蜻蛉

神は、正確には神の御使いは、様々な姿を取って人の前に現れる。
人に何かを伝えたいなら、人の姿になってくれてもよさそうなものだが、何故かそういっ
た例はあまりなく、獣の姿を取って現れることが多い。
蛇、鹿、猿、白鳥、鷺、猪、狐、山犬、亀…。
獣の姿を取って人前に現れた神の御使いを、ただの獣と見分けるのはたやすいことではな
い。だからこそ、神を見分ける審神者の力を持つ者は敬われ、政にも重用される。ただひ
とにはおいそれと出来ぬ技なのだった。

その日忍人は、師君の屋敷の庭を掃いていた。
朝の内は書庫で道臣の竹簡整理の手伝いをしていたのだが、仕分けをする道臣は、竹簡を
読んだり分類を考えたりと頭を使うが、仕分けを待って棚に運ぶだけの忍人は退屈で仕方
がない。うっかりと欠伸したところを道臣に見つかり、
「待たせて申し訳ないですから、しばらく庭を掃いてきてもらえませんか。戻ってくる頃
にはもう少し作業を進めておきますから」
と、すまなそうに頼まれてしまった。
秋の庭は、小さいながらも様々な花が咲いて風情がある。吹き渡る風も心地いい。枯草に
ほうきが絡むことに閉口しながらも、調子よく忍人がはきすすめていると、ふと、眼前を
何かが横切った。
「…?」
目で追うとそれは、蜻蛉だった。秋によく見かける赤い蜻蛉ではなく、銀色に光る目と羽
根を持つ、大ぶりの蜻蛉だ。
常にはないことだが、忍人の子供らしさがむくむくと頭をもたげた。
忍人はいつも、年かさの兄弟子達の間に交じって大人ぶっているが、実際は十を少しばか
り出ただけの子供だ。珍しい色の、大きな蜻蛉を捕まえたいという欲求がふいに熱のよう
に忍人を襲った。
ほうきをそっと放り出す。蜻蛉はついついと飛び回っているが、なぜか中庭から出て行こ
うとはしない。
夏に美しく咲いていた紫陽花が、葉を落とした枯れ枝をすっと伸ばしていた。そこにふわ
っと蜻蛉がとまる。
そろりそろりと近づこうとしたときだ。
足元でぱしっと乾いた破裂音がして忍人ははっと我に返った。見ると枯れ枝が折れている。
先ほどの音はこれを忍人が踏み折った音だったらしい。
…足元を見て蜻蛉から目がそれると、不意に疑問がわいて出た。
投げ出されたほうき。終わっていない掃き掃除。
確かに珍しい色の、大きな蜻蛉だ。だが自分は、頼まれた仕事をおろそかにしてまで、虫
取りに熱中するような性格だったろうか?
……あの蜻蛉は、…何だ?
そのとき、
「忍人!」
鋭く誰かが名を呼んだ。
振り返ると、珍しくも血相を変えた柊がそこに立っていた。
「こちらへ」
兄弟子に手招かれるままふらふらと近寄ると、つい、と蜻蛉は舞い上がり、さっきまでは
どうしても出て行かなかった中庭から出て行ってしまった。
「………」
とたん、がくりと柊の肩から力が抜ける。
「…柊」
おずおずと名を呼ぶと、柊はどこか疲れた顔で忍人を見て、やんわり笑った。
「…君が聡い子で、本当に良かった。…無事で何より」
「……?」
あの蜻蛉のことだろうとおおよその想像はついた。だが、いったいあの蜻蛉は何だったの
だろう。
どう聞けばいいのかと躊躇していると、柊の方から説明してくれた。
「あの蜻蛉は、神の御使いです。…神の求めに応じて、人の魂を泉下に運ぶために現れた
のですが、ついでにもう一つ二つ魂を集めようかと思ったようだ」
…ぎょっとした。
忍人の表情を見た柊はにやりと笑う。
「大丈夫ですよ。…君で失敗したのでもう懲りたのでしょう。…無事、泉下への道をたど
っていきました」
遠くを見る眼差しで思い出す。この兄弟子は審神者の力があった。それ故この師君の屋敷
だけではなく、時折狭井君の屋敷にも通ってなにやら学んでいるらしい。
…しかし。
「…あれが、…神?」
「神の御使いですよ」
「…謂われもなく、人の命を奪うような存在が?」
柊は笑った。ほろ苦い。
「…神というものは、人がそうであってほしいと願うほどには、慈悲深くも優しくもない
のです。もちろん、人を助けてくれることもある。けれどそれはあくまで神の事情でそう
するのであって、人の事情は考えてくれません。…神の理屈は人の理屈でははかれない」
ある種暗澹たる言葉だった。
「畏れ敬って、触れない。…本来、神とは、そのように対するべきなのかもしれません」
だがしかし。
己の国の建国以来の歴史を思い浮かべ、忍人は首をかしげる。
「それは、龍神もか?」
「……というと?」
「龍神は神子の望みに応じて助けの手をさしのべてくれるのではないのか?」
「……」
柊は一瞬黙り込む。その右目がちかりと光ったような気がした。忍人は自分の目をこすっ
て改めて柊の顔をのぞき込んだが、そこにあるのはいつもの柊の、静かに表情の薄い顔だ
った。
「…と、言われていますが、あいにく、どんなに強力な審神者の力を持っていても、龍神
とは対話できないとされています。龍神と心を交わすことが出来るのは神子だけだそうで
すから、……龍神がそのように心優しい神かどうかは、神子である女王陛下しかわからな
い。……先生ですらわからないはずです」
柊は遠い目をした。
「……優しい神であってほしいと願いますが、……私の知る限り、強力な神は皆荒ぶる神
だ。龍神が例外だとは思えません」
それから、忍人を改めて見下ろして、しー、と指を唇に当てた。
「…私がこんなことを言ったことは、誰にも内緒ですよ」
「わかってる」
ある意味、国体を揺るがすような発言だ。それをうかうかと他人に口にするほど忍人は愚
かではない。…無論、柊もそれをわかっていて、あえて口を滑らせたのだろう。
「ああ、ほら」
柊はころりと声を変え、忍人の嫌いな、子供をあやすようなからかうような声色で、ふと
空を指さした。
「また蜻蛉が来ましたよ」
びくりとして指された方を見れば、赤い蜻蛉がついついと、空を自由に飛んでいる。
「あの蜻蛉ならば安全ですよ。さあ、好きなだけ捕まえてください」
「…頼まれて仕事をしている最中に、そんなことはしない」
むっつりと応じると、君は真面目ですねえ、と、また忍人をむっとさせる口調で笑いかけ
てくる。どうせ道臣からの言いつけでしょう。彼は優しいから、幼い君が少しくらいさぼ
っても何も言いませんよ、などと勝手なことを付け加えるので、忍人はいらいらと唇をと
がらせた。
「柊こそ、今日の仕事はどうした。…確か今日は、狭井君の屋敷の方へ向かったと聞いて
いたが」
「今日の仕事はもう終わりました」
「…終わった?」
柊がおやおやと眉を上げ、苦笑した。からかうものではなく、優しさが勝っている。
「私が何故こう都合良く君の元に現れたのか、不思議に思いませんでしたか?……私はあ
の蜻蛉を追ってここに来たのですよ」
忍人は、あっと声を上げた。
「あの蜻蛉を見かけた狭井君が、普通の御使いにはない危うさがあるとおっしゃるのでね。
取り越し苦労ではないかと思いながら、しぶしぶ言われたとおりにしたのですが」
そこで柊は言葉を切り、低くつぶやく。
「…狭井君の仰ったことは正しかった。…私には遠くは見えても、目の前のことは見えて
いない」
「……柊?」
意味がわからない。
首をかしげる忍人に、柊はもう一度笑いかけた。
「……何でもありませんよ」
そのまま、どこかふわふわと空に浮くように歩いて庭を出て行く柊を、忍人はじっと見送
った。……見つめ続けていないと、ふいと消えてしまうのではないか、…そんな奇妙な不
安が胸に凝って、柊が確かに回廊を抜けて行ってしまうまで、目が離せなかった。
「……」
忍人はため息をついた。ふと見る己の手の小ささ、兄弟子が心の深みによどませる闇を読
み切れぬ未熟さに唇をかみ、けれども昂然と顔を上げる。
遠くは見えずとも、目の前は見えるのだ。目を閉じてはいけない。足を止めてはいけない。
今は出来ない。だがいつか、彼の闇を払える自分になれるように。前を見て。逃げない、
見逃さない。
静かな庭に吹く風が、小さな決意を後押しするように背中を押して過ぎていった。