屠蘇

新年を迎えると、宮中では様々な行事が行われるが、その中の一つに屠蘇献呈があった。
女王の長寿を願い、延命に効くとされる薬を調合し、捧げるというものだ。
遠夜の張り切るまいことか。
「狭井君が反対したんだって?」
表向きの儀式的な政には首をつっこまないと決めている那岐が、忍人に問うた。…将軍は
もちろん、真面目に日々政務にも参加している。
「反対したというか、…遠夜に薬を調合させるのはかまわないが、自由にやらせるのでは
なく古式に則ったものを調合させるべきだと」
「…で、千尋はそれに逆らったと」
「ああ」
遠夜の好きなようにやらせてあげたいの。
千尋はにっこり笑ってそう言った。狭井君もしつこくは反対しなかった。何しろ、初めて
の正月を迎える千尋には、覚えなければならないしきたりや段取りが山のようにある。些
細なことでいちいち議事を滞らせていては話が進まない。屠蘇献呈自体を取りやめる云々
という話ならともかく、その中身をどうするかまでは細かく争うことではないと彼女も思
ったのだろう。
「…で、なんで忍人はそんな顔してるわけ」
那岐は寝台にあぐらをかいて、そのあぐらに頬杖をついている。冬になったら床は寒い、
と言って、部屋にいるときはいつも寝台の上だ。下手をすると一日寝台から降りないこと
もある。…要するに、寝っぱなし。
「そんな顔、とは」
対する忍人は、那岐を見下ろして床に立っている。彼が人前でだらしない格好をすること
はまずあり得ない。たとえ相手が那岐一人であろうとも、だ。
「なんか、…しぶい顔?」
那岐がそう指摘すると、忍人はしぶい顔を苦笑に変えた。
「まるで、狭井君の代わりに遠夜の調薬に反対してるみたいだ」
「…遠夜が調薬することに反対するわけじゃないんだが」
忍人はかすかに嘆息した。
「遠夜がひどく張り切っているのが気になって」
「張り切ったら何がまずいの」
那岐が首をひねると、忍人はぽつりと言った。
「味が」
・・・・・。
その一言に、那岐も微妙な顔で続く言葉を飲み込んだ。
忍人は、遠夜の薬に助けられる機会が多かった。その彼に言わせると、遠夜の薬は効き目
最優先で、匂いや色や味は二の次三の次なのだそうだ。
無論、重病に苦しむ人間や、痛みを一刻も早く止めたい人間は、味や匂いなどどうでもい
いだろう。体が楽になるのなら、どんな不味い薬でも飲むはずだ。実際忍人も、…まあ彼
の生真面目さもあってだろうが、遠夜が出してくるどんな薬湯でも飲み干していた。
そのどんな薬湯でも飲んだ彼が、言う。
「…遠夜の薬は、本人が張り切れば張り切るほど、すごい味になる傾向がある、ような気
がする」
…言葉に重みがあるなあ、と那岐は微妙な顔のまま頬をかいた。我慢強い彼がすごい味と
いうからには、よほどの味だろうと思う。
忍人は那岐の表情を見て、今度ははっきりと笑った。
「すまない。気にしないでくれ。…どうでもいいことだ。俺が不要な心配をしているだけ
だ」
細められた瞳がふと、那岐から離れて窓の外を見た。
小寒を過ぎ、もうすぐ新年を迎えようかという時期だというのに、不思議なほど暖かい日
だった。陽気に誘われてか、小鳥の声も多く聞こえる。餌でも探しているのだろう。
「こういうどうでもいいことを心配していられる日々というのは、…いいものだな」
那岐は忍人の横顔を見た。ひどく柔らかかった。…一年前の彼は、どれほど戦いから離れ
た場であっても、こういう表情は見せなかった。頬の線はもっと険しくとがり、唇は常に
きりと引き結ばれていた。
那岐も、忍人の横顔から視線をそらして窓の外を見た。
澄んだ空気と青い空。日光の白さに彩られた冬枯れの木々。枝や地面を飛び回って餌を探
す小鳥たち。優しい暖かい小春日和の情景だが、しかし、彼の表情を和らげているのは、
この窓外の景色ではないだろうと那岐は思う。
「千尋、ちゃんと薬を飲めるといいけどね。…僕は、屠蘇献呈の儀式には不参加だからよ
く知らないけど」
わざとらしく名を出すと、忍人の肩が少しだけぴくりと反応した、気がした。…もちろん
那岐の気のせいかもしれない。
「あいにく、俺も不参加だ。…陛下と遠夜の他は、狭井君や陛下付きの采女が参加するく
らいだろう。比較的内輪の行事だから」
だから余計に心配なの?と聞いてやろうとして、やめた。
真面目な将軍をからかうのも楽しいが、あまり休息を取らない彼と、のんびり小春日和の
中庭を眺めている方がもっと楽しい。
いい天気だ。

四方拝に始まる新年の儀式は、ほぼ滞りなく済んだ。忍人の主な役務は公的な行事への参
列と、人が増える宮中の警護だったが、いずれも過怠なく終わった、と思う。
冬の日没は早い。まだ薄暗い程度だったが、既に篝火が灯されている中庭を、忍人が内廊
の方へ突っ切っていると、内廊の柱の影から呼ぶ声がした。
「…忍人さん」
静かな声に、ひた、と忍人の足が止まる。
この宮中に、忍人をそう呼ぶ人間はほとんどいない。あの戦いの仲間なら呼び捨てにする
か、殿付けで呼ぶ。そうでない者たちには葛城将軍と呼ばれている。
忍人を、忍人さん、と呼ぶのは宮中でただ一人だ。
「…陛下!」
柱の影にいた少女は、しいっ、と唇に人差し指を当てた。
「何故ここに」
思わず忍人も小声になる。
「もう自室に引き取ったものだと」
新年の行事は早暁から始まり、延々と続く。それが一日では終わらない。そのため女王の
疲れが出ないよう、日没と共に行事を終えて陛下を休ませるようにすると狭井君は言って
いたのだが。
「大丈夫、もう仕事はおしまい。…おしまいだから、忍人さんを捜しに来たんです」
「人に呼びに来させればいいものを。…君が自ら俺を捜すことはない」
「だって内緒だもの」
「…?」
内緒?と忍人が首をひねると、千尋はふふっと笑って、片手に隠すように持っていた小さ
な器を差し出した。首の細い瓶の形をしていて、口を布で覆われている。
「…これは?」
「遠夜のお屠蘇です」
思わず忍人は気の毒そうな顔で千尋を見た。
「…飲めなかったのか?」
その言葉に千尋は目をぱちくりと見開いて、それからぷっと吹き出した。
「忍人さんてば、ほんとに遠夜の薬の味を信用してないんだから」
思わず忍人はあらぬ方を見た。…それは陛下が、遠夜の本当にものすごい薬を飲んでいな
いからだ、と思ったが、口には出さない。
「大丈夫、儀式で出されたお屠蘇はちゃんと全部飲みました。ものすごくおいしい、とは
言えないけど、普通に飲める味でしたよ」
言われて、忍人は千尋が差し出している小瓶を見下ろした。
「…では、これは?」
「…実は、遠夜に頼んでおいたんです。…忍人さんにも飲んでほしいから、内緒でもう一
つ作って、って。…狭井君が聞いたら、屠蘇献呈は王のための儀式で、臣下に与える物で
はありません、ってうるさく叱られそうなので、秘密にしてくださいね」
ああ、それでこそこそしているのか、と、ようやく忍人は千尋のそぶりに納得がいった。
なるほど、狭井君なら言いそうだ。
…が、しかし。
「…何故、俺に」
千尋は一瞬、笑うべきか困るべきか、という顔になった。最初は困り顔が勝っていたが、
やがてあきらめたように笑う。
「屠蘇は長命の薬だというから。…だからあなたに」
静かな言葉に少し押されて、押しつけられた小瓶を忍人は受け取る。受け取るときに偶然
のように触れた手は、ほっそりと柔らかかったが、弓を引いてできたタコは消えていなか
った。
「おばあさんになっても、あなたにがみがみ叱られるのが私の願いだから」
「…変わった願いだな」
忍人が少し笑うと、そうですか?と千尋はまた困ったような笑顔になった。小さなため息
を一つつくと、拗ねたような上目遣いで、彼女はこう言い直した。
「ずっと一緒にいてね、って、…好きな人にお願いしているつもりなんですけど」
「……」
とがった唇からぽんと放たれた言葉を反芻して、ようやく忍人は口元を手で押さえて目を
そらした。耳が熱い。たぶん赤いだろう。おそらくは頬も。
…自分が鈍いことは自分でも認識していたが。
……鈍いにもほどがある、かもしれない。
「…陛下、……」
気恥ずかしさと申し訳なさで、とりあえず呼びかけて、…呼びかけたものの次の言葉が続
かない忍人を見て、千尋は笑った。笑って一歩近づく。
白い両手が、忍人の小瓶の持つ手をそっと押し包んだ。
「…お互いに年を取って、おじいさんおばあさんになるまで、…生きて」
ふと、声が途切れた。
自分の手を押し包む千尋の両手に、忍人は空いた手を重ねた。
「…生きて、…ずっと一緒にいてください」
かすかに震える声を、忍人は目を閉じて聞く。唇を開こうとして、自分の声も震えそうで、
慌てた。呼吸を一つ飲み込む。息を整える。
「…陛下の」
そうして口を開いて思わずそう呼びかけて。
…さすがに忍人は、かすかに笑って、言い直した。
「君の、それが願いなら。…喜んで、そのために努力すると誓う」
千尋は忍人を見上げて、小さく笑った。
「そうしよう、とは言わないんですね」
忍人は言葉に詰まって、…笑い返す。そうすると言いたいのは山々だが、自分の仕事が彼
女を守って戦うことである以上、絶対に長生きするとは言いかねる。
「忍人さんの馬鹿正直。石頭」
子供のようにぶつぶつ言う少女の背を、苦笑しながら忍人はそっと支え、押した。
「…もう休む時間だろう。…君の部屋まで送っていく」
「…仕事馬鹿」
悪口が一つ増えた。忍人は千尋を夜風からかばうように歩きながら、その最後の悪口には
反論する。
「仕事じゃない」
「…?」
見上げてくる蒼い瞳に、意趣返しの笑みを浮かべて。
「愛おしく思う人を、いたわっているだけだ」
きょとん、と丸くなった瞳がはっと見開かれた。みるみるうちに頬に朱が差し、耳の先ま
でその朱は広がった。
「…ずるい。…なんか、ずるい」
何がずるいんだ、と思ったが、…なんとなく自分でも少しずるい言い方のような気がした
ので、忍人は何も言い返さない。
ずるいずるいと言いつのる声と、律動的な足音は、ゆるりと内廊の闇の中に消えていった。