常磐木落葉


回廊に不意に突風が吹いて、千尋が小さく声を上げた。つむじ風のようなその突風は、い
ろいろなものを巻き込み巻き上げて、宮の中を通り過ぎていく。
「大丈夫ですか、陛下」
先を歩いていた道臣は振り返り、慌てて駆けてきて、失礼ながらと断ってからぱたぱたと
頭や肩を払った。払いながら道臣は、つまみ上げた物を見てくすりと笑う。
「落ち葉まみれになってしまわれましたね、陛下」
言いながら、千尋に見せるように、赤く色づいた葉を差し出した。他にも千尋の周りには
払い落とした落ち葉が何枚も落ちて、回廊の廊下を赤く彩っている。
「…こんな時期に、落ち葉?」
今は五月、新緑の季節だ。落ち葉の季節は秋ではないか。
恐らくそう言いたいのだろう。千尋が不得要領な顔で首をかしげるので、道臣は目を細め
てことを説いた。
「これは楠の落ち葉です、陛下。楠は常磐木で、秋になっても色づいて葉を落とすことは
ありません。その代わり、春になって新しい若葉が芽吹いたことを見届けてから、ゆるゆ
ると葉を落とします」
「そうなんですか」
千尋は瞳をきらきらさせた。彼女はこうした自然のうつろいに奇妙に疎いところがある。
その生まれと色素の淡い見た目のために、幼い頃から宮中で秘されるようにしてして育て
られたことが関係しているのだろう。だから周囲の者は、ことあるごとに彼女に季節の移
り変わりや自然の力について教えようとする。道臣もその例外ではない。
「こういった落ち葉を常磐木落葉と総称いたします。楠だけではありません。たとえば楪
もその一つです」
「楪?…聞いたことがあります。お正月に飾るからって、那岐が薬庭に植えていたあの木
でしょう?」
「そうです。あれはこの楠と同じく、古い葉が新しい葉が芽吹いたことを見届けてから落
ちるので、縁起がよいと正月飾りにいたします」
「ゆずりは、ですものね。名前通りというか、名は体を表すというか」
「ええ」
「他には?」
瞳がいっそう輝いている。彼女は新しい知識を手に入れることが大好きだ。その姿勢を好
もしく思いながら、道臣は指を折った。
「…そうですね、この時期に葉を落とすのは、樫や椎の木。モッコクもですね。それから、
ヒイ…」
…言いかけて、道臣はふと口をつぐんだ。
「…?どうかしました?」
数え上げている途中で黙り込んでしまった道臣に、千尋が不思議そうに首をかしげる。
「…あ、いえ。…知っているはずなのに、いざ数え上げようと思うと思い出さないもので
すね」
千尋は微笑んだ。
「何となくわかります。…後から思い出したり、ね」
そのとき、回廊を前方から近づいてくる足音が聞こえた。
「…陛下」
呼びかけに答えるように千尋が顔を上げる。その視線を追って道臣も振り返り、どきりと
した。
「狭井君が陛下にお目にかかりたいと執務室で待っておいでです。少し長く待っておいで
なので、お捜ししに参ったのですが、…何かお話中でしたか」
やってきた柊は、用件の割にゆったりとした口調で話してから、ふと首をかしげた。
「いえ」
「教えてもらっていたんです」
道臣と千尋の声は重なったが、言葉の意味は大きく異なっていた。柊は苦笑で瞳を細め、
道臣と千尋は顔を見合わせて照れ笑いをかわす。
「教える、とは、何を?」
千尋をはさみ、執務室へ向かいながら、世間話のように柊は問うた。
「常磐木落葉のことを、少し」
新しい言葉を覚えた小さな子供のように、千尋は少し誇らしげにその言葉を口にした。
「常磐木落葉、ですか」
優しく復唱し、千尋の瞳をのぞき込む柊とは反対に、道臣は目を伏せ、少し顔をそらした。
「ええ。…先刻突風が吹いて、楠の落ち葉まみれになっちゃったの」
「我が君にまといつくとは、落ち葉といえど油断なりませんね」
「…柊」
笑いながら千尋はたしなめるような声を出した。さすがに、柊の軽口への対処はもう手慣
れている。
「これは失礼を」
柊は胸に手をあてて、優雅に一礼してみせた。
「なるほど、楠ですか。我が名と同じ名の木の葉でなくて何よりです」
「…っ」
道臣は思わず足を止めかけ、…慌てて平静を装ってまた歩を進める。
「…え?」
千尋は不思議そうに柊に向かって首をかしげ、柊はそんな千尋を見て微笑む。…二人とも
気付いていない、はずだ。
「柊も常磐木で、この時期に葉を落とすのですよ。…けれどあの葉には落ちて枯れてもな
お鋭い棘がありますから、もしも陛下の肌に触れればその身を傷つけていたかもしれませ
ん。…楠でようございました」
「柊もそうだったの。…思いつきませんでした。…ね、道臣さん」
呼びかけられた。さすがに心の準備が出来ていたので、道臣は静かに、ええ、とうなずく。
…柊は不思議な色の眼差しで道臣を振り返った。
「楪に、樫、椎の木に、モ、……モ……」
「モッコクですよ、陛下」
あくまで平静と穏やかを装って、道臣は指摘する。そうそうそれそれ、と千尋が手を打っ
てうなずいたとき、一行は執務室の前にたどり着いた。さあさあと手を取らんばかりにし
て担当の采女に招じ入れられる千尋を見届け、自分の持ち場へ戻ろうと道臣がきびすを返
しかけたとき、
「道臣」
名を呼ばれた。
「……柊」
何気ないそぶりで道臣は笑う。
「あなたは同席しないのですか?」
「師君ならばともかく、狭井君のお呼び出しではね。何かと藪蛇になりかねません。…諸
国からの竹簡の整理に行くのでしょう。お供しますよ」
「助かります」
肩を並べて歩き出す。…柊はすぐに、
「常磐木落葉、ですか」
ぽつりとつぶやいた。
「そういえばそんな言葉もありましたね」
「……ええ」
「樫、椎、楠……。……木犀もそうですね。楪、木斛…」
数え上げ、柊はふと、道臣の目をのぞき込んだ。
「…木斛を思い出して柊を思い出さぬとは、博識のあなたらしくもないことです」
「…とっさのことですから」
さらりと言ったつもりだったが。
「本当にそうですか?」
そう問う柊の声は、既に何かを察している声だった。察して、敢えて問うている、問われ
ている。…そう思った。
「道臣。あなたは柊も常磐木落葉であると、思い出していたのではありませんか?」
隻眼にもかかわらず、内心を暴くように射抜いてくる視線に、道臣は心を隠すことを諦め
た。元より彼に何かを隠しおおせたことなど一度もない。
「…ええ。…途中で思い出しました」
「なぜ、数え上げなかったのです?」
「……後から思い出したので」
「……」
柊は何も言わない。道臣の答えのその先を待っている。道臣は小さくため息をついた。
「……上げれば、あなたを連想してしまうでしょう」
「……」
「……あなたを常磐木落葉になぞらえてしまいそうで、…怖かったのです」
宮はようやく落ち着きを取り戻した。政も、戦時の後始末から、平時の営みへと移り、民
は働き土地は肥え、新たな命が芽吹くように新たな集落が立ち上がり。
「新緑の輝きを見届けて私が消える。…そう思ったのですね」
「……」
柊に指摘され、今度黙りこくるのは道臣だった。
「そうなのでしょう、道臣」
「……」
「……道臣?」
「誘われても、口にはしませんよ、柊」
「……」
柊は眉をひそめたが、その唇には愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「言霊を自ら作り出したくはありません」
口にすれば、それが形となって力を得る。言葉とはそういうもの、言霊はその力そのもの
だ。道臣のきっぱりした口調に、柊は笑みを含みつつ少し残念そうな顔をした。
「…私は本当に消えてしまいたいのですよ、道臣」
かすかにうつむいて、道臣は唇を引き結んだ。決して何も口にすまい、……そう誓うよう
に。
「…本当に、消えてしまいたいのですよ」
「……」
道臣の眉間が震えた。軽い口調で話してはいるが、柊が心からそう願っていることは痛い
ほど伝わってくる。それを許せない自分に罪悪感すら覚える。道臣は必死で自分に言い聞
かせた。…これは己の狭量ではない。…柊がここにあることは、まだ時が、神が、定めた
ことだ。陛下も師君も望むことだと。
「……顔を上げてください、道臣」
柊がため息をついた。促されるまま道臣は顔を上げる。…柊は疲れたような顔で、…それ
でも笑っていた。
「そんなに辛そうな顔をしないでください。さすがの私も胸が少々痛みます。…いじめす
ぎましたね」
「…」
「ご心配には及びません。…私はまだ消えませんよ」
「……柊」
それは本心だろうか。それとも道臣を思いやる偽りだろうか。
「常磐木落葉は時を知るものです。…いつか自然とその環境が整うもの。それが整わぬと
いうことは、今はまだ、その時期ではないということなのでしょう。……案外、時を待つ
内に老いて、老臣は用済みと宮をたたき出されるまで、私はここにしがみついているかも
しれませんよ」
「……それは、いいですね」
道臣がほろり笑うと、柊は顔をしかめた。
「いいですか?…そんな引き際はみっともないではありませんか」
「みっともなくなどありません。…持てる能力の限りお仕えして、使い果たして消えるの
は、美しいことだと私は思います」
「……」
柊は瞳をすがめた。
「…なるほど。…そういう考え方にも一理ある」
…それから薄く笑って肩を小さくすくめて。
「ならばこの力、絞り尽くしましょう。…あなたと共に」
柊は、ぽんと道臣の肩を叩いた。
「……行きましょうか。…我らの葉が木に留まる限り」
「ええ」
ゆるりと肩を並べて歩き出す。
回廊に囲まれた静かな庭は、萌え出づる緑に光り輝いていた。