つむぎうた

「なあ、兄貴。…ちょっといいか」
響也が部屋に入ってきたのを見て、律は明らかに不審げな顔をした。
弟が寮の個室に現れたくらいでそんな顔をすることはないんじゃないかと思うが、もし自
分が同じ立場だとしたら同じように胡乱な顔をしただろう。年の近い男兄弟というのは、
時々どうにもやりにくい。
とはいえ、出て行けと言われることもない。勉強机に向かって、一応は夏休みの宿題にと
りかかっていたらしい律は、ペンでベッドを指してみせた。戸口の前で所在なげに立って
いないで座れということだろう。促されるまま、響也は扉を閉めて素直に寝台に腰を下ろ
した。
「えーと、その」
迷うと聞きにくい。一瞬脳裏に土岐の顔がちらついたことに後押しされる気持ちで、響也
は吐き出すように問うた。
「兄貴。…アンサンブルのヴィオラは、なんで大地なんだ?」
律は片眉を上げた。はあ?という顔だ。いや、それとも、何を今更、か。
…どうも後者であったらしい。その証拠に、
「誰かに何か言われたのか」
そう問い返して彼は顔をしかめた。
「そ、そんなんじゃねえよ、別に」
慌てて響也は取り繕ったが、
「露骨に図星を指された顔だったぞ。…東金か土岐に何か言われたんだろう」
言い当てられて何も言えなくなる。
「……」
律はわざとらしいため息をついた。響也は居心地悪く、寝台の上で身を縮こめたが、自分
の疑問が解決したわけではない。小さな声で、で、どうなんだよ、と唇をとがらせた。
律は今度は鼻を鳴らすような音を立てたが、ちらりと響也を見て、どこかあきらめたよう
な、こいつにははっきり言ってやらないとわからないか、という顔をして、ようやく口を
開いた。
「今年が最後の夏だ。俺は何としても、アンサンブルで全国優勝がしたい。だから大地の
力が必要だ。以上」
「ちょ、待て待て待て待て」
以上、じゃねーよ、と響也はつっこむ。
「何の説明にもなってないじゃないか、全国優勝したいんだろ?なら何で、オケ部でも音
楽科のヴィオリストを選ばなかったんだよって話で」
「…響也」
言いつのろうとした言葉をきっぱりとくじくように、律は口を挟んだ。
「お前、再会して俺が最初に目標は全国優勝だと言ったとき、どう思った?」
響也はうっと詰まった。
「…っ、え、…」
「正直に言え」
眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、凝視されて、響也はややのけぞりながら、それは
その、と口ごもった。
「なんというか、…冗談だろ、…って」
「そうだな」
律は別に怒りもせず、むしろ生徒が正解を出せたときの教師のような顔でうなずいた。
「残念ながら、大会前の星奏のオケ部員の反応もだいたい同じだった。俺がソロで申し込
むならともかく、アンサンブルでの全国優勝は難しい。せいぜい東日本大会入賞くらいだ
ろう、目指すなら全国大会出場を、…という反応が大勢を占めた」
律は当時を思い出したのか、砂をかんだような顔になって、
「それでは勝てない」
ばっさりと切り捨てた。
「勝つと信じることなしにどうして勝てる。スポーツもそうだろうが、音楽はそれ以上に、
舞台に上がったときのモチベーションに結果が左右される。自分のパフォーマンスならば
勝てる。そう信じられる人間だけが、自分の思い描く最高の演奏が出来る。それがコンク
ールだ」
言い切った後で、律は響也をちらりと見た。お前はどうなんだ、という目だった。響也は
気圧されないようにぐっと見つめ返した。
信じている。…今の俺は信じてる。
……ああ、だから、……そうか。
「大地だけだった。俺の言葉を夢物語だと笑わない。疑わない。現実を見据えながら、そ
の上で一緒に頂点に立つことを三年間ずっと信じて、練習を続けてきた。……だからうち
のアンサンブルには大地が必要なんだ」
自分からそれた律の瞳がひどく優しい色になるのを、響也はどこか切ないようなむずむず
するような思いで眺めた。
…あの目の先には大地がいる。律の目には、胸には、いつも大地の影が寄り添っているの
だ。
…大地を必要としているのは、星奏のアンサンブルではなく律だ。夢を支え、信じ、分か
ち合う。それは律にとって、大地でなくてはならない。
…とはいえ。
律と話して、蓬生に乱されたものが少しずつ凪いでくると、忘れかけていたことが響也の
中にもよみがえってきた。
蓬生に言われるまで、自分は「何故大地なのか」に疑問を抱いたことはなかった。それは
東日本大会の自由曲を仕上げる過程で、気付いたことがあったからだ。
「思い出したことがある」
響也がぽつりというと、律ははっと我に返った顔で響也を振り返った。
「東日本大会の自由曲の時、俺がファーストヴァイオリンを務めただろう?…練習の時、
俺がうっかりミスタッチをしたりテンポが速くなったりすると、ハルはまず責める。音が
責める響きになるんだ。結構露骨に。かなでの音は弱っちくなるな。不安がもろに音に出
る」
でも、そんな中で。
「……大地だけが変わらないんだ。何があっても、大丈夫、大丈夫って笑ってる。音も、
絶対にぶれない。いつも安定して、変わらない。律の代わりが俺で、一番不安も不満もあ
るはずなのに、演奏中はおくびにも出さない」
だから。
「大地がいると安心する。思い切って弾ける。……そういうことなんだな、兄貴」
ああ、とうなずきながら、ちらりと一瞬律が悔しそうな妬ましそうな顔を見せたことに響
也は驚き、苦笑しそうになってそっぽを向いた。
俺に妬いてんのか。ばっかじゃねーの、兄貴。
心配しなくても大地が見ているのはいつだって兄貴だけだよ。兄貴がどんなときでも大地
のことを見ているのと同じだ。
目の前に律本人がいなくても、大地の音の中に律がいる。一緒に弾いていて、それを感じ
る。このヴィオラの音の深みは、あの透明なヴァイオリンの響きがもたらしたものなのだ
といつも繰り返し思い知る。
四人で弾いているのに、五人で弾いているような感覚を、きっとハルもかなでも味わって
いる。
「…ごめん、時間とった。…もう部屋に戻るよ」
「ああ」
「……ファイナルまでには、治せよ、腕。……一緒に舞台に立つんだから」
「………ああ」
律の部屋を出て後ろ手に扉を閉め、響也はしばしその扉に背を預け、瞑目した。不意に、
音が虹色の糸となってあふれてくるような、不思議な感覚に襲われたのだ。
それは現在の音ではなく、過去の音でもなく、未来の音だった。ファイナルのステージに
立って、五人で奏でる音。この夏の全てをつむぎよりあわせたような、とりどりの色に光
り輝くしなやかな糸。
酔いそうなほど、色が響く。音が色づく。
この音を幻にしない。ファイナルのステージで、必ず現実のものにする。そのことを疑わ
ない、見失わない。
「だからまず、セミファイナルだ」
吐息を一つついて、不敵に笑い、響也は力強く歩き出した。光る糸の幻を、心の中にそっ
としまって。