翼の秘密

その日那岐が堅庭に出ると、忍人がいつもの場所で空を見上げてぼんやり風に吹かれてい
た。今日は訓練ももう終わりらしい。
「…何か見える?」
そう言って隣に並ぶと、静かに笑っていいや、と答える。
「サザキがいないかと思って」
「…鳥?」
いつもかまわれて往生している那岐が、少ししかめ面を作ってみせると、忍人がおかしそ
うにくすりと笑った。そして、手に持っていたものをちょん、と那岐の手に載せる。
「…何これ」
菓子のようだ。
「カリガネがさっきサザキを捜しに来て、いないと言うと、無言でこれを置いていった。
試食しろということだと思うんだが、俺は甘いものはあまり得意でないから」
正しい感想は告げられない気がするから、よければ君が。
そう言われて、那岐はまじまじと菓子を見た。
丸くて、少し平べったい。形だけ見るとあれみたいだ。えーと、なんだっけ。…あ、そう
そう。
「…月餅」
「…は?」
那岐のつぶやきに、忍人が不思議そうに問い返した。
「僕と千尋がいた世界にあったお菓子に似てるなと思って。月餅って、中国のお菓子があ
って」
「…ちゅうごく?」
「こっちで言うなら、たぶん大陸ってことになるんだと思うよ」
そう言うと、忍人はかすかに目を伏せて、そうか、と静かに応じた。その穏やかで驚きの
ない表情を見ると、那岐は不意に聞きたくなった。
「…ねえ」
「…?」
「忍人はこの間夕霧の話をしたとき、彼が大陸の人間だとさらっと言ったよね。…ってこ
とは、前から大陸の実在を知ってた?」
忍人が眉を上げた。
「…明確にいつからとは言えないが、…そうだな、師君の元に入門する頃にはもう、何と
なく知っていた気がする。この世には、豊葦原以外の大地も存在するのだと」
「……」
考え込む顔になった那岐を慮ってか、忍人は静かな声でゆるゆると言葉を続ける。
「…まあ、うちは中つ国の政に昔から深く関わる一族だし、長である俺の伯父には子がな
くて、俺を跡取りにと目していた節がある。だから、通常なら伏せられているべき事柄も
開けっぴろげに話されていただけかもしれない」
そこで忍人はいったん言葉を切って。
「…那岐?」
呼びかけた。
「君は何を気にしている?」
無意識だろうが、左の親指の爪を噛んでいた那岐は、忍人に呼びかけられてはっと指を放
した。
「…忍人が仮に特殊事情だとしてもさ、…橿原宮では、子供でも、その気になれば知り得
る情報を、なぜ日向の民は誰も知らないのかと思って。…だって、サザキ以外の奴らは、
大陸のことを否定しているんだろう?」
那岐の言葉の途中で、忍人は何かが腑に落ちたという顔をした。那岐はそのことに気付い
て、勢いを得て言葉を続ける。
「日向の民だって、昔からずっと今みたいに閉じこもっていたわけじゃないはずだ。忍人
が子供の頃なら、今よりももう少し中つ国との関係は良かっただろう。ならば、日向の長
老たちは、大陸を見たことがないにしても大陸が実在することくらい知っていて当然なん
じゃないのか」
忍人がゆるりとうなずくと、長めの前髪が額にかかって彼の瞳を隠した。
「…そうだな、…知っているだろう」
瞳が見えないと表情も読めない。
「知っていて、知らないふりをしているんだ、おそらく」
那岐は眉をしかめた。忍人はちらりとその那岐の表情を見た。顔を上げたので、前髪に隠
れていた瞳が見えた。…彼は穏やかに笑っていた。
「…君は、…優しいな」
「…何、突然」
那岐が怪訝な顔をすると、忍人の笑みが深くなる。
「怒っているんだろう、サザキのために。…大陸などないと馬鹿にされたと聞いている」
忍人の言葉は図星を指したのだろう。那岐は無言で、少し厭そうにふいとそっぽを向いた。
照れ隠しが明確な仕草だったので、忍人も深追いはしない。
そのまましばらく、二人で黙りこくった。
風が吹いている。
…そういえば、日向の民は風が見えると言っていたな、と、忍人がぼんやり考えていると、
那岐がぽつりと言葉をこぼした。
「…どうして、知らないふりをするんだろう」
忍人は再び、穏やかに笑う。
ほら。…やはり君は優しい。
口に出すとまた拗ねるだろうから、その言葉は飲み込んで、かわりに那岐の問いに答えて
やる。
「戒め、なのではないだろうか」
「…いましめ?」
そう、と忍人がうなずくと、那岐は納得がいかない顔で眉間にしわを2〜3本寄せた。
「何のための」
「…失わないために」
「…うしなわ、ない?」
忍人は不得要領な那岐から視線をそらし、空を仰いだ。
空はどこまでもつながっている。
「日向の民には翼がある。我々のような普通の人間にとって障害となるもののほとんどが、
彼らにとっては意味をなさない。高い壁、深い濠、広い川、連なる峰。…どんなものでも
越えてゆける」
空は一つだから。どこまでもつながっているから。
忍人はまっすぐに手をのばした。…彼の手を遮るものは何もない。
「…だがそんな彼らにも、おそらく限界はある」
ゆるり、空へのばした忍人の手が、空を掴む。
「…俺は思う。…日向の民の一族的な気性から考えて、海の向こうへ挑戦しようとしたの
はサザキが初めてではないだろう。サザキの世代ではサザキだけだったとしても、その前
の世代か、前の前の世代、…いつかの日向の民が、まだ見ぬ国を求めて海の向こうに挑み、
…そしておそらくは、戻ってこなかった」
那岐がはっと目を見開いた。
「その過去を忘れ、また誰かが大陸に挑む。…そしてまた戻らない。…そうした歴史を繰
り返すうち、一族は、一族の長は、大陸の存在を否定するようになったのかもしれない。
これ以上大切な人を失わないために」
那岐も空を見上げた。忍人の手の、その先。広い広い世界。どこまでも続く世界。未知な
る大陸。空を飛べる民にとって、それは確かに何にも代え難い魅力的な目標だったに違い
ない。たとえ大陸が存在しないとしても、挑戦する者はいるだろう。
どこか遠いところで、翼の音が聞こえた気がした。
「…だから、海賊なのかもしれないな」
忍人がぼそりと言った。
「仲間を海で失った夕霧の事情もある。船が完璧に安全な乗り物とは言わない。…だが、
翼と組み合わせるなら、目的地に安全にたどり着く可能性が高まるだろう。だから、サザ
キは海賊にこだわるのかもしれない」
翼の音は近づいてくる。もうその目ではっきり姿を捕らえることが出来る。那岐は手で庇
を作って、大空をこちらへ向かって飛んでくる炎の鳥のような姿を見つめる。
開けっぴろげな優しさと、強さに裏打ちされたしたたかさ。
しくじっても、必ずまた前を向くその瞳で、彼ならいつかたどりつくだろうか。海の向こ
うの大陸へ。その先にある、まだ見ぬ場所へ。

サザキが堅庭に降り立った。ばさりと音を立てて翼を閉じ、忍人と那岐の顔を見比べて、
にやりと笑った。
「なんだなんだ、そんなにまじまじ俺の顔を見て。…そんなに俺はいい男かー?」
忍人はふっと片頬だけで笑って何も言わない。那岐は厭そうな顔をして、
「しゃべらなきゃいい男に見えるのに」
憎まれ口をたたき、…はい、とサザキの手にカリガネの菓子を置いてやった。
「…なんだ、これ?」
「カリガネがサザキを捜しに来て置いていったんだって」
元々サザキ用のものなんじゃない?食べたら?
言われて、ふうん?と首をかしげながら素直にサザキは、菓子を半分に割って、その片方
を口に入れた。もぐもぐ、と咀嚼して、突如、猛烈に情けない顔になる。
「…?」
忍人と那岐は顔を見合わせた。
「………やる」
食べなかった半分を差し出されて、那岐は首をかしげた。
「…なに、…どしたの。…つくし食べた時みたいな顔して」
「……つくしだった……」
「はあ?」
菓子の中の餡と見えたものを、サザキは無言で指さす。忍人が指でつまんで口に入れ、
「…つくしの佃煮だ」
「……」
どうやら、月餅ではなくおやきのような代物だったらしい。…それで忍人に置いてったの
か、と那岐は納得した。カリガネは、忍人が甘いものを好まないことを知っている。甘く
ないから彼でも食べられると思ったのだろう。
サザキが差し出す半分を、忍人はまた半分に分けた。片方を那岐に寄越し、もう片方は自
分の口に放り込み、少し目を見開いた。
「…美味い」
那岐も食べてみた。確かに、塩味がきいておいしい。おやつというか、軽食にもってこい
な味だ。
「気に入ったなら、また作る」
突然声がした。いつの間に来たのか、カリガネが腕を組んでそこに立っていた。
「サザキも、いつまでも好き嫌いは良くない。…大陸を目指すなら、携帯食にも慣れてく
れ」
さりげなく挟まれた一言を、那岐は聞き逃さなかった。…忍人もそうなのだろう。薄い笑
みが唇に刻まれる。
サザキも情けない顔を苦笑に変えたが、首は横に振った。
「携帯食はかまわないが、中身がつくしの佃煮なのは勘弁してくれ」
他のものなら何でも食べるからさ。…頼むよ。
拝むようなその仕草を見て那岐が笑った。忍人も声に出して笑う。当のサザキも笑い始め
て、やむなく、といった顔でカリガネも笑う。
笑い声は空に消えた。…どこまでも続いている、空に。