棘

体が重くてひどくだるい。
軍議の後、忍人は人気のなくなった楼台で、ずっとこらえていたため息を深く長く吐いた。
もれる息は熱っぽくて苦い。
ムドガラ将軍の鬼道を断ち切るのに、無理矢理に破魂刀をふるった。その後倒れてずいぶ
ん周りに迷惑を掛けたのだが、遠夜の手当のおかげで表面上はすぐにすこやかさを装うこ
とが出来た。…そう、表面上は。
……中身は、ぐちゃぐちゃになってしまったな、と思う。
毎日おとなしく遠夜の治療は受けている。遠夜は忍人の症状の説明を聞いて薬湯をこしら
えながら、時々眉をしかめている。彼は巫医として腕がいい。おそらく表面だけでなく中
身の悪化にもうすうす気付いているのではないだろうか。たぶん、ぐちゃぐちゃになって
いるのは彼にはどうにも手の出ないところなのだ。体そのものではなく、魂がすかすかに
なっているのではないかと思う。
夜、寝台に身を横たえていると、時折、しゃらん、と玉が鳴るような音が聞こえることも
ある。これはたぶん那岐。彼も何か気付いているようだ。彼らしいのは、表だっては何も
言ってこないこと。ただ黙って、時折悪い気を払っていってくれる。玉の音を聞いた後は、
決まって体が少し楽になる。
しばらくじっとしていたおかげで、ようやくだるさが少し収まった。
忍人が息を吐いて、さあ動きだそう、としたときだった。
ふらりと黒っぽい人影が楼台の中に入ってきた。……アシュヴィンだ。
彼は忍人を見て少し眉をひそめたようだ。
「…軍議はとうに終わったのに、ここで何をしている、将軍。…船はしばらく飛ぶまい。
お前がここに用があるとは思えないが」
朗々と響く声にそういわれると、糾弾されているような気になる。忍人はお返しのように
眉をひそめた。
「…」
アシュヴィンは何か言いかけて止め、口を閉じて大股に忍人の方へ近づいてきた。ほんの
わずかだが、彼の方が背が高い。やや見下ろす尊大な視線で、彼はむっつりと問うた。
「動けないのか」
「…いや」
答えながら、忍人はかすかに笑った。嘘をついてはいないが、真実でもないな、と思う。
今はなんとか動けるが、さっきまではだるくて動けそうもなかった。
アシュヴィンは忍人の言葉の真否を計る表情だったが、忍人がすらりと一歩を踏み出すと、
しようのない、という顔で肩をすくめ、彼には珍しいことだが、低くうなるようにぼそり
と言った。
「…お前は無茶苦茶だ」
「君に言われたくはないな」
忍人が笑うと、アシュヴィンは顔をしかめた。
「俺が言わずに誰が言う。…皆、腫れ物に触るようにお前を見ているじゃないか。あの日
向の馬鹿頭領でさえ」
………さすがに、馬鹿頭領はないのではないかと思ったが、アシュヴィンの言葉に悪意は
なさそうなので追求は止めた。アシュヴィンは元々、親しみをこめて馬鹿と呼ぶ癖がある。
忍人の苦笑を見てアシュヴィンは鼻を鳴らす。それから苦々しげにぷいと顔をそらして、
体をひねって。
「そうやってお前が立ち上がるから、みな言いたいことも言えなくなるんだ」
…その気に、気付かなかったわけではない。ふっと動いた風に、感覚は確かに反応し、構
えを取ろうとしたのだが、忍人にとって地団駄を踏みたいほど悔しいことに、体が己の感
覚についていかなかった。
ひねった体勢からすらりと抜かれたアシュヴィンの刀の切っ先が、棒立ちのような姿勢の
忍人の肩口に当てられる。
「…この程度の動きもよけないか」
鼻で笑われても仕方がない。忍人は舌を噛みたいほど悔しかった。が、今更動けば刀に触
れて傷を負うだけだ。だから悔しさを我慢して、腕を組み、立ちつくす。
「なあ、忍人」
アシュヴィンがうっすらと嗤っている。
「この腕、一本か二本斬ってやろうか?」
何でもないことのように言う。まるで木の形を整えるために、枝を払うかのような物言い
だ。
…いかやたこじゃあるまいし、人間には二本しか腕がないのだが。
忍人がにらみ返すと、のほほんと軽口をたたいているアシュヴィンの目はしかし、存外真
剣だった。
……本気で斬る気か?
忍人が瞳に力を込めると、アシュヴィンもじっと忍人を見る。
「そうすれば、…お前も刀を持たなくなるか?」
「………」
どれほどの時間、にらみ合っていたのだろう。…いや、もしかしたらほんの一瞬だったの
かもしれない。
いずれにせよ、目をそらしたのはアシュヴィンだった。
「…無駄だな」
ぽつりと言う。
「たとえ腕を失っても、命のかけらがある限り、歯で刀をくわえてでも、お前は戦場に出
るんだろうな」
つまらなそうな顔で、彼は刀を引いた。
「無駄なことはしない主義だ。骨を断てば、刀も刃こぼれするしな」
……本当に、この王子様はどこまでが本気でどこからが冗談なのか。日々ほぼ本気だけで
生きている忍人にはいささか計りかねる。
なので、忍人は、気になることを真正面から聞いてみることにした。
「何故、俺のことを君がそこまで気にかけるんだ、アシュヴィン」
アシュヴィンは一瞬目を見開いて、あ?と口を開けた。それからすぐに、目をすがめるよ
うにして嗤う。
「まあ、…当たり障りのないことを言えば、…過去はともかく、今はお前は俺の仲間だか
らな」
言ってから、…しかしアシュヴィンは、自分の発言そのものを鼻で笑い飛ばした。
「と言えば、それこそ当たり障りがないというか、優等生の答えなんだが。……あいにく
と、少し違う」
今度目を見開くのは忍人だった。
「…というと?」
素直に疑問が口をついて出る。
が、アシュヴィンは、
「聞くな馬鹿」
その問いを一蹴した。そして笑いながら、
「俺に深入りする気もないくせに」
と続ける。
「……?」
「…今は確かに同じ船に乗っているが、我々がずっと同じ河岸に拠るとは限らない。そし
て、お前が破格の人と呼び、王と仰ぐのは、二ノ姫以外あり得ない、だろう?」
その一瞬のアシュヴィンの笑みは、ひどく凄みがあった。
「…ならば、俺に深入りするな」
言ってから、かすかに首をかしげて、いや、と言葉を添え。
すっ、と、…忍人に近づいて肩を並べた。触れるほど近くにありながら、忍人から見える
ものはアシュヴィンの背中だけで、おそらく忍人の背中を見ているであろうアシュヴィン
の表情は見えない。視界の隅に、彼の波打つ赤褐色の髪が見えて、…その力強い色に、な
ぜだか忍人は視線をそらせなくなってしまう。……アシュヴィンの髪だけを、ただただ見
つめる。
その耳朶のごく近くで、アシュヴィンは低い甘い声で謳った。
「……俺に、お前を深追いさせるな。…虎狼将軍」
その声を聞いた瞬間、何かが忍人の脊髄を走り抜けていった。ひどく強い感情だったのだ
が、なんともつかまえようのない何か。
甘美で恐ろしく、冷ややかで熱い。
………これはいったい、何だ。
ふ、と忍人の耳元でまたアシュヴィンは笑い、はたりとマントを翻して向きを変えると、
すたすたと楼台の出口に向かっていった。
出口でふと足を止め、忍人を振り返る。
「余計なお世話だが、忍人」
「……は」
「お前がずっとここにいることを、何人か気にしている。…平気な顔が出来るなら、さっ
さと出て行ってやった方がいい」
親切めかしてそう言う顔は、もうすっかりいつものアシュヴィンで、傲慢で明るくて親し
みやすく感じるのだが。
……先のあの一瞬の印象が、まだ忍人から消えない。
曖昧に笑うと、彼はきっぱりと笑い返して、楼台から出て行った。
……彼は、自分の何を深追いするというのだろう。
忍人は目を閉じた。視界が遮られると、あの印象の強いアシュヴィンの波打つ髪が思い出
される。……その髪を見ながらささやかれたあの一言も、自分の中を通り過ぎたあの感情
も。

その日から。何かがとげのように、忍人の中に刺さって、抜けない。