「忍人さんって、冬至に生まれたんですってね」
軍の新しい編成(主に警備について)の相談を終えた後で、千尋はふとつぶやいた。
忍人は竹簡を繰りたたみながら眉を上げ、
「何故それを…」
不審げにつぶやいたが、すぐに肩をすくめて、那岐か、とぼそりと言った。
「…よくわかりましたね」
「彼にしか話した記憶がない」
その答えに、千尋の方が少し驚いた。
「風早や柊にも?」
「話した記憶はないな。…もっとも、彼らなら俺が話していないことでも平気で知ってい
そうだが」
確かにそうですねと苦笑でうなずきつつ、千尋は心の中では別のことを考えていた。
……那岐だけ、かあ。
心の中だけで考えたつもりだったのに、知らず、思いは言葉になっていた。
「仲いいですよね、那岐と」
忍人はやや首をかしげたようだが、表情は毛ほども変えない。
「…話す機会は多いな。…好む場所も似通っているし、彼との会話は苦にならない。仲が
いいと言っていいのかもしれないな。彼がどう感じているかは知らないが」
少し唐突にも思えるだろう千尋の言葉に、生真面目に忍人は言葉を返す。自分だけでなく
那岐の心中も推し量って断言をしないところが彼らしい。
千尋は執務の机の上で頬杖をついた。
「きっと那岐しか知らない忍人さんの話っていろいろあるんでしょうね」
「いや、そんな大層な話は、別に」
「でも、現に一つありましたよ」
思わず拗ねた口ぶりになってしまって、言ってからそのことが恥ずかしくなって、千尋は
口を押さえ、うつむいた。忍人にはきちんとした女王だと思われたいと常に意識している
つもりなのに、時々油断してしまう。
もっとも、忍人の方では千尋の虚勢などとうにお見通しなのだろう。その証拠に、千尋の
今の言葉を聞いた彼は、年若い弟妹をなだめる長兄のような顔をした。
「では一つ、…那岐の知らない、…君相手にしかできない話をしよう」
束ねた竹簡を千尋の机に置き、椅子に座り直して、…彼は静かに話し始めた。
「…俺の伯父はかつて、君の母上の夫だった」
「…え?」
思わずきょとんとした千尋に、知らないか、無理もない、と忍人は低い声で言った。
「しばらくしてその婚姻は解消された。伯父は宮を辞して、何もかもなかったことにされ
た。不名誉な話だったからだろうな。君どころか、君の姉上が生まれるよりももっと前の
話だし、あまり子供に聞かせる話でもない」
「でもええと、…不名誉って、…結婚したのに別れちゃったから、ですか?」
異世界での婚姻事情を知っている千尋には、こちらの世界の結婚観はかなりおおらかに見
えるのだが。何しろ、一夫一婦制ではない。
「…伯父は、一族に戻って、改めて伯母と添った。俺の目から見てもかなり仲のいい夫婦
だったが、生涯子供には恵まれなかった。…となると、別れた原因に多少の想像はつくだ
ろう」
千尋は口元に手を当てた。何も答えられないのは、原因がわからないからではない。わか
るからこそ、言葉が出ない。
女王には後継者が必要だ。そのためには、女王自身が子をなさねばならない。…夫との間
にそれがならないとしたら?
忍人は言葉のない千尋をそのままに、淡々と言葉を続けた。
「伯父は怜悧で隙のない人だったが、ごくたまに判断を誤ることがあった。必ず宮が、…
先王が絡んでいた。伯父は望んで女王と別れたわけではなく、伯母とむつまじく暮らしな
がらも心の底には先王陛下がいた。子供の頃は、そのことがよくわからなかった」
忍人は千尋からあからさまに視線をそらした。
「わかったのはただ、女王との恋は、互いの感情以外のことに左右されるということ。振
り回されるということだ。だから、君との距離を王と一臣下という立場以上に縮めるつも
りはなかった」
「…っ」
今までの話は、彼の伯父と自分の母の話だった。胸が痛い話だが、過去のことだと感じて
いた。…だが。
千尋はそむけられた忍人の顔を追おうとする。そのとき、ちょうど忍人が向き直った。…
その瞳の色に、どきりとする。
…切なくて、強い色。
「気持ちが変わり始めたのは、那岐と話すようになってからだ。那岐が時折君との暮らし
を語るとき、俺は胸が灼ける思いがした。那岐や風早しか知らない君の姿がたくさんある
ことがうらやましくて、それを知る那岐が妬ましかった。那岐のことを、仲間として好も
しく思うのに、だ」
忍人は息を吐いた。
「それでわかった」
千尋は知らず背筋を伸ばした。
「焦がれる気持ちというのは、理性ではどうしようもない。どんなに押さえつけても見え
ないふりをしても表に出てくる。抗えないものなんだと」
はい、と小さな声で千尋は肯定する。忍人の瞳が少し揺れた。
「…だから、…もし君がそれを許してくれるなら、俺も那岐のようにもっと君を知りたい」
…はい、ともう一度千尋は肯定した。前よりも強い声で。前よりもはっきりと。…だがす
ぐ彼女は、「でも」と続ける。
「…?」
「私は、那岐のように、は厭です。私はもっとあなたを知りたい。那岐や柊だけが知って
るあなたはもちろん、みんなが知らない、私だけが知っているあなたをもっともっと知り
たいです」
言い切ってから、千尋は改めてまっすぐ忍人を見返した。
「…私は、欲深でしょうか」
忍人は笑った。
「…お互い様だ」