月草の簪

風早の土器作りは佳境に入ったようだが、とりあえず作れないものたちにはすることがな
い。柊が無聊の慰めに紀の村をそぞろ歩いていると、飾り物を売っている行商人の店の前
で、忍人がぽつねんと立っていた。
「…おや」
手袋で覆われた指を、つと頬に添え、柊は薄い笑みを浮かべてそっと忍人に近づいていっ
た。が、後数歩、というところで、振り向きもしないで忍人が言った。
「…真後ろから近づくな、柊。…うっかり斬ってしまう」
怯えた顔をしたのは、言われた柊ではなく商品を売っている初老の行商人の方だった。そ
の表情に目を留めて、忍人は、申し訳なさそうに、すまない、と言った。
「この男相手には、いつもこういう軽口をたたいているので癖になっているんだ。…気に
しないでくれ」
軽口じゃないくせに、とこっそり柊は思ったが、再びこの気のよさそうな行商人を怯えさ
せるのも本意ではないので黙っていた。
「……佩刀の腰飾りでも探しているのかと思いましたが、…簪や首飾りといった女物ばか
りですね。君もお安くない」
「桃の花の簪があったから」
…似ているなと思って、と忍人は静かに言った。
秋なのに、と思わないでもなかったが、こういう行商人は豊葦原のあちこちを同じ荷を担
いで売り歩く。季節にそぐわない意匠の簪でも、並べておけば求めるものがいるかもしれ
ない。そもそも村の少女たちは、一生に一つ簪を持つかどうかという生活の者も少なくな
いのだから。
忍人の視線の先の簪を見て、柊も一瞬昔を思う表情を見せた。
「…そうですね。…少し、似ているかな」
一ノ姫が気に入ってよく挿していた簪も桃の花だった。
「よく覚えていましたね」
「お前たちが無理矢理つけさせただろう、俺に。…姫の替え玉にすると言って。…忘れる
ものか」
むっつりした忍人を見て柊は気付かれないようにこっそり笑う。
子供時代の忍人は背格好が一ノ姫によく似ていて、羽張彦と柊が姫を遠出に連れ出すとき、
一度か二度、替え玉に仕立てたことがあった。髪だけは一ノ姫よりずいぶんと短かったの
で、かもじを調達してきてかぶせて髪を結ったこともある。変身させられた忍人の姿がか
わいいと、一ノ姫がずいぶん喜んで、普段は采女にもさわらせないというあの桃の花の簪
を忍人に挿してやっていた。
姫君らしく、公式の場では季節や格式に応じた簪をいくつも取り替えていた姫だが、日々
の公務を離れた場では、うす桃色の花を目にすることが多かった。
口うるさい采女に、姫、季節がちがっておりますよ、と言われても、彼女は気にせず笑っ
ていた。いいの、これが気に入っているのよ、とだけ言って、うるさい忠告など気にも留
めなかった。
それが彼女にとってとても大切なものなのだと、誰もが知っていた。その理由まではわか
らなくとも。
「羽張彦も、意外とわかっているのだなと、感心しましたよ私は」
忍人がちらりと柊を見る。その瞳が何か疑問を含んでいるようで、柊は少し首をかしげた。
「…なんですか?」
「…贈ったのは羽張彦でも、お前の助言が入っているかと思っていた」
…暗に、羽張彦の贈り物選びの感覚を疑っている発言で、柊は喉で笑う。
「姫には桃の花、と決めていたようですよ。…美しい衣装などは、あの頃の私たちの手が
出るようなものではなかったですからね。必然的に簪になった」
決断力はありますからね。…私の助言など必要ありませんでしたよ。
柊の言葉に、忍人はやわらかい、懐かしむような表情を浮かべた。
「……そうだな」
そして少し腰をかがめ、彼は目の前の筵に並べてある簪の中から、月草の意匠をかたどっ
たものを手に取り、腰飾りから玉の環を一つ外して、これではどうか、と老人に問う。通
常ならば干し魚や米と交換するところだろうが、あいにく持ち合わせがない。
老人は差し出された玉の環を検分してえびす顔になり、もう一つどうか、と先ほどまで忍
人が見ていた桃の花の簪を差し出してきた。忍人は優しく笑って、いや、これ一つでいい、
と月草の簪を振って見せ、老人の店を後にした。その後を、ゆるりと柊がついてくる。
「…贈り物ですか?」
からかうような柊の声に、忍人は首をすくめた。
「そんな予定はないが、図体の大きいのが二人も店の前に陣取って、商売をあがったりに
させてしまったからな。わびだ」
「その月草の簪で、玉を手に入れたのだから、店主の老人にはいい儲けになったでしょう。
…もっとも、買うならてっきり桃の花の方だろうと思いましたがね、私は。店主も、簪一
つに玉では値が多すぎるから、桃の花の簪も持って行かないかと言っていたじゃありませ
んか。君がずっと桃の花の簪ばかり見ていたのに急に月草の簪を手に取ったから、彼も少
し驚いていましたよ」
横には並ばず、斜め後ろを歩きながら柊が淡々と語る。忍人は振り返らないまま静かに言
った。
「…渡す相手がここにいないものを、買っても仕方がない」
柊の足が止まった。
忍人は月草の簪をくるりと回してそっと懐に入れ、…同じく足を止めて、柊を振り返った。
「…どうかしたか」
その声で呪縛が解けたかのように、はたと柊は体を震わせた。忍人を見て薄く笑い、その
傍らに追いつく。
「…聞かないんですね、君は」
「…?」
「一ノ姫と羽張彦はどこへ行ったんだ、とか。…帰ってこないのか、とか。…私が君と再
会してから、君は一度も私に聞かない」
忍人は、ふっと笑った。
「お前が嘘を交えずに答えてくれるとは思えないからな。聞いても仕方がない」
「…厳しいことをさらりと言いますね」
柊が、無事な方の目を少しすがめて苦い声で言うと、、忍人はじっと柊を見た。…その瞳
は目の前の柊を見ているのにどこか遠くて、…まるで今の柊を透かして、5年前の、まだ
片眼を失っていなかった頃の柊を見ているかのようだった。
「…本当を言うと、聞いても仕方がない、というのは、少し違う」
自分の心の中の答えを探すように、忍人はゆるゆると首を傾けた。
「いなくなって間もない頃にお前と再会していたら、…たぶんもっと、俺はお前を問い詰
めていただろう。二人はどこへ行ったのかとか、戻ってくるのかとか。…だが、今はもう、
その問いが俺の中に浮かんでこないんだ。…ただ」
そこで忍人は言葉を切る。そしてまた言葉を探すそぶりだ。柊は黙ってそれを待っていた
が、何か焦れるような気持ちになって、そっと促した。
「…ただ?」
「……。…どこにいても、…戻ってきても戻ってこなくても、風早と二ノ姫がそうだった
ように、二人が離れずに共にあってくれればいいと、…それだけを思う」
柊は、普段自分に対してはあまり怒りや猜疑以外の色を浮かべない忍人の瞳が、一瞬だけ
痛ましげに自分を見た気がした。
「…本当は、お前と三人一緒にいてくれればもっと良かったが、それが叶わないなら、せ
めて二人だけでもどこかで一緒にいてほしい」
柊は、一瞬息をのみ、ややあって、絞り出すような声でつぶやいた。
「……君は時々、…本当にひどいことを言う」
「…そうだな。…すまなかった。今の言葉は忘れてくれ」
忍人はふと、懐からさっきの月草の簪を取り出した。
「わびに、やる」
差し出されたものに、柊は手を出さない。
「私だって使いませんよ、こんなものは」
「使いそうな相手に贈ればいいだろう」
柊の懐に忍人は無理矢理簪を押し込み、そのまま背を向けて行ってしまおうとする。押し
つけられた簪を手に持って、柊はその背中に問いかけた。
「君は、…誰を思って、この簪を選んだんです?」
忍人は一瞬振り返り、小さく笑って、またすぐ背を向けて歩き出した。無言のままだった
が、聞くまでもないだろう、とその瞳が言っていた。
……そう、聞くまでもない。
柊は心の中でつぶやく。
君も羽張彦も、自分の大切な人に一番似合うものが何か、誰に聞かなくてもちゃんと知っ
ている。
月草の、この秋の空のような美しい青は、二ノ姫の金の髪にさぞよく映えるだろう。君た
ちが、君主とその忠実な将軍として、誠に好ましく、映える一対であるように。
瞑目して、柊はその先に待つ既定伝承を思う。知っている自分と、変えられない自分に、
絶望と怒りを覚えながら。
…彼はただ、立ちつくすだけだった。