地図にない国

「ううう、ごめんなさい……」
うめきながら私が隣の部屋の戸を開けると、
「まあ、そろそろ来る頃だと思ったよ」
と呆れ顔の那岐と、黙って苦笑しているお兄ちゃんが迎えてくれた。
もうすぐ定期考査だ。他の教科の準備はなんとかなったのだけれど、私はどうにも英語が
からきしで、やっていた出題範囲の問題集に行き詰まってしまった。…毎度のことなので、
那岐も、またかという顔はしつつも既に、同じ問題集を机の上に出している。
「リスニングは得意でびっくりするくらい聞き取れるのに、何でここまで文法がずたぼろ
なんだ」
先生は主に、同じところを勉強している那岐だ。那岐が出した問題に苦しんでいると、た
まにお兄ちゃんから助け船が入る。二人とも、英語は特に不得手ではないらしい。……と
いうか、二人とも勉強は何でもだいたいそつなくこなす……。先生をやっている風早は言
うに及ばず。……従兄弟同士なのに、と時々恨めしくなることがある。
「文法なんか、ルールだよ、ルール。覚えちゃえばリスニングよりよっぽど簡単なのにさ」
問題集と私が答えを書いたノートを見比べながら、那岐は少し顔をしかめた。……きっと
書いてる答えがずたぼろなんだと思う…。解答部分は那岐が持っている。持ってると見そ
うになるので自発的に那岐に渡してある。
「そんなこと言われても…」
ぴしぴし容赦なく赤が入ってノートが返ってきた。ため息をついてノートを眺める私に、
那岐がここは過去完了じゃなくて過去完了進行形、このshouldの書き換えにはought toを
使えばいい、と丁寧に教えてくれる。
…なんとか試験まで頭の中にとどまっていてくれますように、と思いながら、青ペンで必
死に書き込みをいれる私とぴしぴし指導する那岐先生を、少し手持ちぶさたそうにお兄ち
ゃんはしばらくの間黙って眺めていたが、やがてふっと部屋を出て行った。
階段を下りていく足音がして、…台所で何かしている気配。
……な、何してるんだろう。
「千尋。忍人が台所でごそごそして気になるのはわかるけど、気を散らさない」
私がそわそわしているのに気付いたか、那岐がぴしりと声をかける。
「別にこんな時間から料理を作ったりしないだろ、忍人も」
「うん、…そうだね」
と言いながらも気にしていると、ほどなく急須と湯飲みを載せたお盆を持ってお兄ちゃん
は帰ってきた。……よかった、お茶だった。
「…そう露骨にほっとした顔をしないでくれ」
苦笑しながらお兄ちゃんが私と那岐の前にほうじ茶の入った湯飲みを置いてくれる。
「ありがとう忍人。…ちょっと早いけど、…いっか、休憩しよう、千尋」
「うわーい……」
喜ぶ声に元気が出ない。…那岐とお兄ちゃんが吹き出した。
「なんだそれ!そのあまりにも元気のない喜び声!」
那岐が笑いながら指をさして私をからかう。
「……だあってぇ…」
ううう。私は那岐の机になついた。
「こんなにやったのに、ちょっと早いけどって…」
「事実だし。まだ範囲の半分も来てないだろ?」
「それはそうだけど」
那岐のおっしゃるとおりなので、反論も出来ない。私はため息をつきながらよいしょと体
を起こし、お兄ちゃんが持ってきてくれた湯飲みを手に取った。
「あうー、英語のない国に行きたーい」
別に何の他意もない一言だった。
馬鹿なことを言って、と、那岐もお兄ちゃんも笑うと思っていた。実際那岐は、少し呆れ
た顔で鼻を鳴らしたのだけれど。
…お兄ちゃんは、少し不思議な色の目をして、静かに言った。
「…本当に行きたいか?…千尋」
てっきり冗談かと思ったけれど、私が見たお兄ちゃんの目は真剣…だったように思えた。
「忍人」
那岐がどこかいさめるような声でお兄ちゃんの名を呼んだ。
「英語のない国なんて、どこにあるんだよ。フランスでも中国でもタンザニアでもブータ
ン王国でも、多かれ少なかれ英語はあるじゃないか。………たぶん」
たぶん、と付け加えたのは、多少那岐にも自信がないからじゃないかと思う。この世界の
どこかには、英語がひとっっっっつも存在しない国もあるかもしれない、よね?
……もっとも、その国の言葉も、きっと私には覚えられないんだけど。
お兄ちゃんは那岐の顔を見て、涼しい顔でこう言った。
「ギアナ高地のてっぺんに行けば、ないと思う」
「英語以前に人がいないだろそこは!!!」
間髪入れずに那岐がつっこむ。私はがっくりきて机になついた。
「……なんだ、お兄ちゃんと那岐のいつもの漫才か…」
「忍人の言葉を真に受ける千尋が悪い!」
お兄ちゃんにかみついていた那岐が、くわ、と振り返って今度は私につっこんだ。なんだ
かとばっちりを受けた気分。
お兄ちゃんは何もなかったような顔で、自分がいれたお茶をすすりはじめた。那岐は急に
やる気が出たようで、ほら続き続き、と私をせかすように赤ボールペンを振り立てる。私
はため息をもう一つついて、湯飲みをお盆に戻すと、もう一度青ボールペンを握りなおし
た。
…ああ、英語のない国に行きたい。

数日後。
何とか英語の試験を終えて、よれよれしながら私が家に帰ると、珍しくお兄ちゃんが先に
帰ってきていた。私を見て少し目を丸くして時計を確認して。
「お帰り、早かったな」
と声をかけてくれる。それからはっと気付いたようで、
「…そうか、試験か」
一人言のように付け加えた。
「お兄ちゃんこそ、ずいぶん早くない?」
「今日は一限だけあったが、あとは休講だった。バイトまで大学で時間をつぶしてもよか
ったんだが、家に読みたい本を置いてきていたから」
食堂のテーブルに載っている本がそれなのだろう。分厚い法律の本のようだった。私が読
んだら頭が痛くなりそうだ。
「那岐は?」
「日直なの。待とうかって言ったんだけど、長引きそうだから先に帰れって。…夕方には
ならないからって」
私は夕焼けが嫌いだ。那岐もそれを知っていて、なるべく夕方は一人にならないように気
を遣ってくれる。今日は試験の関係でお昼で帰ってきたから、一人で家にいても大丈夫だ
ろうと思ったのだろう。
私は自分でマグカップに紅茶を作って、お兄ちゃんの前の椅子に座った。ここは本当は那
岐の席だけど、今はいないから、いいや。
「ああもう、駄目駄目だった…」
「…千尋がそんな言い方をするということは、今日は英語か」
お兄ちゃんが苦笑する。そのとおりです、と私はがくりとテーブルに突っ伏した。
「もう、赤点でさえなければいい……」
進級できればそれで。何点でも。
「英語なんか、この世になければいい……」
そう私がつぶやいたとき、ふと、部屋の空気がぴりりと張り詰めた気がした。
「……?」
突っ伏していたテーブルから私が顔を上げると、お兄ちゃんがまた、この前のような不思
議な色の瞳をしていた。
「…じゃあ本気で、英語のない国に行くか?」
「…そんな国、本当にあるの?」
笑おうとして、…お兄ちゃんの表情を見た私は、笑い損ねてしまった。
お兄ちゃんは、笑っていた。…冗談に決まっているだろう、と、今にもその口が言いそう
だった。
……けれど、目の深いところが笑っていない。それどころか、ひどく寂しそうな、痛そう
な、せつなそうな色に沈んでいる。
その目を見て、私はゆっくりと首を横に振った。
「…千尋?」
「…いい。行かない」
私はまっすぐにお兄ちゃんを見る。
「英語のない国の話をするたび、お兄ちゃんはとても苦しそうな辛そうな顔をする。…お
兄ちゃんをそんな顔にさせるところに、私は行きたくない」
ふっとお兄ちゃんの顔から表情が消えた。…私は少し怖じたけれども、どうしてもこれだ
けはと言葉を続けた。
「お兄ちゃんと那岐と風早が、幸せな顔をしていられる国に、私はいたいの。…みんなと
一緒にそこで笑いたいの」
その場所がここだとは限らない。…どこか他の場所もあるかもしれないけれど。…でも。
「ここで皆が笑っていられるなら。…私はここにいたい」
「…千尋」
…お兄ちゃんは一瞬とても辛そうに眉を寄せたけれども。…ぎゅ、と目をつぶって、開い
たときはまたいつものように優しく笑ってくれていた。
「…そうだな。…俺も、千尋には笑っていてほしい」
千尋が幸せなら、それでいい。
そう言って、お兄ちゃんはからかう顔になった。
「……とりあえず、もう少し英語が得意になった方がいいだろうな」
でないとここで笑っていられないだろう?
「……だから英語のことを言わないで……」
私がテーブルに突っ伏すと、お兄ちゃんが苦笑気味にくっくっと笑い出す。
玄関が開く音。ただいま、と那岐がめんどくさそうにつぶやく声。お帰り、とお兄ちゃん
が応じる声。
テーブルに伏して、目を閉じて、私はその音全てを抱きしめる。

もう少し、ここにいさせて。