遠いさざ波


たった一夏、一月にも満たない時間を共に過ごしただけで、しかも顔を突き合わせればお
互い憎まれ口ばかり叩いていた、……そんな相手を何故こんな風に、無性に懐かしく思い
出すのだろう。

−…きっと、こんなところにおるせいや。

蓬生は窓の下の賑わいをぼんやりと見下ろして、小さくため息をついた。
春節の南京町はひどく混み合っていた。
普段も、屋台が店の軒先を埋めて道幅を狭くしているところへ多くの人が訪れるものだか
ら、土日ともなれば歩きにくいことこの上ない通りなのだが、今日はそこに獅子舞が練り
歩いていたり、いつもとは違う街のにぎわいを目に焼きつけようとする観光客がどっとく
りだしたりで、芋を洗うような混雑だ。
いつもの蓬生なら絶対にこんな日にこんな場所には近寄らない。だが、今日はやむを得な
い事情があった。
神南の理事の一人が南京町の世話役で、春節の出し物の一つとして千秋のヴァイオリンで
中国の歌曲を弾く催しを開きたいとオケ部に申し入れてきたのだ。
千秋は既に高校のオケ部は引退しているが、このまま大学部へ進学し、大学のオケ部にも
身を置く予定だ。申し入れてきた相手はいつも何かと便宜を図ってもらっている人物だし、
他でもない、全国学生音楽コンクールで一位を取った千秋でなければその演目を出す意味
がないとまで言われればむげにも断れない。
結局、あまりたくさんの曲を練習する時間は取れないが、二〜三曲なら、という条件で、
千秋は演奏会への出演を了承した。
そして、千秋が演奏しに行くなら、一緒に弾くにせよ弾かないにせよ、蓬生が同道しない
わけがなく。
……という経緯で、蓬生は今、南京町のメインストリート沿いにあるビルの三階で、ごっ
た返しうごめく人の頭を見下ろしているのだった。
ここは一〜二階が中国雑貨店になっている、神南の理事の持ちビルだ。演奏はここから少
し離れたところにある小さな広場で行うことになっている。
千秋は元々演奏会までの待ち時間に春節を楽しむ気満々で、打ち合わせがすむやいなや意
気揚々とこの人混みの中に突入していったのだが、蓬生は、見るだけでも人酔いがしそう
だったので同道を遠慮し、千秋に与えられた控室であるこの静かな部屋に逃げ込んできた
のだ。
「……」
ぼんやりと窓の外を見下ろしていた蓬生は、ふと心づいて、眼下の景色を携帯のカメラに
おさめ、ある人物の元へ送信した。
別に何か特定の意図があったわけではない。こんな角度で南京町の街並みをカメラにおさ
める機会はあまりないから、相手にとっても珍しい眺めだろうと思ったのが一つ。…もう
一つは、勉強勉強で息抜きも満足にしていないかもしれない彼に対して、自分はのんびり
と春節を満喫している風を装い、うらやましがらせたいという、ほんの少し意地悪な気持
ちからの思いつきだった。
どうせ目を三角にして忙しくしているだろうから、夜にでものんびり返信が返ればいい、
いやいっそ返らなくてもいい。……蓬生としてはそれくらいの気持ちだったのに、相手か
らの反応は思いの外早く、しかも思いがけない形で返ってきた。
「……?」
蓬生の携帯が震えたのは、メール送信してから数分とたたないうちだった。
いくらなんでも返信が早過ぎちゃうん。ちゃんと勉強しとんか?等と思いながら蓬生が携
帯を見ると、震える携帯はメールではなく電話の着信を示していた。
「……!?」
蓬生が慌てて受話ボタンを押すと、
「…しもし、……岐?」
電話の向こうは騒がしく、相手の声がほとんど聞き取れない。
「後ろうるさい!今どこなん!?」
つり込まれるように、蓬生はいつもの彼らしくない大声で電話に向かって話しかけた。
「あ、ごめん。…これでどうかな」
少しは遠ざかったが、まだざわざわとうるさい人々のざわめきをBGMに、のほほんとし
た声が、
「やあ、久しぶり」
と笑う。
そのどこか余裕を含んだ声に、いらいらと安堵を同時に感じ、蓬生はそっと唇を噛んだ。
…もっとも、電話の相手にそんな蓬生の感慨が伝わるわけもなく。
「メールありがとう、びっくりしたよ。土岐も春節を見に行ってるんだ。奇遇だな」
大地はのんびりとした声でそう話を続けた。
「……奇遇?」
どういう意味だ。蓬生が語尾を上げて言葉に疑問を含むと、
「俺も今春節を見に来てるんだよ。神戸のじゃなくて横浜のだけど」
呑気な声はそう答えた。
「………」
蓬生は一呼吸分考えてから、
「……。ちょお。そこの受験生」
地を這うような声を出す。
「勉強は」
「息抜きくらいさせてくれよ」
電話の向こうで大地は苦笑している。
「そんなこと言うて、ずっと息抜きなんちゃうん」
「ひどいなあ、そんなことないよ。センター試験がやっと終わって、私立大の入試が本格
化するまでの間の、ほんのわずかな休息だよ。……もっとも、いつもだったら春節の時期
の中華街なんて遠慮するんだけどね。今年はひなちゃんが見たいって言うから。…律はこ
ういうこと、てんで頼りにならないから俺が駆り出されたってわけ」
「……」
律やかなでと一緒なのかと、蓬生は少し驚いた。
「電話してる場合やないやん」
「え?」
「ほっといたらあかんやろ。如月くんも、小日向ちゃんも」
「ああ。…いや、いいんだ、今は。…あの三人で、実家に送る菓子を品定めしてるところ
なんだ。意見がバラバラで、ちっとも決まらなくてね」
はは、と笑う声が軽やかで、蓬生はつり込まれるようにして微笑んでいた。
「…目に浮かぶわ」
「だろ?……それにしても、そっちこそ」
「は?…そっちこそ、て」
「およそ春節の人混みに好きこのんで突入していくタイプとは思えないんだけど、…どう
して?」
……ああ。
「千秋がな、演奏するんよ、今日。南京町で」
「……それはそれは」
大地は少し驚いた声で、何に驚いているのかと思ったら、
「いいのかい、東金を放っておいて、俺と電話なんかしてて」
と言うので、蓬生は小さく笑ってしまった。

−…同じこと、考えとう。

蓬生の心の中など知るよしもない大地は、彼の笑い声に一層驚いた様子だ。
「…何。俺、何かおかしなことでも言ったかい?」
「いいや。……別に、俺が千秋を放っといてるわけやないよ。…千秋の春節見物に、俺が
ようおつきあいせんだけや。放っとかれてるのは俺の方や。せやから、暇つぶしに君にメ
ールしてん」
「……。……そうか」
大地はなぜか噛みしめるような声音でそうつぶやき、小さくため息をついた。
「…榊くん?」
「…ん?」
「今のため息。…何や?」
「…ああ、うん、……何というか」
はは、と、…大地はまた笑ったが、今度の笑いはどこか寂しい。
「…いつも一緒にいるって、そういうことだよな、と思って」
「……?」
「……東金は、少しくらい離れたって、すぐまた君に会える」
「………」
「………俺は、……そうじゃない」
蓬生は、胸の奥深いところで何かがぐっと締め付けられた気がした。
「……会いたいな」
大地はぽつりと、雨のしずくが地面にしみこむような声で言った。
「会いたいよ。…土岐に」
「……」
返さなければならない憎まれ口が、からかう言葉が、出てこない。
土岐は、こみ上げてくる何かを押しとどめるように口を必死で押さえていた。

−……ずるい。ひどい。

…大地は、会えば、かみついてきたり憎まれ口をたたいたりするくせに、会えないときの
電話の声ばかり、こんな風に甘くて切なくて、いてもたってもいられない気持ちにさせる。
……俺も、今すぐに会いたいと、口走ってしまいそうになる。

「……土岐?」
黙り込んだ蓬生を不審に思ったのか、大地が、少し気遣わしげな優しい声で、そっと名前
を呼びかけてきた。
「…どうかしたかい?」
「…。いや、別に」
一呼吸で気持ちを整えて、蓬生は素っ気なく言った。
「君がえっらい殊勝なこと言うから、気色悪、て」

−…ああ。…ああ、ちがうのに。本当に言いたいのはこんな言葉ではないのに。……本当
は、自分も会いたいと、…素直にそう言いたいのに。

ははは、と、電話の向こうの暖かい声が、少し寂しそうに笑った。
「気色悪い、か。……辛辣だなあ、相変わらず」
「…なあ、榊くん」
これ以上この会話を続けたら、たまらなくて新幹線に飛び乗ってしまいそうで、……蓬生
はきっぱりと首を振った。
「そっちの春節の写真も、携帯で撮って送ってくれへん?……一枚でええわ」
「ん?…いいよ、了解。……ああ、ちょうどみんなの買い物が終わったみたいだ。…じゃ
あこれで」
「ほなら。…小日向ちゃんに、よろし言うといて」
「律と響也には?」
「適当に言うといて」
「ははは」
わかった、じゃあまた、と終わった電話を、蓬生はどうしても自分からは切れなかった。
しばらくじっと耳に押し当てて余韻を探す。けれど何も聞こえない小さな機械にむなしさ
だけがつのって、のろのろと蓬生は電話を切った。
…とたんにまた、携帯が震え、メールの着信を知らせた。
届いたのは、何のキャプションもない一枚の写真。
賑やかなその通りは、自分が今見下ろしている場所にとてもよく似ている。
…遠く離れているのに、よく似ている街。……よく似ているのに、とても遠い街。

−…俺らみたいや。

よく似ているから反発しあう。反発しながらも惹かれている。会えば憎まれ口の応酬なの
に、会わずにいると思いが募る。

−……会いたい。

蓬生は携帯に送られた写真をもう一度じっと見つめた。
撮影者なのだから、写っているはずもない人を、その画面に捜している自分にふと気付い
て、蓬生は苦く笑う。
冷たい液晶にもう一度耳を近づけると、彼の穏やかな笑い声がさざ波のように寄せてくる
気がした。