遠い声を抱きしめて


君に、嘘をついた。

「…ごめん。…駄目だと聞いたから、予定を入れてしまった」
……俺は、すまなそうな声が出せただろうか。
「そうなん。…ま、しゃあないか。先に断ったん、こっちやしな。…ほな、今回は都合合
わんかった、いうことにしとこか。また次の機会に」
蓬生は、最初の一瞬こそ残念そうな声を出したが、あとは意外とさばさばした様子であっ
さりと電話を切った。


「……」
大地はごろりとベッドに転がった。
部屋の中はしんと静まりかえっている。日曜日で、両親は珍しく二人で出かけてしまった。
モモは昼寝をしているようだ。家中が午睡しているような昼下がり。
机の上には、今度行われる学会に必要な資料が積んである。読もうかと手を伸ばしかけて、
やめた。今、学会のことを考えようとすると学会以外のことで頭がいっぱいになってしま
って、資料の内容が頭に入ってこないだろうと思ったのだ。
手の中の携帯電話を、少し見つめる。

関西で行われるリハビリテーションの学会に参加することが決まったとき、真っ先に浮か
んだのは蓬生の顔だった。日中は終日会議場にいなければならないが、夜の懇親会に教授
のおつきのそのまたおつきのような立場の大地がいなくても何の問題もない。学会が終わ
った後は、自由に時間が使えるはずだ。
しかし、喜び勇んで神戸に電話した大地を迎えたのは、
「ごめん」
というあっさりした謝罪だった。
「その日、千秋と先約がある。…会社の関係やから、ちょっと」
学生の間に起業した東金は、蓬生を片腕に、自分のビジネスを推し進めていた。他にも部
下はいるだろうが、一番信が置けるのはやはり蓬生なのだろうし、蓬生自身も片腕とみな
されていることを喜んでいるのは知っていた。
そのビジネスの上でのことなら、時間を作れなくても仕方がない。…そうは思いつつも、
せっかく近くに行くのにと思うと、あっさりと引き下がるのも少しつまらなくて。
「…夜遅くでもかまわないけど」
もう一押しだけ、と言葉をかける。
「……」
やや、蓬生は逡巡したが、
「…やっぱりあかんわ。…時間の確約が出来へん。待たせたあげくに行かれへんとなった
ら、大地も気ぃ悪いやろ」
きっぱりと言われてしまっては、それ以上押しもならず。
「…わかった。…しかたないね」
素直に引き下がったのは一週間ほど前だったと思う。

それきりになる話だと思っていたのに、さっき、突然蓬生から電話が入った。
「予定、変えることできたから」
あっさりと言われて。
「会お?」
誘われて。…震えるほど、うれしかったのに。
「………ごめん。…駄目だと聞いたから、別の予定を入れてしまった」
気付いたら大地はそう口走っていた。
それは、子供のような意地だった。
以前あっさりと迷いもなく断られたことが、心に根を張っていたのだ。
ビジネスで、しかも先約なのだから、蓬生がそちらを優先するのは当然なのに、東金の名
前を出されたことが、大地を物わかりの悪いわがままな子供にしてしまっていた。いろん
な味の飴がたくさん入った缶を持っているのに、もうなくなってしまった味の飴を欲しが
るような、そんならちのない、本当に子供っぽいわがままで。
そんなこと言わんと、と、もう一言言ってくれるかと思っていた。だが、蓬生はあっさり
とひいた。…当然かもしれない。元々予定が入っていたのだ。大地が駄目だというなら、
元々の予定を優先するまでだろう。
どうでもいい無意味なこだわりで、せっかくの機会を無にしてしまったようで、電話を切
ってから大地はだんだんたまらない気持ちになってきていた。
どうしよう。やはり自分も予定を変えたと電話しようか。それとも、今回は本当に運が悪
かったと諦めるか。
何故あんなバカな嘘をついてしまったんだろう。…何に我を張っていたんだろう。
携帯を目にするのも辛くて、放り出そうとしたときだった。
不意に、携帯がまた着信音を響かせる。肩をびくつかせ、サブウィンドウを確認して、大
地ははっとした。

−…蓬生だ。

震える手で電話に出る。
「…もしもし」
「もしもし」
恐る恐る声を出す大地と違い、電話の向こうの蓬生は冷静で、きびきびと、
「そろそろ頭冷えて、気ぃ変わった?」
と、言った。
「……!」
息を呑む大地に、ふ、と笑う声がした。
「…予定入れたなんて、嘘やろ。…大地かて、俺に会いたいはずや。…せっかくの関西や
し、もしかしたらがあるかもしれん。予定なんか入れるはずない。……やろ?」
「……な」
「それにもし、ほんまに予定いれてたとしても、大地は絶対また予定あける。…俺に会い
たいから」
「……っ」
自信に満ちた蓬生の言葉に、大地は息を呑んだ。その鋭い呼気が聞こえたのか、蓬生はま
た喉で転がすような笑い声をたてた。
「…あんな、大地。…あの日、電話切ってから、俺も後悔してん。…予定なんかなんぼで
も変えられる。変えたらいいのに何で、あんなきっぱり断ってしもたんやろ、って。…俺
かて大地に会いたいのに、そない会いたくもないんかって思われたらどないしようって」
「……」
「せやから、必死で日程調整してんで。向こうの方が立場強いからちょっとやばかったし、
結構苦労してん。……お子様がちょっと拗ねたくらいで、この苦労を無にしたないわ」
「……」
「…嘘とかほんまとか、どうでもいい。ほんまにのっぴきならん用事がその後で入ったん
かもしれん。……せやけど、何時になってもいい。5分しか時間とれんでもいいから。…
…会お」
いたたまれなくて、大地がひたすらに唇を噛んでいると、低い声がねだるようにそっとつ
ぶやいた。
「…な。…何か言うてや」
その優しい声に押され、大地は呻くように洩らした。
「……嘘を、ついてごめん。……俺も、会いたいよ。………会おう」
「やっぱり嘘やった」
くつくつと喉で音を立てて蓬生は少しだけ笑い、せやけどまあ許したるわ、とつぶやく。
「大地がこんなふうに拗ねるん、初めてやし。……いつもいつも物わかりがよすぎるくら
いやから。……たまには、な?」
次はないでと笑う声が優しくて、自分を甘やかしているようで。…大地は遠い声を抱きし
めるように、耳に強く携帯電話を押し当てた。