月夜のボタン

夜中にこっそり、船を抜け出した。
誰にも気付かれていないつもりだった。…けれど。
「…どこへ行くんだ」
風伝峠を登りかけたところで、ひやり、とする声が那岐の足を止めた。
ゆるゆるとふりかえる。声の主が、まるで夜の化身のように闇に紛れてそこにいた。
「…忍人」
「…どこへ行くんだ」
彼は静かに、同じ言葉を繰り返した。
「…別に。散歩だよ。外の空気を吸いたくてさ」
「こんな時間に船を抜け出してか。…いつもの君なら、堅庭で深呼吸して終わりだろう」
那岐は、仏頂面で首をすくめる。
「…海が見たくなったんだ」
「…」
忍人ははかるように那岐の顔を見ている。視線を迎え撃つように、那岐はまっすぐ忍人に
向き直った。
「なんなら、一緒に行く?」
忍人は少し、虚をつかれたようだった。
「いいのか」
「いいよ。…海を見るだけだ。一人でも、二人でも、同じことだよ」
他の誰かなら、那岐はそう言わなかっただろう。…けれど、共に海を見るのが忍人なら。
自分一人でも、忍人と二人でも、同じだ、と那岐は思った。

風伝峠を越えて少し歩くと、海の方へ降りる小道がある。このあたりは磯の海岸が多いが、
ここだけは砂浜になっていることを、この間神邑へ行く途中で那岐は見つけていた。忍人
はかすかに眉を上げて、何かに気付いたそぶりを見せたが、何も言わずにそのままついて
くる。
きれいな月が出ていた。
浪に映る月は、浪に壊されてゆらゆらと、光のかけらになっている。
那岐は浪打ち際ぎりぎりに立って、ぼんやりと海に視線を投げた。忍人は少し離れたとこ
ろで、同じように海を眺めている。
きっと、聞きたいことがあるだろうに、何も聞かない。
だから、那岐から口を開いた。
「…昨日、だったかな」
さく、と砂を踏む足音。忍人が一歩、二歩、自分に近づいて。…小声が届く距離で、また
足を止める。
那岐は忍人を振り返った。ちょいちょい、と手招いて、袂から小さな丸いものを取り出し
てみせる。
それは、月の光を反射して、きらりと光った。
忍人がさくさくさくともう何歩か近づいてきて、那岐の傍らに立った。
「…それは?」
「釦」
「…ぼたん?」
そうだ、釦すらないんだよなあ、こっちは、と那岐はかすかに笑った。
「僕や千尋がいた、向こうの世界の服に付いてる、留め具だ。…これは高校の制服の釦」
忍人はもう聞き返さない。黙って那岐の言葉を聞いている。
「昨日、千尋から渡された。気付いたら、持っていた、って。異世界からこちらへ戻って
くるとき、千尋が着ていた服には釦がなかったから、僕のじゃないかって」
たぶん、そうなんだと思う。
那岐は釦を月にかざした。メッキをされた釦が、またきらきら光る。
「向こうの世界のものが、この豊葦原にあるべきじゃない。だからこの釦は、捨てようと
思った」
だけど。
天鳥船から捨てたのじゃあ、結局豊葦原の大地に落ちるだけだ。だからせめて、海の浪に
さらわせようと、そう思ったんだけれど。
「こうやって、海に来てみると。…なんだか、それも出来ない」
この釦を、何かに使おうとか、そんなふうに思うわけじゃない。むしろ存在してはならな
いもの、この世界にあってはならないもの、…そう思うのに。
「あの浪に向かって投げてしまえばいいのに、…僕にはそれが出来ない」
なぜかな。
…那岐はゆるりと首をひねった。
忍人は何も言わない。投げればいいのにとか、それがどうしたとか、そんなことは何も言
わない。…ただ黙って、そばにいる。
だから那岐は。…一人言のように、また話し出してしまう。
「…僕は、何かなくしたものがある」
今なくしたものじゃない。ずっと昔、遠い昔にどこかでなくしたもの。
「それが何なのかさえわからない。ただ、なくした、という記憶だけがある。そんなこと、
あの異世界ではすっかり忘れてしまっていたし、豊葦原に戻ってきてからも、高千穂や出
雲ではちらりとも思い出さなかったのに」
なんだか急に。なんだか突然。
「ここに来て、思い出した。…自分が何かをなくしたこと」
浪が揺れている。
月が光のかけらになって浪の上に落ちてくる。
冴え冴えとした、白い光。
「ここでなら、もしかしたら見つかるんじゃないかって、…なぜかな、ずっとそんな気が
してる」
那岐は砂をそっと足で蹴った。
砂は光を浴びてきらきら光りながら、波間に消えた。
「だから、この海岸に何度か来てみたんだけど、…まあ、夜に来たのは初めてだけど、…
でもちっとも見つからない」
那岐は、一人でくすくす笑った。
「おかしいだろ。捨てたいものがあって来てるのに、それは捨てられない。何か見つけた
いものがあるのに、それは見つからない」
忍人が、さくり、と砂を踏んで、もう一歩那岐に近づいた。
「君がなくしたものが何かは、俺もわからない。…だから、君の捜し物の手伝いは、俺に
は出来ないが」
そう言って、す、と手を差し出した。
「…?」
那岐は首をかしげる。忍人はそんな那岐をまっすぐに見ながら、…静かな声で言った。
「もし、…君がその釦を重たいと思うなら。重たいと思って、でも捨てられないのなら。
…俺が預かってはいけないだろうか」
那岐ははっとして、忍人の顔を見た。
忍人は、那岐の傍らで揺れている、夜の海の色をした瞳で、じっと那岐を見ている。
気圧されたような気持ちで、那岐は今度は掌を見た。
金色の釦は、相変わらず月の光を受けてきらきらと光っている。
あちらの世界でなら、なんとも思わなかったその存在が、…不意に重い。

月に向つてそれはほふれず
浪に向つてそれはほふれず

指先でつまみ上げると、…なぜだか心がしんとした。
那岐はそっと忍人を見る。
「…忍人が?」
かすれるような声で尋ねると、
「…君が厭でないなら」
静かな返事が返る。
差し出された手は、ずっとそのままそこにある。
刀を握ってるタコがあるな、と、那岐はつまらないことを観察した。
その白い手に、この釦を落としていいものか。
逡巡は一瞬だった。
那岐は、つまんだ釦を、そっと忍人の手にのせた。
白い指が、釦を確かめるようにそっと触れて、…そのまま彼はぎゅっと拳を握った。
「…確かに、預かる」
「…捨ててもいいよ、忍人」
那岐の少し拗ねたような言葉に、忍人は表情も変えずに言った。
「君がそれを望むまでは、捨てない」
そして、大切そうにその釦を懐にしまう。
入れるときに彼の胸元で月の光を受けて釦がきらりと光ったのが、ラピスラズリの石のよ
うだと、那岐はぼんやりと思う。
そして、釦がなくなってしまった袂は急に軽く、急に頼りなく感じられた。
袂にあるのは、さしこんでくる月の光ばかり。
さらさら、さらさらと。
那岐は不意に、ぶるりと体を震わせた。
自分は、忍人に甘えている。
釦を預けたことではない。
自分がこれからしようとしていることを忍人が知れば、彼は必ず止めるだろう。だから、
忍人には言わずに、自分は行くつもりでいるけれど。
君が僕を止めてくれると信じていること自体が、僕が君に甘えているという証拠なんだ。
「…っ?」
不意に袖を引かれて、那岐ははっと物思いから我に返った。
忍人が那岐の袂を捕まえていた。驚いて忍人の顔を見上げると、忍人もはっとした顔をし
て、
「すまない」
ぼそりと謝って、袂を放した。
「…君が、どこかへ行ってしまうかと思ったんだ」
「…ふ」
那岐は笑った。
…苦い笑いだった。
「…月光は、狂気を呼ぶ」
「……?」
「そういう言い伝えを持つ国が、確かあったなと思ってさ。……ここからずっと離れた、
遠い世界の遠い遠い国のことだけど」
那岐はふるふると頭を振った。
「…そろそろ帰るよ、忍人。…これ以上ここで月光を浴びていたら、僕らのどちらかが、
狂気にとらわれてしまいかねない」
忍人は、まだ自分がしたことへの戸惑いに沈む風だったが、那岐がことさら明るく声をか
けたことを慮ってか、うすく、かすかに、唇に笑みをひいた。
「……ああ、そうだな、…行こう」

行きと何一つ変わらない様子で、那岐と忍人は歩き出した。
けれどもう、行きと同じ二人ではなかった。
那岐の袂で重かった釦は、今は忍人の懐の奥深く眠っている。
今夜の出来事が、これからの自分にとっての凶兆であるのか吉兆であるのか、推し量ろう
かと考え込みかけて、那岐は投げ出した。
こんな月の光の下では、何を考えても迷路のようにただ迷わされるだけのように思えた。
確かなものは、ただ傍らを歩いてくれる人の足取り。目的を見失わない、過たない、その
まっすぐな瞳。
だから、那岐もその傍らで進んだ。月光に照らされた道を、船へと。
…そう遠くない未来、自分は彼とは違う道を進む。自分で選び取ったあの道を。そのとき
自分は、今夜のように迷わずに歩いていけるのだろうか。
那岐は目を閉じた。
…釦を失った袂はひらひらと、…なんだかひどく心許なかった。