごめんよ」
そう言って、警邏の途中だったんだ、とまたのんびり歩いていってしまった。
「…だいたい、どこから俺を追いかけてきたんだ。…まさか、学校の運動場からか?」
「ちがうよ、今日はマラソンで校外を走ってたの。…そしたらお兄ちゃんが前にいるから、
…びっくりしたんだよ」
もうお巡りさんがいないんだから、お兄ちゃんと呼ぶ必要はないのに。…私は思わずそう
呼んでいた。
なぜか、ずっと昔からそう呼んでいたような、ひどくしっくりくる気持ちがした。
「追いかけてくることはないだろう」
「…だって心配だったんだもん」
「何が。…とにかく学校に戻ろう。そこまで送る」
彼はきびすを返した。私は慌ててついていく。彼の足取りがいつも通りに早いので、お兄
ちゃん、足が早い、と文句を言うと、彼は少し歩くのを遅くしてくれた。
「…お兄ちゃんは、いつだって、どこかに行ってしまいたそうな顔をしてる」
「…っ」
その私の言葉は、少し彼の痛いところを突いたようで、彼はふと唇をかんだ。
「…別に。…どこにも行かない」
「……嘘。…きっといつかどこかに行っちゃうくせに」
なんだか猛烈に拗ねたくなって、私は意固地に言いつのった。
彼はぎゅっと眉をしかめて。それから足を止めて私を見下ろして。私も足を止めて彼を見
上げると、彼は私の右手を左手でぎゅっと握った。
「…どこへも行かない」
その手はひいやりしていた。…掌の剣道ダコが少しざらざらと硬い。
「君のそばにいて、君を守る。…風早も、那岐も、…俺も」
君を置いては、どこにも行かない。
私は上目遣いに彼を見上げた。
「…ほんと?」
彼の、夜の海のような色をした瞳に、私が映っている。彼の瞳の焦点が、私に合っている。
「…ああ」
その声の力強さが、私を安堵させる。
「…行こう、千尋」
私たちは、手をつないだまま学校に向かって歩き始めた。
「ねえ。…これからずっと、お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「…。…別にかまわないが。…そう呼びたいのか?」
「うん。おしひと、って呼びづらかったの。お兄ちゃんなら呼びやすい」
「…まあ、君がそうしたいなら。…ただ、風早あたりが、拗ねるかもしれないな」
こんな他愛ない会話は、きっと初めてする。
私はつないだ手を軽く振った。
…この手は、いつまでつないでいられるだろう。学校についたら放さなくちゃ、とか、そ
ういう意味じゃなくて。私たちはいつまで家族ごっこを続けていられるのだろう。
…私と彼の人生は、いつまで交わっているのだろう。
…できれば、少しでも長くこの手をつないでいられますように、と。
どこにいるかもわからない神様に、少し祈りたい気持ちになった。