石蕗

竹簡を調べている間に、自分はいつの間にか眠り込んでいたらしい。
板戸の隙間からもれてくる朝日の鋭いまぶしさに、柊ははっと顔を上げた。いつの間に朝
になったのだろう。燃え尽きた獣脂の匂いが部屋の中に立ちこめている。…火には用心し
なければならないのに私としたことが、と小さく嘆息する。
それにしても日差しがまぶしい。
太陽の角度のせいだろうか、もう冬至も近いことだし、とぼんやり考えながら板戸を押し
開けて、柊ははっとした。
昨日は黒々としていた土の上が、一面真っ白になっている。夜半、雨の音を聞いたように
思ったが、どうやら自分が眠り込んだ後で雪に変わったらしい。白い雪の反射で、いつも
よりも朝の光がまぶしいのだ。
「…初雪、ですか」
つぶやいて、ふと眉を寄せる。
……あの花は、どうしたろう。
思いついたら気になってたまらなくなってしまって、柊は板戸をもう一度閉め直し、足早
に部屋を出た。

宮の朝は早い。
特に冬場は日が短いので、皆夜明け前から火をともして一日の仕事を始める。采女たちが
ぱたぱたと回廊を行き交う。下働きの者たちも火を熾し、湯を沸かし、床を掃き清める。
女王も身支度は灯火のもとですませて、夜明けと共に執務を開始する。
だから、太陽がすっかり昇ってしまったこんな時間には、警護を行う兵達以外は皆それぞ
れの室内での仕事に追われていて、回廊を行き交う姿は少ない。
人気のない回廊を、なお人気のない方向へ柊は歩いていた。
彼が向かっているのは書庫だ。正確には書庫に面した小さな庭だ。
目的の場所へ向かう回廊をたどってその坪庭に足を踏み入れた瞬間、柊は思わず足を止め
た。
先客がいる。
影のように黒衣をまとったその人物は、通りがかりにふと心惹かれたという風情で、真正
面からではなく回廊の中から顔を傾けてそれを見ていた。
日の光もまだほとんど差し込まないそこは、真綿のような雪ですら、青紫にもったりと重
い色をしている。
その重い色をした雪の上、くっきりと緑の長い茎を伸ばして、明るい黄色い花が一輪開い
ている。
石蕗だ。
葉は雪に覆われてしまって見えないが、花はしおれもせず、明るい色で咲いていて、柊を
安堵させた。
ほっと胸に手を置いたとき、ゆるりと前方の人物が振り返った。
「…柊か」
忍人は静かな声でつぶやく。澄んだ眼が射抜くように柊を見る。
「……あなたがこんなところに来るのは珍しいですね」
視線から逃げるようにうっすら笑って眼を細めると、忍人はゆるりと肩をすくめた。
「古い地図がないかと書庫に来たんだが、この花が目についたので」
そして石蕗に向き直り、
「けなげだな」
ぽつりと言った。
「寒さに耐え、日が当たらなくても拗ねずにまっすぐ茎を伸ばして、その上に明るい花を
咲かせる」
柊も回廊を回って忍人の傍らに歩を進める。気配は気付いたろうに、忍人は向き直らない。
静かに石蕗を見つめている。
「寒さに耐えて咲く花は他にもある。陽光を求めずに育つ草も。だがその状況でこんな朗
らかな花を開くのは、石蕗くらいではないか」
静かなため息が彼の口をついて出た。
「…この花を見ると、布都彦を思い出す」
はっと柊は息を吸った。その呼気に忍人が振り返り、柊の顔を見て少し驚いた顔をした。
己の顔にはおそらく隠しきれない驚きの色が出たのだろう。
「俺は何かおかしなことを言ったか」
「…いえ、…君が私の考えと同じことを口にしたので、驚いてしまって」
「何故驚く」
「…それは…」
柊が口ごもると、忍人は眉をひそめた。それから何かに思い当たった表情で、ついと顔を
背ける。
「…相変わらず、俺を子供のままだと思っているのだろう」
その言葉に、柊ははたと目を見開いた。顔を背けていた忍人は柊のそのしぐさを見ていな
い。むっつりとした声で言葉を続ける。
「お前にとって、俺はずっと子供だった」
出会ったときは確かにそうだった。自分では大人のつもりでいたけれど、お前達から見れ
ばただの子供の背伸びに過ぎなかったろう。
「師君の屋敷にいたときはやむを得ない。だが、再会してからも、お前は心のどこかで俺
を子供扱いし続けてきた。それが、お前が見ているものが俺には見えないからか、それと
も別の理由なのかは知らないが」
柊は眼帯に隠されていない瞳をゆるゆるとすがめる。再会してからの忍人を子供扱いした
つもりはないと心の表面では否定しながらも、どこかで彼の言葉を否定しきれない己がい
た。
「だが柊」
改めて振り返った忍人はしかし、…かすかながら微笑んでいた。
「…?」
「子供はいつまでも子供ではない。いずれ追いついてくるものだ。…俺も、…布都彦も」
「…」
無言のままの柊に、たしなめるような声で言う。
「布都彦が俺のようにひねくれる前に、まっすぐ向き合ってやれ」
しかし、言ってからすぐに彼は、もっとも、と付け加えた。
「…布都彦がひねくれることなどないかもしれないな」
視線が再び石蕗の花に向けられる。
「どんな重荷を背負っても、どんな場所に置かれても、彼は日輪のような光を宿す。…ま
さしく、この石蕗の花のように」
そのきりりとした背中に、柊はぼそりとつぶやいた。
「君も、ひねくれてなどいませんよ」
忍人は大人になった今も、子供の頃と変わらずまっすぐだ。どんな運命が待ち受けていて
も、どんな戦場の中へでも、ためらいもせず、まっすぐに歩いていく。それは、石蕗の花
の茎が、ねじけることなどなくまっすぐ伸びる様にも似て。
「そう思うのはお前が俺よりひねくれているからだ」
くくと笑う声の柔らかさを、彼が生きてここにいる運命を、愛おしく思う。

日がまた少し高くなったようだ。重苦しいような青に覆われていた庭が、少しずつ白く輝
きだし、扉が開くように影が払われていく。
柊は静かに瞑目した。
まぶたを閉じても感じる冬の光の清冽さ鋭さに、目の前の青年を重ねながら。