つむぐ糸

「忍人」
名を呼ぶと、彼は静かな無表情で振り返った。風早と目を合わせても、その表情は変わら
ない。風早はゆっくり、のんびりと笑ってみせる。
「外でお茶でも飲まないか。…いい夜だよ」
忍人はまろい目で静かにまっすぐ風早を見た。心臓の鼓動一拍分ほどの間を開けて、
「…ああ」
一言同意の返事をもらす。
風早は柔らかく笑った。
再会してからずっと、ゆっくり話したいと思っていた。だが、土雷との戦いや、朱雀、白
虎との邂逅が立て続けに起こり、穏やかな時間はしばらく取れないことも彼は知っていた。
だからこの夜を、じりじりするような気持ちで待っていたのだ。
…きっとそれは彼も同じだろうな。
忍人の先に立って歩きながら、こっそり風早は思う。
彼、というのは忍人のことではない。
風早は堅庭の戸を押し開けた。
空気の通り道が出来たことで、ねっとり柔らかい夜風が通り過ぎていく。
一歩、二歩と踏み出したところで、四阿で影が動くのが見えた。
……やっぱり。
立ち上がった彼は、ひらひらとこちらに向かって手を振ってみせる。傍らの忍人が一瞬顔
をしかめたのがわかったが、拒絶の言葉はこらえたようで、ただ眉間のしわを一本増やし
た。
「…柊、いいところに。…これから、君も誘いに行こうかと思っていたんだよ」
柊は、眼帯に隠されていない方の目をすがめるようにして笑う。
「書庫から出るときに、風早がいそいそとお茶の支度をしているのが見えたので、お相伴
にあずかれるかと思っていましたよ」
それから、訳知り顔で肩をすくめて、
「道臣殿にも声をかけましたが、細々したことが片付かなくて気ぜわしいからとやんわり
断られました」
「…彼も、背負い込む人だから」
気遣わしげに眉をひそめながら、風早は『いつも』をこっそりと思い返す。
『いつも』はこうではない。まず忍人を迎えに行った風早は、彼に茶を出してから柊に声
をかけにいく。彼が生返事をして竹簡を片付けている間に道臣にも声をかける。…そして
風早に声をかけられた道臣は、三環鈴の件で忍人には合わせる顔がないからと、おっとり
寂しそうに断るのが常だった。
道臣は本当に、忙しいからと柊に断ったのだろうか。それとも、道臣はいつもと同じこと
を言ったのだがそれを忍人に聞かせることはないと、柊が敢えて言葉を濁したのか。
…まあいい。柊がいて忍人がいて風早がいて道臣がいない。…それが既定伝承だというこ
となのだろう。
風早が声をかけるのを待ちきれなかった柊だけが、既定伝承を乱している。伝承など鼻で
笑い飛ばすような態度を見せることもあるのに、他の誰よりも伝承に縛られている彼らし
からぬことだ。
それだけ、忍人が絡んでいると冷静ではいられなくなるんだよね、君も。
声には出さない声で風早が柊に話しかけると、聞こえるはずもないのに柊がちらりと風早
を見て、少し厭そうな顔をした。…あるいは、声なき声が聞こえたのかもしれない。
「いい具合に湯が沸いた。…お茶にしようか」

しばらくは、三人の間を行き交うのはお茶の湯気だけだった。忍人はいつもの冷静な無表
情で、柊はにやにやと薄く笑いながら、風早はおっとりと笑って、ただ無言でお茶を飲む。
炒った豆の香りが立って香ばしい。
忍人が器に半分ほどを飲み干して息をついたところで、風早は口を開いた。
「つぎたそうか?」
「いや、いい。…杯を干したら、またいただく」
「そう」
今度は柊が少し身を乗り出した。
「軍はどうです、忍人」
忍人は一瞬厭そうな顔で柊を見たが、いつまでも彼を忌避しているのも大人げないと思っ
てか、しぶしぶと彼の問いに応じた。
「どう、とは」
「全体的に、指揮官としての目で見てどうですか。…常世と戦えそうですか?」
ため息をつきつつ、忍人は難しい顔になった。
「いや、…まだまだ滅茶苦茶だ」
「というと?」
「混成軍なのだから仕方がないが、兵達に差がありすぎる。狗奴の兵は訓練も技量も行き
届いているが、彼らだけに全てを委ねるわけにもいかない。筑紫の砦にいた兵は皆そこそ
この手練れだが、鍛錬が足りていなくて体力が不足している。筑紫や高千穂からの志願兵
達はまずそもそも軍や戦いとは何かがわかっていない」
わかっていてわざと聞いているのか、と言いたげな顔でじろりと柊を見ながらも、返答は
生真面目だ。軍全体を的確に把握している。
さすがだね、と風早が言おうとしたら、柊がいらぬ先手を打った。
「それを、姫が上手く使えるようにするのが君の仕事ですよ」
忍人が苦虫を噛み潰したような顔になって、珍しく拗ねた声で、
「わかっている」
ぼそりと言った。そしてぐいと杯を干す。すかさず風早が豆茶をつぎ足しながら、
「兵が増えたのはいいけれど、なかなかうまくはいかないものだね」
穏やかに、忍人をなだめるように言うと、彼はふと風早を見返った。言おうか言うまいか
戸惑うように、少し唇をとがらせて考え込む様子だ。
「どうかしたかい?」
「…いや、…たいしたことではないんだが」
そう前置きしてから、彼には珍しい、どこか力の抜けた表情になる。
「混成軍は扱いにくいが、…混成軍になったおかげで、狗奴の兵に指揮がしやすくなった」
「…!」
息をのんだ風早に、忍人は気付いたろうか。
「狗奴の兵を率いる長が俺にわざわざ言ってきた。…俺の匂いだけが異質なのかと思って
いたら、姫や風早や那岐からも、似たような匂いがする。日向の連中の匂いも、夕霧の匂
いも、俺の『それ』ほどではないが慣れぬ匂いだと」
そこでいったん言葉を切り、…彼は今夜初めて、かすかながらに笑顔を見せた。
「この雑多な軍で、慣れぬ匂いに警戒していることが馬鹿馬鹿しくなったと言っていた。
匂いが気にならなければ、俺の指揮には信が置けるそうだ」
ふう、ともれた息はため息か、それともただ熱い茶を吹いてさましただけの仕草か。
目を伏せて杯に近づけた忍人の唇は、上向きの三日月の形をしている。
「少し、…息がしやすくなった」
茶を飲んでから顔を上げ、まっすぐに風早を見る。
「…この軍を作り出した姫や、風早達のおかげだと思う。…ありがとう」
何かが胸に迫って、風早は言葉を失った。これは何だろう。自分の胸を押しつぶしそうな
このかたまりは。
人ならば、このかたまりに何と名を付けるのだろう。人ならぬ自分も、それを同じ名で呼
んでいいだろうか。
膝に頬杖をついて杯を片手でもてあそびながら忍人の話を聞いていた柊が、そこでちらり
と風早に視線を寄越してから口を開いた。
「あんまりたやすくこの男に礼を言ってはいけませんよ、忍人。彼は、君が思っているよ
りもずっと、ずるくてひどい男なのですから」
むっとした顔をしている忍人は、からかうようににやにやと笑っている柊の真意には気付
くまい。…柊も、忍人に真意を知らせる気はないだろう。彼はただ、風早に釘を刺そうと
しているのだ。
簡単に許された気になるな。…お前がしたことを忘れるな、…と。
風早は、おっとりと笑いながら、柊に向けている方の片頬だけを少しゆがめてみせた。
……忘れてなどいないし、許されたとも思わない。
柊は、眼帯に隠されていない方の瞳をゆっくりと一度伏せて、また開いた。
二人が交わす無言のやりとりに忍人は気付かなかったようで、まっすぐに柊を見て責める
ように口を開いた。
「確かに風早はずっと姿を隠していた。けれどそれは、幼い姫がある程度大きくなるまで、
安全な場所でお育ちいただくという大義あってのことだろう。常世に逃げたお前と、同列
には考えられない」
柊は大きく肩をすくめた。
「おやおや、やぶ蛇でしたか。…そういう意味ではなかったんですがね」
いったん、言い訳を探すそぶりで、手袋をした人差し指と中指で己の唇をもてあそんだ柊
だったが、ふと、その仕草を止め、
「……まあいい、そういうことにしておきましょう」
ふっふと笑った。
「…?」
「柊?」
「麗しい客人がお見えだ。…つまらない話はやめにしましょう。……ほら。…姫も夜風に
誘われて散歩ですか?」
金の髪を、船内からの灯りに輝かせながら、千尋がそこに立っていた。
彼女を見た忍人の瞳が、ふわりと霞む。何か失ったものを探すように、もどかしげに。
千尋の瞳も焦れている。手を伸ばしてもつかめない何かを求めるときのように。
その瞳のまま、千尋は微笑んだ。
「うん、まあ、少しね。…三人が一緒にいるなんて思わなかったわ」
風早は、静かに微笑みながら、…この場でいつも言う言葉を口にした。
「…そうですか?…驚かれるとはちょっと意外です」
千尋は少し言い淀むように口元に一本指を当てて言葉を探す。忍人は生真面目で気難しい
顔をして、腕組みをしたままややうつむいている。絡みそうで絡まない視線。……つなが
りそうで、つながらない糸。

どうか。どうか一日も早く、愛しい子供達の糸が再び紡がれ、つながりますように、と。
風早は深く強く祈り願う。
神として、人として。