手をつないでもう一度

光は、まばゆく白いものだと思っていた。
光が強ければ強いほど、白に近づくものだと思っていた。
………だが、…その光は、ちがった。
全ての光を吸い込んで輝くような、黒。
何もかも奪い、灼き尽くすような黒い光が、比婆山から伸びて辺り一面をなぎ払う。
これが、禍日神の力なのか。
噂に聞く、常世をむしばむ黒き太陽。…これがそうか。
話には聞いていた。いずれ見ることになろうかとも思っていた。だがこんなに早く。こん
な場所で。
だが、それだけで驚くのはまだ早かった。
その光を受けて軍を翻した敵国の皇子に、二ノ姫は和睦ならばともかくも、こともあろう
に共闘を申し込んだのだ。…といっても、この状況では共に闘うというより共に逃げ出す
という方が正しかったが、少なくともしばしの間船を共にしてはどうかという。
忍人が呆気にとられていると、また呆れたことにアシュヴィンがそれを了承する。…もっ
とも、彼としてはそれを了承せねば、兵達をここから救い出すことが出来ない。ある意味
苦渋の選択であったかもしれない。ともあれ彼は共闘を受け入れた。
そのときだった。
渦巻く黒い光を凌駕して、清冽な青い光が草原に降り立つ。
それは、昨日、二ノ姫の助力の申し出をあっさりと断ったばかりの青龍だった。彼は、ア
シュヴィンと共闘することを選んだ姫を認め、力を貸すという。昨日の夜の偏屈振りが嘘
のような態度だったが、変わったのは彼ではない、と納得する。
変わったのは我々だ。昨日の晩、二ノ姫に付き従う者の中でいったい誰が黒雷アシュヴィ
ンと共に闘うことを想像しただろうか。
とはいえ、青龍の協力を取り付けただけで安心は出来ない。強大な力が渦を巻いていくの
がわかる。大きな闇、骸の神が、姫と皇子の前にゆらりとその姿を現す。
無言で身構える忍人の腰の辺りで、二振りの刀が、き、きん、とかすかに耳障りな音を立
てて揺れた。

骸神を何とか退けた千尋は、生き残った兵達を連れ、アシュヴィンや常世の兵と共に何と
か天鳥船まで辿り着き、出雲の国を脱出することに成功した。
多くの兵を失い気落ちするのは千尋とアシュヴィンだけではない。忍人も同じ痛みを抱え
てゆるゆると回廊を自室へと向かう。
…だが、彼が姫や皇子とちがうのは、希望を胸に抱けることだ。王と戴く人を得た喜びが
絶望を凌駕する。
立ち止まり、ふと小さく息をもらしたときだった。
「…何…」
急に目が回った。額を押さえ、回廊の壁にもたれかかってなんとか堪える。
「…くっ…う…っ」
今まで感じたことのないようなめまいだ。吐き気もする。
「………」
必死で堪える忍人の耳に、誰かがささやく。

……ちゃん。
…お……ちゃん……。

少女の声だった。

……は、いつだって、どこかに行ってしまいたそうな顔をしてる。

必死に言いつのる泣きそうな声。…この声を、自分は知っている。とても、…とてもよく
知っている。……だが、…誰だ?

私がいつかいろんなことを思い出しても……でいてね。

声が変わる。泣きそうな声から、どこか思い詰めたような声に。何を思い出すんだろう。
思い出したらどうだというんだろう?
ふらつきをこらえながら、脳内をめぐる声を探っていると、ふいに声が変わった。

…君は?
…君は、……で、いいのかい?

よく知っている声だ。
…そうだ、…これは風早の声だ。…だが、…いいのか、とは、…なにがだ…?

答えが返るはずもない脳内の声に問おうとしたとき、不意にめまいが収まった。
「…は…」
深く息を吐く。
「なんだ今の、…めまいは…」
霞がかかったようだった頭の中がすっきりすると、脳内をめぐっていた声も一緒に消えて
しまった。あの声は何だったのだろう。とても大事なことだった気がするのに、たった今
のことなのに、なぜだかきれいさっぱり消えてしまって思い出せない。
「……疲れているだけ、か?」
つぶやいてみて、忍人はゆっくりと肩をすくめた。
不思議なめまいは気になるが、そうだ、恐らく今日の戦いで自分は少し疲れているのだ。
思えば昨晩は夜半過ぎに青龍と対決したわけで、その疲れが完全に消えたわけではない状
態で今日は山中を移動し、常世の大軍と戦い、あまつさえ禍日神の攻撃を受け、骸神を封
じた。これで疲れなければ嘘だ。
眉間を少しもみ、身体を伸ばした拍子に、腰の刀が鞘にこすれてきり、と音を立てる。
…その音が、いつもと違う気がした。
「…?」
この回廊がこんなにも静かだったことはほとんどない。だから思いがけず反響して、いつ
もと違う音に感じたのか、あるいは単なる気のせいかと思ったのだが、念のために鞘から
刀を抜いてみて、その刀身をゆっくり確かめ、
「………」
忍人は眉をひそめた。
「……参ったな」
人がいないのをいいことに、すらりと何度か振ってみる。ほんのかすかではあるが、感触
が違う。
…いつだろう。骸神と闘ったときか、禍日神の光を受けたときか。あるいはアシュヴィン
の攻撃を受けたときに既に刀は異常をきたしていて、自分がそれに気付かなかっただけな
のか。
骸神との戦いで、いつもより刀に無理を強いたつもりはない。それに、禍日神の光に自分
は直接触れてはいない。やはりアシュヴィンの攻撃を受けたことがこの刀の異常の原因だ
ろう。ならば、単なる刀身の歪みよりももっと根が深いかもしれない。
「………」
忍人は眉をひそめてため息をもらした。
この船はこれからどこへ行くのだろう。船に導かれるまま進むしかないと風早も柊も言っ
ていた。方向としては東へ進んでいる、橿原か、あるいはもう少し南、熊野のあたりへ向
かっているのではないかと、これは風と方角を見るに敏なサザキの言で。
「橿原ならともかく、熊野で刀鍛冶が見つかるだろうか…」
低いつぶやきは回廊の壁に吸い込まれて消えた。

船はやはり熊野へ降りた。ならばここにも神がいるのではと探索を始めた一行の前に突然、
宮にいたような衣装をまとった采女たちが現れ、皆を驚かせる。
この鄙びた地に、なぜ。
しかも彼女らは一行を二ノ姫とその従者達と知っていて、ある方の元へお招きしたいとい
う。
ぴんときた顔になったのは風早と、それから柊だった。
とりあえず行ってみましょうと二ノ姫に勧める彼らにそっと忍人が近づくと、二人して弟
弟子に目配せしてみせる。
「わかりませんか」
歩きながら声を潜めて、けれどどこか苦笑気味なのは風早で。
「まあ、そろそろお出ましになる頃だろうとは思いました。場所が場所ですし」
安堵半分、困惑半分という顔なのは柊だ。…その困惑を見てはっと気付く。
「…狭井君か」
「「恐らく」」
兄弟子二人は声を揃える。
そういえば、狭井君は橿原宮陥落の際にぎりぎりで逃げ延びたと聞いた。彼女の本地は三
輪の近くだが、熊野の方にも所領を持っていたような、おぼろげな記憶もよみがえる。柊
は狭井君にかなり目をかけられていたが、非常に厳しくもされていた。かつ中つ国出奔の
経緯が経緯だけに、再会すれば気まずいのは当然だろう。困惑はそのせいか。
「怖い方ですが」
本人が目の前にいないと思ってか、柊もかなり正直だ。
「味方にすれば頼りになるのもまた事実。あの方も、中つ国の再興を狙っていらっしゃる
以上、国の正統な継承者である二ノ姫様を、悪いようにはなさいますまい」
「君はともかく」
「ええ、私はともかく……。…風早」
むっとして軽く睨む柊に、ごめんごめんと風早は笑う。…彼に軽口が出るのは久しぶりだ。
いつもはもっと余裕のある兄弟子も、今度ばかりはかなり気を張っていたのだろう。それ
と気付いて、忍人もようやく肩の力が少し抜けた。
狭井君は確かに一筋縄ではいかない方だが、二ノ姫を悪いようにはしないだろうという柊
の意見もまた確かだ。
ほっとした拍子に足取りが少しふらつき、腰の刀がまた、きり、き、きん、と厭な音を立
てた。
風早がふと、眉をひそめる。
「…忍人」
「何か」
「いや、…俺の気のせいかもしれないけれど、…その刀の音」
気付かれたかと忍人は肩をすくめる。
「先の出雲の戦いで、少しおかしくしたようだ」
刀の音では異常に気付かなかったらしい柊も、その忍人の言葉を聞いて顔をしかめ、風早
と顔を見合わせた。
「戦いの途中では気付かなかったよ」
「俺もだ。…落ち着いてみて、初めて」
「……まあ、天鳥船の速さで移動したのですから、すぐに常世の本軍と決戦になることも
ないでしょう。今のうちに直してしまうといいですよ」
「簡単に言うが、このあたりで刀鍛冶が見つかるかどうか」
「刀鍛冶はともかくも、鍛冶屋ならおそらく神邑でみつかるでしょう。…何しろ狭井君の
お膝元ですから。…ただの鄙びた村ではありますまいよ」
飄々と柊はうそぶいて、ねえ、と風早に同意を求め、笑った。

兄弟子の言葉は正しかった。
神邑は、宮から遠く離れた鄙びた土地であるにも関わらず、狭井君の存在のせいか、一通
りの施設はそろっていた。神をまつる神殿、土器を焼く窯、比較的頻繁に市が立つとしれ
る、整った広場。…そしてその中に鍛冶場もあった。
匂いや音のせいだろうか、村の最奥のほうにひっそりと炉を構えて、老人が一人で火を守
っている。
狭井君との会見を終えた忍人は、音を聞きつけて、その鍛冶場へふらりと足を向けた。
老人は入口に背を向けて、何か鍬のようなものを黙々と鍛造していたが、忍人がすらりと
鍛冶場の側に立つと、気配を悟ったのかいぶかしげな顔で振り返った。
見慣れぬ顔だったからだろうか、一瞬身構えるようなそぶりを見せた彼だったが、ふと気
付いた様子でああとつぶやき、黙礼をしてみせた。
「…中つ国の姫様のご一行が来られたと聞きましたが」
問うているのか一人言なのか判じかねるつぶやきだったが、忍人は、ああそうだと律儀に
うなずく。
「ご老人、いつも鍬を?」
「鎌や鋤も」
老人の応答は言葉少なだ。だが、忍人の聞きたいことの答えにはなっている。彼が通常扱
うのは農具がほとんどなのだ。それはそうだろう。ここは戦場からは離れた地、だからこ
そ橿原宮を逃げ出した狭井君はここに居を構えたはずだ。
「…刀を、見てもらうことは出来るか?」
老人は眉を上げた。その瞳は鄙の老爺とも見えぬ意外な鋭さで、忍人を少し驚かせる。
だがその眼光は一瞬のことだった。彼は、少しはわかるつもりですがお役に立てるかどう
か、ともごもごつぶやきながら手を出した。それが、刀を見せろという意だと悟って、忍
人は腰の刀を二振り抜いて、老爺に差し出す。
見た目には、破魂刀に何の変化もない。美しい刀身の涼しい刀だ。
だが、刀を受け取った老翁はすぐに異常に気付いたらしい。とりあえず一振りを置いて、
もう一振りを手に、しばらくためつすがめつしていたが、やがて鎚を手にもって、よろし
いですかと忍人を振り仰いだ。
何をするのかはわからなかったが、とりあえず、かまわないとうなずいてみせると、彼は
その鎚で刀をきん、きん、と二度叩いてみた。
「……」
忍人も、老翁も同時に眉をひそめる。はっきりと濁った音だった。
「……」
無言のまま、老翁は刀身の先から鯉口の辺りまで順にそっとたたいてみて、ふう、とやが
て息を吐いた。
「…これはもう…」
その一言の意味するところははっきりしていたが、忍人は確かめずにはいられなかった。
「駄目だろうか」
がくりと老翁はうなずく。
「刃こぼれならばともかく、この音は、芯のところにひびが入っている音です。普通なら
こんな濁った音はいたしません。打ち直しても恐らく不安定なままで、とても刀としては
ものの役に立ちますまい」
「………やはりか」
忍人は肩を落としたが、老翁のせいではないし、この小さな田舎の鍛冶場ではこれ以上の
ことは望めまい。
「手間をとらせてすまなかった。…ありがとう」
礼を言って忍人が背を翻したときだった。
「…お待ちください」
静かに声をかけられ、振り返ると、老人はまっすぐに忍人を見ていた。
「見ていただきたいものがございます」
お待ちを、と奥に入ってごそごそしていた老翁が持ち出してきたものは、二振りの刀だっ
た。
「…!」
どうぞと促され、持ってみると、まるで今の今まで使い込んだ刀のように、しっくりと手
になじむ。破魂刀と、重さも長さもほとんど同じようだ。
「…ご老人、これは…」
「…見てのとおり、私は鎌や鍬ばかり作ってきた村鍛冶でございます。…が、狭井君様が
この村に居を構えられてから、護衛の方の刀を目にしたり、時には研ぎ直したり焼きを入
れ直したり…。…触れている内にふと、打ってみたくなりまして、見よう見まねで作った
のがその刀です。……いかがですか。使い物になりましょうか」
「これが、見よう見まねだと…」
忍人は思わず絶句する。とてもそうは思えない。見た目だけではなく、持ったときの重さ
の配分が絶妙だ。那岐ならば、バランスがいい、とあちらの言葉で評するだろうか。
「…たいしたものだ。今からでも実戦に使えるだろう」
「…では、よろしければそちらをお持ちください」
こともなげに老人が言うので、忍人はまた驚いてしまった。
「いや、それは…」
忍人が否定しかけると、老人は少し眉を曇らせた。
「やはり、見た目はともかく使い勝手は悪うございましょうか。…何しろ、鍬や鋤はとも
かく、刀は振るったことがございません」
「いや、そうではない、刀の出来が悪いということではなくて、…私にこの刀をいただく
謂われがない」
老人が、見よう見まねで初めて打った刀なのだろう。どれほど思い入れがあることか、想
像に難くない。それをあっさりと、ありがとうと受け取ることは、忍人には出来なかった。
すると老人は少し笑った。
「ただで、とは申しません。…代わりに、その刀を預からせていただけませんか」
そう言って彼が指さしたのは、忍人が再び腰に下げた破魂刀だった。
「その刀は、今まで私が見たこともないような玉鋼が使われております。手にとって学べ
れば、もっと良い刀が打てるやもしれません。…もちろん、その刀がお気に召さなければ、
いつでもお取り替えいたしますので」
忍人は、一瞬鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてから、うつむいてくつくつと喉をならし
た。
「…そのお年で、…たいした向上心だ、ご老人」
それから顔を上げ、兵達にはあまり見せない柔らかい笑顔で語りかける。
「わかった。預けよう。…その代わり、俺がこの刀を預かって、本当によいのだな?」
「はい。…ぜひお持ちください」
「ありがとう。…では」
破魂刀を腰から抜いて老人の炉の傍らにそっと置き、代わりに彼が差し出した刀を腰に佩
く。あまりの違和感のなさに、一瞬疑念が脳裏をかすめたが、すぐに安堵がそれを凌駕す
る。なによりも、姫のために戦うことが今の忍人にとっての第一だった。それ以外のこと
を思い悩む暇はない。
老人に黙礼を一つして、忍人は背を翻し、秋の明るい陽光が降り注ぐ村の中へ出ていった。
小柄な老人は恭しく頭を垂れたままそれを見送っていたが、ふと、顔を上げる。
忍人の姿は既に視界にない。が、彼の鍛冶場の戸口に影がさしている。
「どなたで」
老人は慇懃に訪ねた。
誰何に答えて、ふらりと長身の青年が姿を現した。青い髪を短く切り、白を基調にして差
し色に青を使った服を着たその青年は、無言で値踏みするように老人を見つめる。その不
作法な視線に、しかしこれといって老人は表情を変えることはなく、
「何かこの老いぼれにご用でしょうか」
ぼそぼそと言った。
それでもまたしばらく無言を続けていた風早だったが、やがて肩を一つすくめ、
「…青龍」
そう老人に呼びかけた。
「……」
老鍛冶屋は答えない。
「青龍だろう」
風早は念を押した。
「……」
なおも老人は無言だ。だが風早は決めつけるかのように話を進める。
「何故、忍人に刀を与えた。…いや、刀を与えるふりをして、なぜ忍人から破魂刀を奪っ
た。それは忍人の既定伝承だろう」
規範から外れることを嫌うあなたがなぜ、そんなことを。
老人はため息をついた。ため息をついてのろのろと顔を上げ、じろりと風早を見る。……
その顔は相変わらず鄙びた田舎の老爺のままだったが、眼だけが獣の神のそれに変わって
いた。
「哀れな破魂刀を救うためだ」
炎も凍れと言わんばかりの冷たい声で神は言った。
「出雲の磐座での戦いで気付いた。…破魂刀は、地の玄武と誓約を結んでいない」
「……っ」
風早は一瞬ひるみ、それを隠すように、あえて強気に
「そうだね」
とつぶやいた。
とたん、青龍が瞳に怒りを閃かせる。
「何が、そうだね、だ。…お前のせいではないか、白麒麟」
お前が、地の玄武を異世界へ連れ去ったから。
「破魂刀が元の生太刀に戻るためには、地の玄武と誓約を結ばなければならない。それが、
破魂刀と地の玄武との既定伝承だ。…だが、お前が地の玄武を異世界へと連れ去ったから、
破魂刀は地の玄武を見失った。しかも、見つけ出した地の玄武を元の時間に戻して、誓約
を結ばせる状況に持ち込むことも、破魂刀は出来なかった」
「…え」
風早が思わず聞き返すと、お前ともあろう者が気付いていなかったのか、と、小柄な老人
の姿をした青龍は不快そうに顔をしかめた。
「地の玄武は龍神の神子の呼名によって予想外に強く異世界に縛られていた」

…お兄ちゃん。

千尋が忍人を呼ぶ声が、風早の耳に甘くよみがえる。
「異世界で地の玄武を見つけた破魂刀は、本当なら、異世界での地の玄武の時間をなかっ
たものとして、元の時空に戻せるはずだった。そうできていたなら、地の玄武は死線をさ
まよう中でもう一度破魂刀とめぐりあい、問題なく誓約を結んだはずだった。……だが、
実際はそれはかなわなかった」
地の玄武は、呼名によって異世界に確たる居場所と記憶を与えられてしまった。破魂刀の
力ではその結びつきを消し去ることが出来なかった。
「それ故、記憶をごまかして連れ戻すことしか破魂刀には出来ず、時空は元には戻せなか
った。おまけに誓約を結ぶことも出来なかった」
誓約を結んでいない破魂刀がどれだけ地の玄武の命を削っても、生太刀に戻ることは出来
ない。それが決まりだ。定められた伝承だ。
「叶わぬとわかっているのに命を吸い続ける、そんな哀れな生太刀の姿は見るに忍びぬ。
だから救った。それまでのこと」
黒衣の皇子アシュヴィンは青龍の眷属。彼が力を放つとき、ほんの少し手を添えた。ほん
の少しでも、神の力なら、刀に異常をもたらすのはわけはない。たとえそれが神に属する
力を持つ刀であっても。
「…これは儂が預かっていく。また新たな運命の糸がめぐるまで、眠らせてやるが幸せと
いうもの」
二振りの刀を片手で掴み、老人は風早にきっぱりと背を向けた。
「…青龍」
慌てて風早は呼びかけたが、
「…もう行け。…儂も消える」
にべもなく言い捨てて、小柄な姿は小屋の奥へ向かった。奥の暗がりに向かうにつれ、そ
の姿はゆるゆると薄れていく。最後の残像は、空に立ち上った煙が風に巻き込まれたとき
のように奇妙にゆらりと揺らいで、ふっと消えた。
取り残され、今起こった出来事が信じられずに天を仰ぐ風早の耳に、やわらかな少女の声
が聞こえてくる。
「忍人さん」
朗らかな呼びかけを聞きながら、風早はゆるゆると打ち震えた。
思えば、あの日突然、千尋は忍人のことだけを兄と呼び始めた。
理由を聞かれてしどろもどろに、けれど彼女は、そう呼ぶことで忍人をつかまえた気がし
たのだと、そう言った。
そのとき、風早は己の罪の後ろめたさのことばかり考えていて、千尋の行動の意味まで深
慮が及ばなかった。
だが、千尋はそのときまさしく忍人をつかまえたのだ。神の力ではなく、自分の力で忍人
をつなぎ止めたのだ。
「………青人草」
時の奔流に溺れ流され、木に咲く花よりはかなく消えると神々から憐れまれ、軽視され、
捨てゆかれる命。
けれどそのかそけき力で、頼りない声で、少女は、時に神でさえ抗えない既定伝承の糸を
断ち切り、つなぎ止めた。
この、人というもの。
「………ふ」
腹の底からこみ上げてくる波のような震えをこらえきれず、風早は己が身を掻き抱く。
幾度歴史を繰り返しても、否、繰り返せば繰り返すほど、人という存在は自分を驚かせる。
突き動かす。惹きつける。
風早は暗い鍛冶場の炉端から、明るい戸外を振り返った。
秋の収穫に喜び労働に励む村人達。その姿を見ながら、言葉を交わす青年と少女。見交わ
す瞳と瞳の間に、糸がつながるのが見えた気がして、風早はゆるゆると微笑んだ。

「忍人さんて、いつも私を君って呼びますけど」
リスのように小首をかしげて千尋は忍人を見上げた。
「ああ、言われてみればそうだな。それが?何かまずいのか?」
応じる忍人の返答はかなりそっけないが、千尋も忍人の対処にかなり慣れてきて、その程
度ではめげもしない。
「まずくはないですけど、その」
しかし、慣れたのと照れくさいのは別だ。
「…できれば、名前で呼んでほしくて」
気恥ずかしさをこらえて思いきって頼んでみると、
「名前?」
忍人はどこかぽかんとした顔で聞き返してきた。
「だって、風早のことは名前で呼ぶのに。…その、いやなら…」
最初こそ、だって、と声に力を込めた千尋だが、だんだん声が小さくなって、最後はごに
ょごにょと口ごもる。
「……」
忍人はまだ少し不思議そうに首をかしげていたが、
「……千尋」
あっさりと名を呼んでくれた。
「……!」
そのアクセントのなつかしさに、千尋はびくりと震えた。
忍人の呼び方は、風早の呼び方や那岐の呼び方とはほんの少しだが違っている。まっすぐ
に呼んでくる、とでも言えばいいだろうか。忘れようと思っても忘れられなかったその呼
び方に、千尋はみぞおちのあたりがじわりと熱くなるのを感じる。
「これでいいのか?」
感慨にふける千尋を我に返らせたのは忍人の一言だった。
「あ、…はい」
慌てて応じて、らちもない感慨を振り切るように、千尋はふふ、と無理に笑った。
「やっと私の名前を呼んでくれましたね」
「そんなに喜ぶようなことか?」
「だって初めてですよ」
「…初めて?」
けげんそうに忍人が聞き返す。
「…?…はい」
千尋が断言すると、忍人は眉間に深くしわを寄せた。
「…初めて…?……いや」
ゆるゆると首を横に振って。
「…初めてではない、と思う」
いつもすっきりと強く深い忍人の瞳の、焦点が少しゆらぐ。
「俺はどこかでずっと君をそう呼んでいたような気がする…。……っ」
その言葉の意味に気付いて千尋がぎょっとする前に、忍人の顔色が紙のように白くなり、
こめかみを手で押さえてうつむいた。
「忍人さん!?」
「…何でもない。…少し、頭が痛くて」
「だ、大丈夫ですか!?」
のぞき込んだ千尋の髪が、忍人の視線の高さでさらりと揺れる。そんなはずはないのに、
初めて見るかのように忍人は目を見開いてまじまじとその髪を見つめ、ふとつぶやいた。
「買ったのか」
「……え?」
「その、髪飾り」
千尋はひゅっと息を呑んだ。
忍人は千尋の反応に気付かないのか、こめかみを押さえたまま訥々と語る。
「…あの隣の店で、君は髪飾りを見ていただろう。…千尋には、きっとその青い色が似合
うと思って、俺は…」
「……っ!」
上げかけた悲鳴を両手で押さえ込んだ千尋の仕草を、しかし忍人は見ていなかった。瞳は
髪飾りに向けられてはいるが、焦点が合わない瞳は目の前の風景ではなく記憶の中の街並
みを探っているようで、大海で方向を見失った泳者のように遙か遠くを見はるかしてぼん
やりと曖昧だ。…やがてその瞳に力が戻り、また少しずつしかめられていく。
「…おかしいな。…確かにそう思った記憶があるのに、それがいったいどこの店だったか、
いつのことだったか…」
口ごもった彼はまたうつむいてしまった。
「何だか頭がぼんやりして、…ちっとも思い出せない」
「…いいんです」
震える声で千尋はつぶやいた。
「いいんです、慌てないで。ゆっくり、…ゆっくり思い出してください」
その目尻に光るものに、忍人は気付かない。…千尋自身も気付いていない。
「時間は、いっぱいありますから」
あなたがどこかへ行ってしまいそうで不安だったあの世界とは違う。この豊葦原こそが私
たちの生きる世界。これからずっと生きていく世界。
あなたは、もうきっと、どこへも行かない。
「これからも私たち、…ずっと一緒ですから」
忍人の手に、千尋はそっと手を添える。忍人はゆるゆると顔を上げた。ぼんやりした視線
が、触れあう手を見て不意にすっと焦点が定まる。
きり、とした瞳が千尋を見て、……ふわりと笑った。
豊葦原に戻って初めて見るやわらかい笑顔。でもこれはあの家でずっと見ていた笑顔。
触れあうだけだった手は、いつしかしっかりとつながれていた。初めて彼を兄と呼んだ、
兄と呼ぶことで運命をつなぎ止めた、あの日のように。
「…行きましょう」
千尋も笑う。握った手を離さぬよう、しっかりと指を絡めて。
この手を携えて、歩いていこう。めぐる糸車の環を壊して、新しい糸のその先へ。