鶴来る

その日、散歩に出るという千尋を警護して、忍人は玉垣の外へ出た。川べりを歩くと、す
っかり枯れたススキがざわざわと揺れる。
枯れ葉と煙の匂い。…秋の匂いだ。
「もうすっかり、秋も深まりましたね」
辺りを見回しながら、穏やかに千尋が言った。もうその必要はないのに、千尋はいまだに
忍人に丁寧語で話しかける。
「今年は秋の実りも豊かだったようだし、穏やかに冬が越せそうです」
「ええ、陛下」
同意しながら空を見上げた忍人は、ふと目を見張った。忍人が空を見上げていることに気
付いた千尋がつられるように顔を仰向け、ああ、と慨嘆する。
「渡り鳥ですね。…本当に、もうすぐ冬なんだ」
その瞳が淋しそうに歪むのを見て、忍人はそっと、陛下、と呼びかける。千尋は小さく笑
って忍人に顔を向けた。
「なんでもないんです。…ただ、風早の誕生日ってこの頃だったなあと思って、ちょっと」
「…誕生日」
自分が生まれた日のことだ。年の初めではなく、生まれた日に一つ年を取る。そういう風
習が、千尋たちのいた世界にあったことは知っている。
「だが、風早はこの世界の生まれだ。なぜ、自分の生まれた日を知っていたのだろう」
素朴な疑問をうっかりと口にすると、ふふ、と千尋は笑った。
「…さあ。…向こうの世界に住むために、便宜上決めたものかもしれませんし、もしかし
たらこの世界にいたときから知っていたのかも。…風早って、なんでも知ってる人だった
から」
…そうかもしれない。ふと忍人も思う。師君の屋敷で共に暮らしていたときも、離れたと
ころのことが聞こえたり見えたりしているかのように、二ノ姫が呼んでいると言っては姿
を消す彼だった。
戦いが終結し、千尋が即位して数日後、彼は姿を消した。
……今、どこにいるのだろう。
見上げても、空に答えはない。…ただ、白い鳥が群れを作って飛んでいくだけ。


その夜半。
忍人は、夢を見た。
鳥が空を飛んでいく。群れを作って整然と。
…が、その群れの中の一羽が不意に向きを変え、ぐんぐんと忍人に向かって近づいてくる。
呆気にとられていると、
「心を開いて、…どうか俺を中に入れて」
ささやく声がした。
…どこかで聞いた声。知っている声だ。
その声が誰かと言うことに忍人が気付くよりも早く、鳥はふわりと忍人の目の前に降り立
った。
大きな鳥……否、もうその姿は鳥ではなかった。白い羽根と見えたのは衣で、青い髪をゆ
らりなびかせて。
「……風早…!」
気付いた瞬間、忍人は怒鳴っていた。
「俺のところに来ている場合か!何故、姫…陛下に姿をお見せしない!!」
風早は忍人の怒鳴り声を聞いても動じず、穏やかに笑った。
「仕方がないよ。…俺に気付いて夢の中に入れてくれたのは君だったんだから」
……夢?
忍人はふっと、我に返った。
……そうか。これは夢か。
「そうだよ。君の夢だ」
声に出さない忍人の心の中を読んだかのように…夢の中ならばそういうことも出来るのか
もしれない…風早が言った。
「でも、夢でも会えてうれしいよ、忍人。…何年ぶりだろう。ああ、立派になって」
「……風早はいつもそうだ。さほど年も違わないのに、すぐ年上風を吹かす」
こんなことを言えば余計に自分が子供っぽく見えるとわかっていても、言わずにはいられ
ない。…ごめんごめんと風早は笑った。
「うれしくて、ついね。…こんなに壮健に過ごす君の姿が見られるとは、思ってもみなか
ったから」
「……は?」
風早は目をすがめるようにして笑った。
「君にはわからないだろうね。…俺が今の君の姿を見てどれほどうれしいか。…涙が出そ
うなほど、胸が熱いよ」
…わかるまいね、と風早は静かに繰り返した。指摘通り、忍人がわけがわからずぽかんと
していると、ふいに風早が一歩忍人に近づいた。
「…触れてもいいかな」
「…?」
首をかしげる。
「…駄目かな」
忍人のその反応を見て、風早はおずおずと引き下がろうとした。慌てて忍人は、いや、と
声を出す。
「駄目とは言っていない。…別にかまわない」
忍人の言葉に、ふわりと風早は笑い、改めて数歩近づいて大きな手を広げ、包み込むよう
に忍人を抱きしめた。
「…!?」
ただ指先で触れられるだけだろうと思っていた忍人は、驚いて身を強張らせた。…ついで、
確かに抱きしめられている感触があることに驚く。それどころか、匂いまでする。なつか
しい、風早の匂いだ。潮風のような、森の木々のような、不思議な匂い。人というよりも
むしろ、自然の中で生きる獣か植物をを思わせる匂いだ。
「…風早」
「うれしいよ。…うれしいんだ、本当に」
じわりと忍人の心の底の方も熱くなってくる。抱擁は優しく強く、彼のささやく声がほつ
りほつりと耳に落ちてくる。
…忍人、忍人、と、ただくりかえし名を呼ぶ声。その声と腕に身を委ねてしまおうとした
ときだった。
こーう、と鶴が鳴くような声がした。
「…今のは」
風早はその声が響くことを知っていたのだろう。驚きもせずただ静かに忍人から身を離す。
「…風早?」
「時間だ。…行かなきゃ」
さっと身を翻す。忍人は慌ててその後を追おうとした。
「風早!……陛下のところにも、必ず……!」
風早は振り返って、ただ淋しそうに笑い、…ぱあっと白い光になって飛び去った。
「…!」
見上げた夜空に、白い鳥の群れが渡っていく。…もう、どれが風早だったのかすらわから
ない。忍人は声もなく、呆然と見送るしかなかった。


「……さん!…忍人さん!!」
「……!!」
忍人ははっと我に返った。千尋が腰に手を当ててのぞき込んできている。
「どうしたんですか?今日は朝からちょっと変ですよ。ずっとぼうっとして」
「……ああ、……申し訳ない」
その声にも覇気がなく、千尋は顔をゆがめた。
「…何かあったんですか?」
「……陛下」
その質問には答えず、逆に質問を忍人は投げかけた。
「はい?」
「昨日、夢を見たか?」
千尋は少しぽかんとする。
「夢?……いえ。見たかもしれませんけど、覚えていません。…それが何か?」
「…そうか」
……風早。…陛下に会っていけと言ったのに。
「忍人さんは、何か悪い夢でも見たんですか?」
独りごちていると改めて千尋から問われた。忍人はゆっくりと首を横に振る。
「いや。……夢は見た。…だが、いい夢だった」
……とてもとても、いい夢だった。
「もう大丈夫だ。…御前を少し失礼する。兵達の様子を見てきたい」
言い訳をしてそっと執務室を下がり、忍人は回廊へ出た。
見上げた空に、かすか冬の気配。
まだ彼の声が耳に残る。…甘く、己を呼ぶ。
……おしひと、…と。