妻問い

朝からずっと、竹簡を読み続けているのに、ちっとも量が減らない気がする。
千尋はため息をついた。
机に突っ伏して眠ってしまいたい気分だが、少し離れたところでじっと采女の一人が自分
を見ているので、さぼることもできない。あきらめて、また新しい竹簡に目を通し始める。
こんな風に、部屋の中で閉じこもっていると、あの旅の光景ばかり思い出される。戦い続
きでつらかったけれど、少なくともこんな風に閉じこもっているばかりではなかった。

……一緒に旅をした仲間は、今頃どうしているだろうか。

アシュヴィンたちは、とうに常世の国に帰った。今頃は、新しい皇として、常世の国の立
て直しを図っているはずだ。禍日神がいなくなったことで、常世の国にも豊かな緑が戻っ
てきたはずだが、荒廃した国が一朝一夕に元に戻るわけでもない。きっと忙しい日々を送
っているだろう。
サザキたち日向の一族も、船で高千穂に帰っていった。時折、西方の不思議なものを乗せ
て船でやってくる。もう少し稼いだら外海に出られる大きな船を買うのだと、うれしそう
に語っていた。とはいえ、盗賊としての前歴のためか、それとも別の理由でか、彼が来る
ときは異様に見張りが増えるので、いつもあわただしく話をして行ってしまう。
遠夜は、しばらくは橿原宮にいてくれたが、やがて熊野の方にひっこんでしまった。橿原
宮は緑が少なくて、どうにも息が詰まると言っていた。とはいえ、今でも時折は薬草やき
れいな花を手に遊びに来てくれる。
そして那岐も、遠夜について熊野に行った。師匠の鬼道を極めたい、熊野には古い鬼道が
まだ残っているから調べてくる、というのがその理由だったが、千尋は内心、橿原宮の堅
苦しい雰囲気が、那岐には合わなかったのではないかと思っている。古い話だというのに、
いまだに那岐の師匠のことを口さがなく言う者もいた。自分にもっと威厳があれば、誰に
もそんなことを言わせておきはしないのに、と千尋が歯がみすると、那岐は肩をすくめた。
「千尋のせいじゃないだろ。…いい噂より悪い噂の方が長生きする。それだけのことさ」
気にしてないよ、と言いながらも、やはり居心地が悪かったのだろう。…時折遠夜とやっ
てくる彼は、橿原宮にいたときと比べてとても穏やかな顔をしている。
布都彦は、シャニたち常世の国の民が去ったあとの出雲に、将軍という立場で向かった。
まだ中つ国の兵は少ないので、将軍というよりは小隊長くらいの立場だと思うが、水を得
た魚のようにいきいきと仕事をしているようで、時折送られてくる文からも、彼が出雲で
の生活を楽しんでいることが伝わってくる。

…離れていてもいい、…どこにいてくれるかさえわかるなら。
千尋が心の中でそうつぶやいたとき、部屋の入り口のあたりで采女が誰かと小声で話をし
ているのが聞こえた。
「……お約束がおありですか?」
…?誰か訪ねてきたのだろうか?
「でなければ、お通しできません。…どうぞ、お引き取りを」
「……!」
相手が誰かはわからないが、千尋の意向も聞かずに引き取らせるのはあまりではないか?
千尋が立ち上がったが、すでに采女は何事もなかったかのような顔で部屋の隅に控えて座
っていた。千尋に近いところに座っている采女が、
「何かご用ですか、陛下?」
わざとらしく問いかける。
「………なんでもないわ」
千尋はまた腰を下ろした。
知らず、ため息がもれる。

母も、こういう日々を送っていたのだろうか。…さぞ、息が詰まっただろうに。…それと
も自分は自由な日々を過ごしすぎて、つらく感じるだけなのだろうか。ずっとこういう日
々を送っていれば、だんだん慣れるものなのだろうか。
…姉様はどうだったのかしら。
思い出したら、また、旅の仲間の顔が浮かんできた。
風早、柊。彼らは、千尋が禍日神と戦って中つ国を取り戻した後、忽然と姿を消してしま
った。行方は杳として知れない。
アシュヴィンやサザキ、遠夜や那岐たち。…彼らはたとえ遠く離れていても、願えば、会
うことは叶う。…だが、風早と柊には、なぜか、もう二度と会えない予感がする。
…ずっとそばにいると言ったくせに。
ついつい、恨み言を言いたくなってしまうのは風早だ。
小さい頃からずっと一緒で、離れることなど考えもしていなかったのに、…どうして、今
ここにいてくれないのか。
柊もだ。私の忠実な僕だというなら、一つだけでいい、教えてほしいことがあるのに。…
その星の一族の力を貸してほしいことが、たった一つだけ。

上の空で竹簡を一つ読み終え、承認の印をしるす。新しい竹簡に目を通し始めたとき、ま
た戸口のあたりで采女が押し問答を始めたのが耳に入った。
「…お約束はおありですか?」
「軍の将が急ぎ陛下に会いたいというものを、約束などととがめている場合か」
厳しい叱責の声に、千尋は思わず立ち上がった。……この声は。
「それに、数日前に依頼の竹簡を出しておいた。未だ返事がないとはどういうことか。閲
兵式は本日だ」
…閲兵式?
千尋が、続く言葉に首をひねっていると、声の主が采女を押しのけるようにして部屋に入
ってきた。
「忍人さん」
「陛下、本日の閲兵式にはもちろんご出席いただけるのでしょうね。もう刻限となってお
りますが」
「…!ええ、もちろん」
閲兵式のことなど初耳だが、外に出られるかもしれないこの機会を逃す手はない。まして、
誘いに来た相手が忍人なら、今以上にまずいことにはなるまい。
身軽に立ち上がった彼女の手を、忍人が取る。…采女には見えないように、彼がこっそり
苦笑するのが目に入った。
「…では、参りましょう」
そのまま、あっけにとられている采女たちを置き去りに、忍人は大股に歩き出した。手を
引かれて、あわてて早足で千尋もついて行く。

内廊を歩きながら、忍人がまた苦笑し始めた。
「君も正直だな」
「何がですか?」
「竹簡をめくる手より、その重たげな衣装で歩く方がよほど軽々としている」
「……あはは」
千尋も苦笑してしまう。
「…まあ、無理もない。…すっかり顔色が悪くなったな。毎日宮に閉じこもっているから
だろう。…大丈夫か?」
「…大丈夫ですとは言えません…」
深いため息を千尋がつくと、だろうな、と気遣わしげに忍人が眉を寄せた。
「先に足往に様子を見に行かせたんだが、顔も見せずに門前払いを食らったと言って、ぶ
んむくれて帰ってきた」
「…ああ、…足往だったんですね。…私に何も言わないで、采女が面会を断ってしまった
んです、ごめんなさい」
「君の意向でないことくらい、足往もわかっている。気にすることはない」
話している内に、玉垣の東までやってきた。
「葛城将軍、…陛下!?…ど、どちらへ?」
門兵が泡を食って押しとどめる。二人が供の一人も連れずに玉垣を出ようとしているのだ
から当然の反応だろう。だが、忍人は先ほどの采女に対するのと同様、冷静な眼差しで一
瞥したかと思うと短く応じた。
「今日は忍坂で新兵の閲兵式だ」
「お、お待ちください、今輿を…」
「いや、不要だ。この陽気だ、歩いていく方がいいだろう。…さほどの距離ではございま
せん、かまいませんね、陛下?」
「ええ、もちろん。…行きましょう」
その問答だけで門を突破してしまう。
「…さすがですね、忍人さん」
「何がだ」
「私一人だったら、もっと悶着が起こって、結局連れ戻されます」
忍人は苦笑した。
「それはそうだろう、俺が門番だって、君を一人では外に出さない。…俺がいるからだ」
「信用があるんですね、忍人さんは」
千尋が笑うと、こういうことは信用とは言わないだろう、と、忍人は困ったような顔をす
る。…それもそうだ。彼は軍の大将だ。他の兵に付き添わせるよりよほど安全だと誰もが
思うだろう。
「閲兵式の件、すいませんでした。…たぶん、あの竹簡の山の中に依頼はあるんだと思い
ます。読んでも読んでも終わらなくて…」
何日か前から積んであるのもあるだろうなあ、と思いながら千尋が謝ると、忍人は思いが
けないことを言った。
「いや、閲兵式というのは嘘だ」
「………はい?」
「ああでも言わないと、あの仕事熱心な采女たちは、君を外へ出さないだろう」
「……ええっ!?」
「何をそんなに驚いている?」
忍人は千尋の反応に目を丸くしているが、
「驚きますよ!」
千尋は驚かれていることにいっそう驚く。
「だって、忍人さんが嘘をつくなんて…」
それも、嘘ついてそんなにしゃあしゃあとしていられるなんて。
「……忍人さんの新しい一面を見た気がする……」
「何だそれは」
忍人がまた苦笑した。つられて千尋も苦笑いする。
…忍人さんは、よく笑うようになった。会ったときは毎日しかめ面だったけれど、少しず
つ違う表情も見せてくれるようになってきて、…今は、笑顔を見ることも多くなった。
「でも、閲兵式じゃないなら、本当はどこに行くんですか?」
何気なく問うた千尋は、忍人の次の言葉に表情を凍らせた。
「三輪山だ」
「……!」
「今ちょうど桜が見頃だと聞いたので、…少し歩くがいいだろうか?」
千尋の反応がないのをいぶかしんでか、忍人が顔をのぞき込んできた。
「……陛下?」
「…あっ、はいっ」
肩を大きくふるわせて、千尋は返事をした。
「どうかしたか?…そんなにびっくりするほど遠くはない…と思うが」
君の足では少し厳しいだろうか?
気遣わしげに眉をひそめられ、あわてて千尋は首を横に振った。
「ああ、いいえ、大丈夫です。…そうですね、今ちょうど花盛りでしょうね」
行ってみたいです、と笑ってみせると、ようやく忍人がほっとした顔になった。
行こう、こちらだ、と示しながらも、忍人はいつも千尋の真横に寄り添うようにして歩く。
異世界の橿原でなら恋人同士の仕草だが、もちろんそんな理由からではない。先に立って
歩いたのでは警護にならないというのが彼の口癖だ。道を歩くときは身を隠す場所がある
側の真横に立つのが一番警護しやすいと言う。
他愛ない話をしながら道を歩く。久しぶりに、思う存分仲間たちの話ができる。
橿原に来るときはみんな、千尋のところはもちろんだが、忍人のところにも顔を出してい
くようで、彼から聞く仲間の話は千尋が見聞きした話とは少しまたちがっていて楽しい。
サザキは千尋に会うときは、小さなきれいなものをいつも何か持ってきてくれる、という
話をすると、忍人は顔をしかめて、
「俺にはこの間、肩こりの薬だと言ってものすごいにおいの軟膏を持ってきた」
と言った。
「……か、…肩こりの薬??」
「俺に必要そうなものを他に思いつかなかったそうだ」
その返答に千尋は爆笑してしまった。た、確かに、甘いものもきれいなものもあまり忍人
には必要なさそうだ。
「でもどうして肩こりの薬!?」
「肩がこってそうだとか言っていたが」
また千尋が大笑いすると、
「…そんなに笑うということは、君にもそう思われているということか…」
さりげなく忍人は傷ついたようだった。
遠夜も来るときは必ず何かしら薬を持ってくる、この間は血止めの薬だった、とか、那岐
も師匠から習った頭痛よけのまじないを思い出したから、と何か変な模様を描いた木ぎれ
を置いていった、とか。
「薬関係ばっかりですね、忍人さん」
もう、笑いすぎて千尋はおなかが痛くなってしまった。笑っている間に、気づけば忍坂の
集落を過ぎようとしている。三輪山の登り口はもう目の前だ。
「…俺はそんなに病弱だと思われているんだろうか」
忍人がむっつりと応じる。
…千尋はまた少し、どきりとした。
「肩こりとか頭痛とか血止めって、あんまり病気とは関係ない気がしますけど」
さりげなくそう言うと、それもそうだな、と忍人も苦笑した。
「効くかどうかはわからないが、サザキの持ってきた薬は君に進呈した方がいいかもしれ
ない。…あの竹簡の量では肩も凝るだろう」
「……あははははは」
情けない笑いが千尋の口から漏れた。
「…うう、本当言うと、てきぱきやれば、ちゃんと終わるはずの量なんです。別にものす
ごく最近仕事が増えたわけじゃないし、むしろ慣れてきてこなす量は多くなってきていた
んですけど…」
言葉を濁すと、忍人がさりげなく聞いてきた。
「…なにかあったのか?」
「………」
言おうか、言うまいか。
千尋は逡巡した。
誰にもまだ相談していないことだった。…他の件なら、千尋は迷わず忍人に相談しただろ
う。だが、この件だけは、忍人には相談しづらい。
……でも、じゃあ、誰に相談できるっていうの?
心の中でもう一人の千尋が問うてくる。
「………」
黙り込んでしまった千尋から、気まずげに忍人は視線をそらした。さりげなく道の歩きよ
い部分へ千尋を誘導しながら、ゆっくりと山道を登っていく。この陽気で花盛りだという
のに、人気は全くない。みな畑仕事で忙しい時期だからだろう。
「…余計なことを言ったかもしれない。…失礼した」
ぼそりと謝られて、千尋はあわてた。
「ちがうんです、あの…」
言いつのりかけたとき、山道の視界がふっと開けた。
「……!」
千尋は息をのむ。隣で忍人がほうっ、と声を上げたのがわかった。
「……すごい……!」
「これは……見事だな」
一面の桜色だった。千尋が見慣れたソメイヨシノの白っぽい色とは違う、本当の桜色。全
ての樹が重たげにぽってりと花を揺らしている。見渡す限り、どこまでもどこまでも。
「……桜餅みたい」
「……は?」
聞き返されて、思い出す。こちらの世界には、あの道明寺粉で作ったぽってりとした桜餅
はないのだ。
「そういうお菓子があったんです。もち米を砕いた粉で作ったお餅を桜色にそめて、あん
こをいれて、桜の葉でくるむんです」
「…甘そうだな」
甘いものが苦手な忍人が首をすくめながら言う。
「甘いからおいしいんじゃありませんか」
うう、思い出したら食べたくなってきた。
好きだった和菓子の店をぼんやり思い出していると、隣で桜を見ていた忍人が思いがけな
いことを言い出した。
「…君は、帰りたいんじゃないか?…向こうの世界へ」
「…え?」
ぽかんと口を開けて忍人を振り返ると、彼はひどく深刻そうな顔で千尋を見ていた。
「さっき、何か言おうとしてやめただろう?…俺や狭井君に相談しづらいことがあるんだ
ろう」
それは、あちらの橿原へ帰りたいという願いじゃないのか?
「……俺には、…確かに、君をあちらへ帰すすべはわからない。だが、那岐ならもしかし
たらわかるかもしれない」
君が願うなら、…なんとかその願いを叶えたい。
真面目に言葉を重ねられて、千尋はあわてて首を横に振った。
あちらの世界がなつかしくないわけではない。…だが戻ってももう、風早も那岐もいない。
思い出せば、あの二人だけがあの世界での全てだった。向こうの世界にあったものがいく
らなつかしくても、こちらの世界で得たものとは比べようもない。
「ちがいます。そりゃ、時々向こうにあったものがなつかしくなることはあるけど、別に
帰りたいと思ったことはありません。…ここが私のいる場所だもの」
そう、向こうにいたときは、いつもどこか、違う気がしていた。ここは自分の居場所では
ない気がしていた。豊葦原は違う。ここは確かに、私の生まれて育った国。今ではそう思
える。
「だが…」
まだ忍人は言いつのろうとしている。どう言っていいかわからなくなって、思わず千尋は
口走った。
「私が悩んでるのは縁談の話です!!」
「……」
ぽかんと忍人は口を開ける。
………しまった。
がっくり千尋は頭を抱える。
忍人さんにだけは、この話は相談できないと思っていたのに、なんでこういうばらし方を
しちゃうかな、私は……。
よりにもよって!もっとさりげないにおわせ方だってあったはずなのに!こんなストレー
トに!!ああもう、私のばかばかばかばか!!!
野原の上を転げ回るか、穴を掘ってその中に入ってしまいたい気分の千尋の横で、いち早
く忍人は理性を取り戻したようだった。
「…それはつまり、…狭井君か誰かが……?」
あまり話題にしてほしくないのだが。この際仕方がない。千尋は覚悟を決めた。
「…そうです。そろそろお相手をって、私の手が空くと呼びつけて言い始めるんです。だ
からなるべく手が空かないように、竹簡がたまるようにたまるようにしているの」
最初の内はあまり怪しまれなかったんですけど、最近はどうもわざとさぼっていることが
ばれたみたいで。
「それで、采女たちが何人も見張っているんです…」
もともとは、竹簡を運んだり整理したりする采女が一人ついているだけだったのだ。それ
が、戸口の見張りだの、千尋本人の見張りだの、ずんずんずんずん増えていって。
「…さぼらないようにか、…なるほど」
はー。
千尋は深い深いため息をついて桜の木の下に膝を抱えて座り込んだ。膝の間に顔を埋めて
しまう。……本当に、穴があったら入りたい。
傍らに忍人も腰を下ろす気配がした。…とはいえ、まずはかける言葉が見あたらないのだ
ろう。無言で桜を眺めているようだ。
鳥が鳴いた。
「…つばめ…?」
「…今鳴いた鳥か?…メジロだろう、おそらく」
千尋の他愛ない一人言に、真面目に答えて、……忍人は、ふと言った。
「…君は、…俺が君に妻問いをしたら、どう思うだろうか」
………。
がば、と千尋は顔を上げた。
「…忍人さん…!?」
妻問いとは、…つまり、プロポーズということで、それはつまり……。

あたりは、桜。桜。一面の桜。

けれども。あのときは、ただ冬枯れの木々だった。言われなければ桜と気づかないような。

春になったら、桜、一緒に見に来ませんか
…戦の前だというのに、唐突に何を言い出すかと思えば。
君の思考は時々、俺の想像を軽々とこえていく。
……だが、桜か。…それも悪くないかもしれないな。
そうだな、いつかまた、ここに来よう。

「…もし君が余り不快でないなら、…俺は君に妻問いをしたい。幸い、俺の族は中つ国で
も名のある豪族の一つだ。狭井君の覚えもさほど悪くないはずだ。龍神の許しさえ得られ
れば、問題はないと思う」
千尋の胸が早鐘のように打ち始める。
忍人はうつむきながら話していて、表情が余り見えない。照れているのか、いつも通り冷
静なのかすらわからない。
焦りやときめきや驚きや、…怖さ。…いろんなものがないまぜになって、パンクしてしま
いそうな千尋の感情に、だが、忍人の次の言葉が冷や水をかけた。
「形の上だけでも伴侶を迎えてしまえば、…もう周りにうるさいことは言われまい。…君
は、待っていられる」
……形の上だけ……?
「…ど、…どういう、意味ですか?」
声が震えるのを押さえられなかった。
忍人は千尋に衝撃を与えてから初めて、顔を上げてまっすぐに千尋を見た。
その顔はいつも通り冷静で、…恋に舞い上がったり、うろたえたりは全くしていない。
「……君は、…風早を待っているのだろう」
…その声は、泣きたくなるほど優しかった。けれど。
…その声で、その言葉を聞きたくはなかった。
「………」
「だが、…狭井君は君が風早を待つことを許しはすまい。…ならば、飾りの夫を迎えてし
まえばいい。…風早が戻れば、俺のことなど気にしなくていいから」
「……忍人さん、待って」
声が震える。泣きたくて、泣きたくて。…でも涙も出ない。
この人は、…この人は、どうして。
「待ってください。それ、変です」
「…何かおかしいだろうか?」
「おかしいです。…だってそれじゃあ、忍人さんはどうなるの?」
「…どう?…どうもしない。…風早が戻るまで、そばにいて君を守ると、もともと俺は決
めていた」
「そういうことじゃありません!」
仕事みたいに。…いや、実際忍人にとってはそれは仕事なのだろう。陛下を守るという仕
事。けれど。警護と結婚は違う。
「忍人さんの気持ちはどうなるの?…忍人さんは好きでも何でもない相手と結婚して、そ
れでいいんですか?」
「そんなことはない」
驚いたように忍人は言った。そして、その時初めて逡巡を見せる。
「…俺は、…その」
言葉を探し、目をそらし。…その頬がかすかに赤くなる。この際だ、とつぶやくのがかす
かに聞こえて、
「…俺は、君を、愛している。…もう、…ずっと前から」
ぼそりと言われた一言に、千尋は喉元に氷が詰まったような気がした。
…それは、ずっと聞きたかった言葉だった。……そして、決して聞きたくなかった言葉だ
った。
その言葉を聞いてしまえば、…永遠に彼を失う気がして。

あの日も、桜が舞っていた。
晴れやかな衣装で即位の式典に臨む千尋に、彼は優しく声をかけてくれた。
そして、式典が終わったら、約束通りに桜を見に行こうと言ったのだ。
……三輪山へ。
式の途中、千尋は忍人が会場のどこにもいないことに気づいていた。だが彼のことだ、自
分が人の多さで気づけないだけで、どこかできっと千尋の声を聞いていてくれていると思
っていた。
たくさんの民の前で話すことに少し舞い上がりながら、心の中ではこっそり桜の約束のう
れしさをただかみしめていた、…王ではなく、ただの少女だった、あの日の千尋。
その幸せな気持ちを断ち切ったのは、幸せな気持ちをくれた本人だった。
式典が終わって、仲間たちがみんな千尋のところに集まっても忍人だけは来なかった。さ
すがにみな不審がって、手分けして忍人を探して、…自室で待たされた千尋の元に沈痛な
顔をした風早がやってくるのには、さほど時間はかからなかった。
「……千尋」
その声を聞いたときにもう、何が起こったのか千尋にはわかっていた。
それでも、その目で確かめるまでは納得できなくて、風早を振り切るようにして駆けだし
て、……仲間に囲まれ、横たわる忍人を見つけた。
…ついさっきふれてくれたはずの指も、微笑んでいた頬も、…すべてが冷たく凍り付いて
いた。
忍人はもう何も語らない。もしかしたら桜の下で言ってもらえるかもしれないと思ってい
た言葉を飲み込んだまま、…彼は逝ってしまった。
忍人だけでなく、自分も凍り付いた気がした。
気がつけば泣き叫んでいた。泣いて、泣いて泣いて、…どうしようもなく泣いて。
時間も何もかもわからなくなった。部屋に閉じこもってただ泣いて、…やがて、涙も声も
枯れ果てたとき。
……千尋は、自分が自室でなく、見知らぬ空間にいることに気がついた。
「………?」
いや、見知らぬ空間ではない。…自分は確かに一度、この空間を通ったことがある。ここ
で、誰かと出会ったことが……。
……そのとき、不思議な音がした。
振り返った千尋の前に、白い麒麟が立っていた。
「……あなたは……?」
…私は、彼を知っている。
白い麒麟は、千尋に微笑んだ気がした。
「あの…」
そっとその首筋に手を触れようとしたときだった。真っ白な光が千尋を包み込んで、何も
見えなくなる。
……そして千尋は、再び高千穂の山中に立っていた。
「……え?」
「…気がついた?」
傍らに那岐がいる。
……どういうこと?…私、……ここは、あの、…岩長姫と出会ったあの…。
那岐が口を開く。
「考えるだけ無駄だよ」
同じ言葉をつぶやく。あの日と同じ言葉を。
そのとき千尋は理解した。…自分はやり直しているのだ。あの戦いを。
おそらく、自分は再び忍人に出会える。水浴びの最中に叱られ、土雷の館で共に戦い、天
鳥船で空を駆ける。一緒に出雲の祭りを見て、四つの獣の神を解放するだろう。
この世界で、忍人はまだ生きている。
舞い上がるような気分に、冷静な自分が水を差した。
そして、また、彼の命が消えるところを見ないといけないのよ。
…すうっと、心が冷えた。
……それは、いやだ。あんな思いはもう二度としたくない。あんな思いをするくらいなら、
自分は決して忍人に恋はするまい。…自分が忍人に恋することさえなければ、きっと、何
があってもあんなに苦しい思いはしないでいられる。それに、もしかしたら忍人が命を落
とすことだってないかもしれない。……自分が恋さえしなければ。
千尋は決めた。
……再び忍人に会えたなら、…自分は決して、彼に恋をしない。
彼がいなくなるくらいなら、嫌われた方がよほどましだ。

ずっとそう思って時を過ごしてきた。即位式が終わっても忍人が無事でいたとき、ああこ
れでもう大丈夫かと思いはしたが、それでもまだ油断はできないと、ずっと、心を殺して
きた。
それなのに。
忍人が、彼には珍しく、言葉を探しながらゆっくりと話す。
「…ずるいと思ってくれていい。…俺は確かに、君の窮状につけこんでいるのかもしれな
い。…だが、形の上だけでも、君を支える伴侶となって、君が安らかに彼を待てるなら。
……俺の存在が、君の助けとなるなら」
俺にとって、これ以上の喜びはない。
静かな声は、そうつづる。
忍人の声と気持ちが優しすぎて、聞いていられない。
千尋は思わず耳をふさいでうずくまってしまった。
「………陛下」
千尋の仕草に困惑しているのだろう、…忍人はそっと呼びかけてきた。
「…申し訳ない。…やはり不快にさせてしまったか」
その言葉に千尋は激しく首を横に振った。ちがう。ちがうそうじゃない。
「………すまなかった。…忘れてくれ」
「ちがう!!」
…千尋は思わず叫んでいた。
「……陛下?」
「……ちがうの。ちがうんです」
「…だが、君はそんなに泣いている」
忍人の指でぬぐわれて、千尋は初めて自分が泣いていることに気がついた。涙など出ない
と思っていたのに。
「俺の妻問いが不快だったのだろう」
「ちがいます。…とてもうれしいの、ほんとです。…だから、形の上とか、飾りとか、そ
んなこと言ってほしくない。そう言われることがつらいんです。まるで、…まるで私が忍
人さんのこと好きじゃないみたいな言われ方、いやです」
忍人ははっと何かに気づいた顔になった。
「私は風早を待ってるわけじゃない。……私はずっと」
言いかけて、千尋は次の言葉を飲み込んでしまった。
…ずっとあなたが好きなんですって、…言っていいの?本当に?
誰かがそうささやく。…誰かはわかっている。もう一人の千尋。冷静な千尋。
「………陛下?」
忍人が千尋の顔をのぞき込んできた。言葉の続きを待っているのだろう。
千尋は忍人を見つめ返した。その冷静な瞳は、これから千尋がする話を聞いたらどんな色
を映すだろう。もしかしたら、気が狂ったかと思われるだろうか。…でもそれでもいい。
千尋はこくりとつばを飲んだ。
「……忍人さん。…私が今からする話を、…しばらく黙って聞いてもらえますか?」
「……?」
「最後まで、…馬鹿にしないで聞いてもらえますか」
「…ああ、無論。…だがいったい…」
言いかけた忍人を手で制して、…千尋は話し始めた。
「…私は昔、…あなたと約束をした。…まだ橿原宮を取り戻す前の話です」
忍人は、何を突然という顔をしている。
「春になったら、ここの桜を見に来ようという、約束」
そう千尋が続けると、忍人は眉を寄せて、何か考え込む顔になった。
「…それは…」
「待って。最後まで聞いてください。…でもその約束は叶えてもらえなかったの、そのと
きは。…橿原宮を取り戻して、私は正式に女王として即位して、……その式典のさなかに、
あなたは死んでしまったから」
「………!?」
忍人がはっきりと驚いた顔をした。何を言い出すのか、と思っているだろう。だが、彼は
千尋の指示通り、何も言わずに言葉の続きを待っている。
「私は、式典で話をしていたから、あなたが死んだときにその場にいなかった。…後から
そのことを知って、…もう動かないあなたを見て、………」
声が詰まる。が、もう一度つばを飲んで、千尋は声を振り絞った。
「悲しくて、……つらくて……」
ううん、もっと。
「……もっと、……苦しくて、……痛い思い。…体中の血が凍ってしまったみたいに冷た
くなって、氷が中から私を貫くような気がして痛くて、喉が苦しくて詰まって、…………
どうしようもなくて、ただ泣いたの。馬鹿みたいに泣いた」
ぽろぽろとこぼれるのは今の千尋の涙だ。
「自室に閉じこもって泣いて泣いて、……ふと、気がついたら、私は高千穂にいたんです」
まだ、荒魂が跳梁する高千穂。常世の国が治める国。
「…あなたと出会う前の私に、戻っていたんです」
すっと、忍人が息を吸う気配がした。…こんな話、…信じてもらえるとは思わない。…で
もどうか、まだ続きがあるの。最後まで聞いて。
「…誰かが、私にやり直しをさせてくれているのだと思った。だから、私はそのとき決め
たんです。……今度出会えたら、決してあなたを好きにならないって」
千尋は唇をかんだ。
「大切な人の死を何度も見るなんて耐えられなかったし、…それに、もしかしたら、私が
あなたのことを好きにならなければ、あなたは無茶な戦いをしないでくれるかもしれない。
破魂刀で命を削り続けるようなこと、…しないで、…生きていてくれるかもしれないって」
「そして事実、俺は生きていた」
忍人が静かに口を挟む。
「………ええ」
千尋はまっすぐ顔を上げて忍人を見た。初めて会ったときには決して見せてもらえなかっ
た、穏やかな顔がそこにある。かすかに眉を寄せているのは、千尋の話を信じかねている
からか、それとも。
「こうして、一緒に桜も見た。……でもそれでも、まだ確信が持てない。…今からでも、
あなたを好きになってしまったら、あなたがまたいなくなってしまいそうで、…怖くてた
まらない…!」
語尾がふるえた。新たにこぼれた涙を、今度は自分の手のひらでぬぐって、千尋はまたう
つむいた。
「………だが、……千尋」
……一瞬、気がつかなかった。…だが、次の瞬間、千尋は肩をふるわせる。…今、忍人は
確かに彼女の名を呼んだ。今までどうあっても、君という代名詞か、二ノ姫や陛下という
敬称でしか千尋を呼ばなかった彼が。
「うぬぼれかもしれないが、…君の言葉を聞いていると、君はすでに、俺のことを好きに
なってくれているように思える」
千尋の胸が、驚くほどの強さで一つ鼓動を打った。
「…それは……」

……私はずっと、あなたが好き。

「……それは」
「…俺も、…君を愛している。…君がどう我慢しようと、俺たちの思いはもう通じ合って
いるのだと、俺は思う」
忍人の手がそっと千尋にのばされる。常世の国との戦いのさなか断ち切った髪は、まだ結
うことはできないが、一年たってかなり伸びた。忍人の指はその髪を滑るようになでて、
頬に触れた。
「千尋。……たとえ、相手の死がその先に待つとしても、俺は自分に正直でありたい。好
きだと言わないまま生き続けても、いずれ別れはやってくる。……それなら」
手を取られ、引き寄せられる。いつも冷静で厳しい人の腕の中は、思いがけず暖かで、…
離れられなくなる。
「…俺は、君の口からも聞きたい。…君の思いを」
「………私」
言ってもいいの?
…またあの冷静な千尋がとがめる。
ほんとにいいの?
けれど、もう思いは心からこぼれてしまって、止められない。
「……私、は、……ずっと、…あなたが好き…」
忍人の腕の力が強くなった。…今確かに、彼はここで生きている。千尋を抱きしめている。
「…千尋。約束する。…来年も、再来年もきっと、この桜を二人で見よう。…生きて」
過去の時間ではなく、未来の時間を二人で生きよう。
「…約束は、厭です。…また、違えられそうで、怖い」
「わかった。約束はしない。…だが、きっとまたここに来よう」
「………はい、きっと」
風が吹いて、桜の花びらが少し散る。千尋の肩にとまった花びらの一枚を忍人がつまみあ
げる。花びらを見ようと千尋が少し顔を上げるとその唇に花びらが落とされ、続いて口づ
けが降りてきた。
俺は、君を愛している。
繰り返される静かなささやき。
千尋の中で何かが溶けだしていく。
…それはおそらく、…忍人の死の瞬間に凍りついた、かつての自分と素直に恋をしていた
ときの思い出だろうと思う。目の前にいる忍人とは作れなかったいろいろな思い出が、今、
千尋の心から溶けて流れだしているのだろう。
これからはもう、凍りついた思い出をよすがにただ一人生きる必要はない。目の前にいる
大切な人と、まだ知らない思い出を作っていけばいい。
幸せな思いで目を閉じた千尋のまぶたに、また新しい口づけが一つ降りてきた。